弟が三人と妹が四人、そのうち乳飲み子が二人ともなれば商家に入ることは自然で、わたしが奉公に出されたのは十つのときでした。
 淋しさがなかったと言えば嘘になるかもしれません。けれども、老いた父と痩せた母の背中を見れば嫌とは言えず、わたしは身ひとつでその家に入ったのでした。百年あまりつづく由緒ある商いの家だときいたところで当時のわたしは何も感じることもなく、お屋敷の大きさにただただ圧倒されるばかり。とはいえ、わたしに許されたのは母屋ではなく離れの限られた場所のみ、すなわち坊ちゃんの生きるせかいのすべてはそこだけだったのです。
 旦那様と奥様との間には男子がふたり、私とおなじ歳にあった上の坊ちゃんのことをとんと覚えてはおりません。その顔にしても思い出せるかどうか。顔を合わせることなど片手で数えるくらいだったので仕方のないことなのでしょう。ですから、わたしにとっての坊ちゃんというひとは、後にも先にもあの方ひとりということです。
 坊ちゃんはわたしよりも四つ下でしたがおなじ年の頃の男児よりも線が細く、南蛮の陶器を思わせる肌の白さがまず印象に残りました。他のねえやたちは生まれつきに片足が不自由であった坊ちゃんに関わるのを嫌がり、ほとんど押しつけられるようにわたしは坊ちゃんの身の回りの世話をしておりました。自由に歩くことができないために陰鬱な屋敷の中に射す光を好んでいたのでしょうか。食事や寝起きをする部屋は一階でも、午後からの陽射しをたのしむために坊ちゃんは二階へとあがりたがるものですから、わたしは坊ちゃんのちいさい身体を何度となく背負ったものです。このように坊ちゃんの我が儘とも呼べないほどの些細な頼みでも、他のねえやたちからすればそれはいとわしかったのかもしれません。沐浴や排泄の世話にしてもなかなかの労苦が付きものでしたし、それが毎日ともなれば嫌になるのも当然のこと、奥様にしても旦那様にしてもこの離れにとんと近寄らずに、そのくせ下女や下男に厳しい言葉をぶつけてきます。
 されども、坊ちゃんは大人しいこどもでしたから癇癪持ちの弟たちよりかはずっと扱いやすく、それも今思えば聞き分けの良い子どもを演じていたのかもしれません。そうして、大人たちの顔色をうかがうような坊ちゃんが賢い子どもであったことも、誰も気がついてはいないようでした。坊ちゃんはさほど口数の多い子どもではありませんでしたし、一日のほとんどをただぼんやりとすごします。大人からすればそれは薄気味の悪い子どもに見えたようでした。ですから、旦那様は坊ちゃんにたくさんの本を与えたのかもしれません。まだ幼い坊ちゃんには文字を読むことができずに、わたしは坊ちゃんに読みきかせをしておりました。貧しい家で育ったわたしでも父が教育の仕事に携わっていたこともあり、読むことにそれほど苦労はしませんでしたので、それは幸いなことだったように思います。そうして本の中に入る坊ちゃんの一日も繰り返されてゆけば、やがて飽きもくるのでしょう。次に旦那様がくださったのは、書くための道具でした。
 わたしは坊ちゃんといっしょに文字を書く練習をしました。けれど、それは坊ちゃんにとってはとても単調な時間であったのようです。そのうちにやめてしまい、何にもないときをすごすだけの毎日に戻ってしまいます。坊ちゃんは好奇心の強い子どもではありませんでした。わたしが本を読みきかせているときだっておはなしをきいているようでいて、実際は挿画を眺めているくらいでしたから。わたしがそのことに気がついたのは随分と後のこと、ほんの思いつきで坊ちゃんに絵を描くことを提案したのです。はじめこそは見様見真似でも、坊ちゃんがそれに熱中するにはさほど時は掛かりませんでした。そうです。大袈裟かもしれませんが、坊ちゃんの人生はそこからはじまり、止まっていた時はそうして動き出したのです。
 模写のたのしさを覚えた坊ちゃんは自分だけの足で動くこともはじめました。流れる雲を追う日もあれば庭の木を熱心に描写する。二階の部屋は坊ちゃんのちいさな画室となり、わたしの助けがなくとも獣のように四つ足を使いながら階をあがります。そうすればわたしの仕事も少なくなり、そのうちに奥様に呼び出されて下女の仕事をするようになりました。坊ちゃんの心はすっかり絵画に取り憑かれてしまい、わたしが傍にいなくとも別段淋しがったりをしません。わたしにしても生家と坊ちゃんの離れの部屋だけが見知ったせかいでありましたので、他のねえやとも下女や下男と接するのもそれがはじめてでした。先に申し上げたとおり、この家の奥様はとても厳しい方でしたので、使用人たちが無駄な言葉を交わすことを許しません。すこしでも怠惰が見えれば平手で殴られることなどしょっちゅうのこと、ですからねえやたちも下女や下男もわたしに構うことをしませんでした。決まった仕事を黙々とこなしているだけのわたしは数日誰とも口をきかないなど多々ありましたし、気まぐれに坊ちゃんが話しかけてくださったときだって咄嗟に声が出ずに、「おまえは喋れなくなったの?」と言われたくらいでした。
 わたしが旦那様に直接声を掛けられたのは数え年で十二を迎えた頃でした。
 ちょうどそのときくりやは大忙しのときでしたから他の下女もたくさんいましたし、皆の、特に他のねえやたちの視線は殊に冷たいものでした。母屋のいちばん奥が旦那様の臥房がぼうにあたり、まだ明るいその時間でも布団は敷かれておりました。恋も愛も知らないわたしは性のことなどひとつもわかりません。わたしはなにかの粗相をしてしまったのではないかと冷たい畳の上で震えておりましたから、旦那様のわたしを見る目が劣情のそれであることなど思いもしません。狭衣さごろもを脱がされ、まだ女の膨らみなどないわたしの身体が露わになってもなお何をされているのかわからずに、ただ全身を這う生温かい蛞蝓なめくじの感触は厭わしく、破瓜はかの傷みにはさすがに声をあげそうにもなりましたが、逆らえば折檻を受けることだけは理解しておりましたので耐える他はありませんでした。そうして、男の欲望が纏わり付いた身体を起こしたときに、やっとわたしはねえやたちの視線の意味を知ったのです。
 その日以来、わたしは再々旦那様の臥房に誘い込まれました。
 下女の仕事をする傍らで旦那様との房事ぼうじは周知の事実でしたがそれでもけっして奥様にだけは知られてはなりません。旦那様の漁色ぎょしょくはこれよりもずっと前のことで、外には何人も情人がいるのだとねえやたちにこそりと教えられたわたしはやはりおそろしさに縮こまるだけです。そのうちに坊ちゃんのお世話よりも旦那様との時間が多くなり、わたしはそれが苦痛で溜まらなくなりました。いちどだけ抵抗をしたこともありましたが、酷く頬を殴られてしまいましたので、すぐに諦めてしまいました。おなじ頃にわたしは下男のひとりと仲良くなります。藤吉という名で、わたしと彼の古里が近しいことから会話をしたのが最初でした。下男の中でも年少の藤吉はなにかと理由を付けて仕事を押しつけられてばかり、そういうところもわたしと似ていたのかもしれません。房事から戻ったわたしには食事など残っておりませんでしたが、藤吉は時々握り飯を分けてくれました。身体の大きい藤吉のことを坊ちゃんもなついていたように思います。もしわたしが、慕情というものを感じ取ることができたならばと、当時の記憶を辿ってみるのですが、しかしやはりそれとは違う感情だったのでしょう。藤吉にしてもわたしに対する言葉や行動は憐憫にも似ていましたし、だいたいそのような気持ちがあったところで何ひとつだって変えられません。
 藤吉との関係が変わったのはもうすこし先のこと、その年の春先に上の坊ちゃんが亡くなりました。持病などもきかなかったので急な病だったのでしょう。半狂乱となって泣き喚いた奥様とは対照的に旦那様は殊に静かなものでした。奥様と藤吉との秘め事がはじまったのはおそらくはここからで、後にそれを知ったわたしは半身を捥がれたような気持ちになりました。さらに追い打ちを掛けるかのように藤吉はわたしを求めてきます。それとなく距離を置いたのが藤吉の矜持を傷つけたのでしょう。これまで好意的であった藤吉は急に冷たくなりました。わたしが藤吉に抱いていた感情は友情のそれでありましたから、酷く傷ついていたことをよく覚えています。藤吉のあの目はたしかにわたしを蔑んでおりました。
 藤吉が死んだのは真冬の特に寒い日でした。
 わたしの古里とは違ってこのあたりに雪が積もるのはとんとめずらしく、藤吉は朝も早いうちから雪かきを任されておりました。藤吉にしてもそれは手慣れたもので、危なげなく屋根に積もった雪を下ろしていきます。わたしは遠くからそれを眺めておりましたので、藤吉が死んだのは屋根から落ちたせいではないことを知っていました。藤吉と奥様の秘め事はつづいていて、されどとうとう旦那様に届いてしまったのでしょう。翌朝、冷たくなった藤吉の身体のあちこちに殴打の跡がありました。皆は不幸な事故だったと言うだけで本当のことには触れたりはしません。旦那様はああいう気質の方でしたが、しかしこればかりは悋気りんきを起こしたのでしょう。それなのにわたしはいまだに旦那様に抱かれているのです。
 桜の季節を迎える頃、坊ちゃんの背はわたしを追い越しておりました。
 実の兄のことも藤吉のことも、坊ちゃんはなんにもなかったかのように絵を描きつづけています。大人へと近づくにつれて、坊ちゃんは以前よりも口数がすくなくなっておりました。坊ちゃんの部屋には数え切れないほどの素描きでいっぱいです。これまでは風景や、あるいは想像のなかの抽象的な絵を描くことを好んでいた坊ちゃんでしたが、あるときわたしは坊ちゃんに呼び出されました。そうです。坊ちゃんの素描きのなかにわたしの姿が加えられたのです。それからの毎日にはその時間が増えて、そのうちに坊ちゃんはわたしの裸体を求めるようになりました。はじめは羞恥心から嫌悪を感じていたわたしでしたが、坊ちゃんの言うことは何だって叶えてやりたいその一心で応じることとなりました。坊ちゃんとわたしの時間は他人が想像するようないやらしいものではありませんでしたから、わたしはこの時間が嫌いではなかったように思います。そして、坊ちゃんは時折語ってくれます。南蛮の神の母は処女であったのだと。それにしてはおかしな話です。母であるならば童女であるはずがありません。坊ちゃんはわたしを描きながらもそこに生神女マリヤを見ていたようでした。それこそ、畏れ多いことです。わたしの肉体はとっくに汚れていて、なによりわたしはうつくしい女ではありませんでしたから。  
されども、男と女という生き物であれば、やはりそのときはやってくるのかもしれません。
 ちいさい頃からお世話をして見守ってきた坊ちゃんのことを、わたしは聖人とでも思っていたのでしょうか。それは酷い裏切りのように思えました。旦那様に犯されつづけたわたしは男女のまぐわいを汚らしいものだと認識しておりました。それに、わたしは坊ちゃんのなかに見える男の本性が旦那様に重なっておそろしくてなりません。わたしは坊ちゃんから逃げてしまいました。ほどなくして、わたしは旦那様から暇を申しつけられます。坊ちゃんがわたしを捨てたのでしょうか。いいえ、ちがいます。ちょうどこの頃、奥様がお子を授かっておりました。旦那様は殊更奥様を大事に扱い、ですからわたしという存在がそこにいてはいけなくなったのでしょう。十八の齢のわたしはすでに行き遅れておりましたので、余所へと行く当てもなければ今さら古里にも戻れません。伝手もなにもないままわたしが流れ着いたのは大衆食堂でした。
 女将がひとりで切り盛りする食堂には働き手は貴重だったのでしょう。とはいえ、寝泊まりは許されても三食の食事は別でわたしの安月給ではとても生活はできません。女将に言われるがまま、わたしは客を相手に身体を売ります。不特定多数の相手と関係を結んだわたしの腹はそのうちに膨らみますがどこの誰に孕まされたのかもわからないまま、女将に教唆きょうさされてわたしは三度堕胎しました。四人目の子を殺した後、わたしは新聞で旦那様と奥様が亡くなったことを知りました。火事だったそうです。母屋の焼け跡からは老夫婦と幼子が見つかったと書かれておりましたが、そこに坊ちゃんの名前はありませんでした。五人目の子どもを隠れて育てていたことが見つかったわたしは女将に大衆食堂を追い出されて、そうしてようやく産み落としたその子も女手一つでは立ち行かなくなり、金持ちの夫婦に手渡してしまいます。受け取った金もすぐに尽きてしまい、わたしは転々としながら淫らな生活をつづけてゆきます。あれほど忌まわしく感じていた交接も己の欲には勝てなかったのです。
 わたしがそうして堕落してゆく一方で世間を揺るがす事件が起こりました。新聞を持つ手が震えてしまったのはそこに覚えのある名前が載っていたからでしょう。暴動を起こした主犯格のひとりだと見なされた坊ちゃんは逮捕され、ろくな裁判も受けさせてもらえないまま極刑となりました。わたしの頬を伝わる冷たい雫は坊ちゃんを思ってではなく、わたしがまだ清らかであると信じていた頃の思い出をそこで失ったことからでしょう。あの日、わたしを生神女マリヤに例えた愚かな坊ちゃんは己の心の行くままに生きることができたのか。わたしにはわかりません。ともかく、わたしはずっとひとりのままに生きてゆきました。
 四十を過ぎたわたしに白髪が目立ちはじめました。結婚をせずに独り身のわたしでしたが手元に許すくらいの金の余裕ができてきたので、借金をして家を買いました。綿工場と家との往復の毎日でも、わたしのたのしみは月に一度だけ喫茶店に行くことでした。わたしが注文するのはいつだって珈琲のみ。いつかは具がぎっしり詰まったサンドイッチを食べてみたいものです。いつものように珈琲を啜っていたわたしはふとあることに気がつきます。殺風景だった壁に飾られた絵画のなかの女はややこを抱いておりました。店主の話では、あれは南蛮の神の母だというのです。わたしはそのとき坊ちゃんの描いた絵を思い出しました。火事で焼けた屋敷には坊ちゃんの素描きなんてひとつも残っておりません。それに、坊ちゃんは生神女マリヤではなくわたしを描いていたのです。あの日、坊ちゃんを裏切ったわたしのことを。不義の関係を結びながらも、稚い坊ちゃんに恋したわたしのことを。


生神女の裏切り

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