時の魔女は塔に一人で住んでいる。
 天までつづくくらいの螺旋を描いた硝子の階段は、うつくしもあると同時にひどく頼りなくも見えるようで、時の魔女が耳を澄まさずとも来訪者を教えてくれる。ある者は勇者のように、ある者は聖者のごとく、またある者は愚者のその足で、しかしどうだろうか。時の魔女に届いた音はそのどれでもなかった。
 時の魔女は願いをひとつだけ叶えてくれる。
 声はそれぞれでも、けっきょく誰しもが過去を求めるのはいつものことだった。絶望に、羨望に、悔恨に、慚愧に。時の魔女にとって時間を戻すことなどたやすいもので、けれども時の魔女はその代償をひとつだけ頂く。左右で異なる色をした目、光を溶かしたような白金の髪の毛、雪花石膏の足または手、心臓はまだ動いている。記憶、あるいは心などといった目に見えないものもそこここに浮かんでいて、時の魔女の周りはいつだって散らかっていた。
 時の魔女のいる最上階へとたどり着いたのは少年だった。ひとつひとつを、たしかめるような足取りは絡まって転んでしまう。倒れると一緒に何かを巻き込んだようで、砕け散る音だけがした。
「ごめんなさい。ゆるしてください」
 少年は壊してしまったそれを手探りで掻き集めている。もっとも、少年の目が見えたところで掴めはしない。心は形を持たないのだから。
「かまわない。それは、わたしのものではないから」
 でも、とつづける少年に時の魔女はおまえのねがいはと、問う。
「ぼくが生まれる前に戻してほしいのです。いちばんさいしょの、何もなかった頃に」
 少年は時の魔女の声を待った。人が願いを口にするときにはその理由をべらべらと喋りつづけるものでも、少年はそれをしなかった。時の魔女は盲目の少年の願いに応じて、瞬きをしたその次には少年の姿はなくなっていた。時の魔女が時間を操るのは呼吸をするくらいに簡単で、時の魔女が少年から奪ったのは暗闇だった。同情といった人間の感情を時の魔女は持たないけれど、ついさっき少年が壊してしまったのは誰かの心で、あるいは気まぐれな時の魔女をそうさせたのかもしれない。心は鈍色の光を失い、そのうちに消えた。


時の魔女と盲目の少年

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