六章 あるべき場所へ

聖騎士の帰還 2

 鼻歌がきこえてくる。今日は朝からずっと機嫌が良いらしく、ダミアンは私室で公務をこなしている。父親がああいう人ですからね、つまりは丸投げというわけです。まったくいい迷惑ですよ。そう言って笑うダミアンの表情は落ち着いているし、やはり上機嫌のようだ。
 ダミアンの私室には独特のにおいが漂っている。
 充満しているとでもいうべきだろうか。その香りを言葉で表現するのはなかなかむずかしく、かといって不快にも感じないのは、すこし慣れたからかもしれない。
 ダミアンはずっと何かの器具を向き合っている。
 これもね、サリタから取り寄せたものなのですよ。ああ、正確には海の向こうの。そうして次に麻袋のなかから焦げ茶色の粒を取り出す。これが珈琲コーヒー豆です。レオナは瞬きを繰り返す。木箱の上には車輪のようなものが付いていて、ダミアンが取っ手の部分を回すとガリガリと何かを削る音がきこえてきた。ダミアンが微笑んでいる。こうやって豆を挽くんですよ。ね? いい香りがしてきたでしょう? たのしそうに説明をされたところで、レオナにはその仕組みが理解できない。
 相槌に困っているとダミアンが意地悪っぽい笑みを浮かべながら、今度は丸型の硝子器具に湯を注ぎはじめた。ここまできて、やっとわかった。インク色の液体が滴り落ちてくる。時間をかけてゆっくりと。ダミアンは鼻歌をつづけている。どうにもそわそわしてしまうのは、はじめて見る器具に好奇心が疼いているせいか、それともこの部屋にレオナとダミアンと二人きりのせいか。きっと、どっちもだ。
 働かざる者は食うべからず。
 アストレアの民はやはりその精神のようで、領主の館に来て二日目にはそうなった。朝食を終えたレオナの前に現れた女性が侍女のような格好をしていたので、はじめはその人がバルタザール伯の妻女だとは思わなかった。
 彼女はまず着替えを渡してくる。ぱちくりするレオナににっこりと笑んで、お召しものが汚れてしまいますからねと、それだけ。
「お待ちください、この方は」
「あらあ、王女様だってここの野菜を召しあがったでしょう? ちゃあんと働いていただかないと、ねえ?」 
 ルテキアが閉口する。もっともな言葉だった。
「だいじょうぶ。私、こういうの慣れてるから」
 袖を捲りあげながらシャルロットが言う。少女はオリシス公爵家に入る前に教会でお世話になっていたというから、畑仕事もしていたのかもしれない。
 見様見真似でレオナも彼女たちにつづく。そうして、レオナたちよりも先に畑仕事をしていた中年の男性こそがバルタザール伯だと知ったのは、一日ここで働いた夕方になってからだ。
 夏野菜の収穫でもっとも忙しいのがいまの時期らしく、ルテキアとシャルロットは今日も領主の畑に駆り出されている。はじめてみると意外とたのしい。レオナもそのつもりだったが、今朝はダミアンに呼ばれて小一時間はここにいる。
「さあ、どうぞ。できましたよ」
 カップに注がれた液体はどう見てもインクにしか見えない。ダミアンが挑戦的な目をしている。レオナは一口飲んでみたものの、やっぱり負けてしまった。
「王女サマはお子様でいらっしゃる。ミルクと砂糖をお持ちしましょうね」
 強がったところで苦いものは苦い。レオナは素直にうなずいた。正直でよろしい。そういう笑みをダミアンはする。ミルクと砂糖を混ぜてやっと琥珀色に変わった。これならずっとまろやかになって飲みやすい。
「ありがとう。……それで、わたしに用件というのは?」
「ああ、別に。珈琲の良さを広めたかっただけです」
 呼びつけておいてこの返答。ダミアンという男はどこまでも自分を崩さない人間らしい。レオナはため息をぐっと堪える。
「まあ、先日の返事をいただけるとばかりに思っていましたのに」
「へええ、あなたは存外せっかちな方なのですねえ。公子はもっと辛抱強いたちでしたよ」
 ダミアンの視線はレオナに向かずに机上の羊皮紙に注がれている。まともに相手をする気もないのだろうか。たとえ幼なじみでも、ずっとこの館に閉じ込められた上に、話も通じない相手ならばそれなりの声をする。
 でも、短気を起こしてはだめだ。
 北の領主の力は大きい。結果的にバルタザール伯の戦力が当てにできなかったとしても、それでも牽制となるのなら頼るのは当然だ。未だにアストレアを手放そうとしないランドルフは北を見逃さないし、ここに気を取られているうちに幼なじみたちも動きやすくなる。
 根気強く待つことだって戦いだ。レオナはそう自分に言いきかせる。だとしても、弱みを見せるわけにはいかない。ダミアンの趣味に付き合うつもりはなければ、畑仕事を手伝うためにここに来たわけじゃない。
 何を切り札にたたかえばいいのだろう。
 レオナはずっとそればかりを考える。この男の思考がまったく読めないのがもどかしくなる。わざわざ薬を使いルテキアとシャルロットを眠らせて、そうしてレオナと二人きりになるのを望んだというのに、こちらの声を皆まできいたあとの答えは保留のままだ。
 短気を起こしてはだめ。レオナは繰り返す。ダミアンがベルを鳴らして扈従こじゅうを呼ぶ。どこに宛てた書状なのか、レオナは注意深く観察する。
「気になります?」
「答えていただけるのかしら?」
 そうは思わない。
「まあ、もうすこしだけ待ってください。いまはまだ早い」
「そんな時間は」
「いいえ、大ありですね。公子が城下にすらたどり着いていないのに、我々が動くわけにはいかないでしょう?」
 そのとおりだ。レオナはうつむく。カップはとっくに空になっていた。
「だいたい、自分の力だけで自分の国ひとつを取り戻せないような男を、聖騎士だと誰が認めますか?」
 幼なじみはアナクレオンの申し出を断った。だからアストレアに入っている仲間は数えるほどだけ、国を奪還するには心許ない数だ。それでも、アストレアの民は待っている。聖騎士の帰還を待っている。彼の言うとおりかもしれない。幼なじみは聖騎士である前にこの国の公子だ。
「いいえ」
 レオナはまっすぐにダミアンを見つめる。偽りのないその目で、その声で。
「わたしがいる。彼を信じる人がいなかったとしても、認める人がいなくなったとしても、わたしが傍にいる」
 ブレイヴがずっと傍にいてくれたように、レオナを守りつづけてくれたように。他にできることなんて何もない。必要なのは信頼とそれから――。
「ブレイヴは、わたしの騎士です」
 絶対に揺らがない絆がある。心がある。拍手が起こった。ダミアンだ。幼なじみとは従兄弟同士、血が繋がっているのにブレイヴを心から信じていない。だから、こんな声をする。
「強い強い。いやあ、まいりましたよ。でも、あなたのような人は嫌いじゃない」
 レオナはにっこりする。清冽な湖とおなじ色が見える。幼なじみの目によく似ている。嘘を見抜くのは簡単だ。それにはまず相手と対等でなければならない。
 わたしは、迷わない。そうだ、いまできることなんて限られている。
「あなたを、信じます」
 アストレアを取り戻してやっと落ち着いたとしても、バルタザール伯と妻女は畑仕事が忙しいと、祝福は手紙だけで済ませるだろう。でも、ダミアンは来てくれる。幼なじみの部屋で珈琲を淹れて、この独特のにおいを充満させながら上機嫌で笑う。レオナは焼き菓子を用意して二人に振る舞う。その頃にはきっと、ダミアンとも友達になれる。









「はい、終わりましたよ。もう動いても大丈夫です」
 白皙の聖職者が言う。痛みがまず消えて、傷も綺麗になくなった。左腕の感覚も戻ってくる。
「ありがとう。本当に助かった」
 さすがは聖職者だ。疲れているはずなのに彼は嫌な顔ひとつせずに、完全に傷を癒やすまでの時間にしてもわずかだった。王家の姫君にもけっして劣らない治癒魔法の使い手だ。
「それから、こちらは着替えです」
 ブレイヴはうなずく。血糊で固まったシャツの汚れを落とすのは大変だろう。白皙の聖職者は皆の衣服を籠のなかに詰め込んでいる。これから洗濯に取りかかるらしい。この手際の良さも、彼がずっと後方の仕事を引き受けていてくれたからだ。
 合流が遅れていたならば、そう考えるとぞっとする。
 ブレイヴの傍にはセルジュとアステアがいる。しかしエーベル兄弟の口数は少なめだ。セルジュは右肩をやられてしまい、アステアは魔力のほとんどを使っていた。
 山毛欅の森で突然襲撃を受けた。混戦となるのは必須で、それにこんな怪我をしたのもひさしぶりだった。幼なじみが知ったら怒るかもしれない。
 ブレイヴとセルジュの応急処置をしたのはアステアだった。魔道士の少年は短剣を所持しているものの、実戦で使えるかどうかは怪しいところ、ブレイヴは魔道士の少年を守りながら戦った。それを歯痒く感じているのだろう。主君と軍師と。本来ならば自分が守るべく人間に守られてしまったのだから。
「僕が治癒魔法を使えていたら……」
 ちいさなつぶやきでも、狭い部屋のなかでは全員に伝わる。クリスは自分の仕事をつづけているし、彼の主人であるフレイアもそれを手伝っている。セルジュはだんまりを決め込んでいるからきこえていない振りをする。内に眠る魔力をどう使うか。攻撃魔法を極めるにしても、治癒や防護の魔法を学ぶにしても両立はむずかしい。そんなことが可能なのは王家の姫君だけだ。
 ブレイヴは兄弟を見る。やはり二人ともいつもよりずっと大人しい。クリスとフレイアが出て行って、その入れちがいにノエルが戻ってきた。うしろには中年の男がいる。
「お連れしました。話はもうできそうですか?」
 ちょうど着替え終えたところだった。セルジュも軍師の顔に戻っている。
「公子。あなたの帰還をアストレアの民はずっと信じておりました。しかしながら、私どもがもうすこし早く動けていればと思うと、悔やまれてなりません」
 男は聖騎士の前で膝を折る。ブレイヴはその視線に目を合わせた。
「どうか顔をあげてほしい。あなた方の助けがなければ、私たちはここにいなかった」
 男は驚いて頭をあげたものの、またすぐにうつむいた。その目には涙が見える。
 切望していた公子の帰郷だった。それなのにここに来て間に合わなかったなんて、悔やんでも悔やみきれないと、そんな顔をしている。
 思い詰めることなんてない。ブレイヴは男の肩をたたく。ノエルが先に接触してくれていたおかげで九死に一生を得た。この男はエーベル家の縁者だ。おそらく、あちらから指示されていたはずで、つまりセルジュの手紙はちゃんと届いていたのだ。
 それから、ブレイヴがアストレアを離れていたこの一年をきいた。
 思ったよりは悪くないのはエレノアの力と、北にバルタザール伯とダミアンがいたからだ。アストレアの蒼天騎士団はもとより、名だたる諸侯らも監視されているために自由は制限されている。それでもこうした目の届かない場所にいる者たちのおかげで、ブレイヴは助けられている。アストレアの城も、もう目と鼻の先だ。
「城内にはランドルフとその麾下を含めて、残っている騎士はそれほど多くはありません。蒼天騎士団の力があれば戦えない相手ではないかと……。しかし、城主の許しがなければそれまでです」
 エレノアらしいと、ブレイヴは微笑する。心配しなくとも自分の国はちゃんと自分の力で取り戻す。そのつもりだ。
「それに、気になるのがあの黒い騎士です」
「黒い騎士?」
 男はうなずく。
「はい。仮面をつけた黒髪の騎士が、ランドルフの傍にいます。半年ほど前でしょうか。血気に逸る少年騎士たちがランドルフに楯突き、少年らは仮面の騎士の手にかかりました」
 それだけの実力者があの男の麾下というなら厄介だ。しかし、そんな容貌をした騎士がランドルフの傍にいただろうか。城塞都市ガレリア、それにサリタ。見覚えはない。
「わかった。十分に気をつける。他にも気になることがあったなら、報告してほしい」
「はい、もちろんです。……ですが、いまはともかく身体を休めてください。食事もすぐにお持ちいたします」
 ようやく男の顔があがった。退出し、足音が遠くなったのをたしかめてからノエルが言う。
「こちらは攻撃を受けることもありませんでしたし、ここまで特に誰何されることもありませんでした。どの村や町でも歓迎されたのはクリスさんと一緒だったからです」
 アストレアがこういう状況下にあるからこそ、敬虔なヴァルハルワ教徒は受け入れられる。司祭となればなおさらだ。
「だが、こちらの動きは筒抜けだった」
 セルジュだ。軍師がずっと無言だったのは、こうして匿われても警戒を怠っていないためだ。
「密告者がいると、兄上はそう考えているのですね?」
 魔道士の少年ははっきりと物を言う。ブレイヴもノエルと目顔で会話する。そうだとしても見つけ出すような時間もなければ、疑い出せば動くに動けなくなる。
「エーベル家もですが、他の者たちも戦力は整っているそうです。公子、あとはあなたの声ひとつで」
「わかっている」
 ノエルはめずらしく焦っているようにも見える。あとは時宜を得るだけ、それなのに妙な既視感があるのはどうしてだろう。ずっと西の果て、サラザールのときみたいだ。国を取り戻すにはたくさんの人間が動いて、たくさんの人間が死ぬ。
「そういえば……」
「どうした?」
 魔道士の少年が急に立ちあがった。
「いえ、すみません。あのあとすぐに混戦となりましたから言うのが遅れてしまいました。魔法の宝玉が割れるのを感知しました。兄上は、気づいていましたか?」
 軍師は首を横に振る。わずかな魔力を感知するのは困難であり、なによりもそのあとが大変だった。
「レナードが」
 皆の視線が集まる。先にアストレアを目指していたはずのレナードとデューイ。城内へと侵入して蒼天騎士団団長トリスタン、もしくは城主であるエレノアと接触できたそのときに、あれを割るようにと命じてある。あるいは、自身の身に危険が迫り、これを達成できないことを知らせるために。
「公子はずいぶんとレナードを信用しているようですが、私からすればまだ見習いとほとんど変わらない騎士です。彼らが失敗をしようとも、ここまで来たら関係ありません」
 気色ばむノエルをブレイヴは目顔で制する。軍師の言葉はもっともだが言い方が悪い。誰一人欠けずとしてアストレアに戻るなど不可能だった。ジークがここにいたらおなじ声をしただろうか。
「セルジュ、これからの策を」
「必要ありません」
 ブレイヴは目を瞬く。
「我々は帰ってきたのです。策を講じるつもりはありませんし、地下水路を使って裏口から侵入するなど以ての外。堂々となさればいい。あなたは聖騎士である前に、この国の公子なのですから」
 うしろでアステアとノエルがくすくす笑っている。まったく素直じゃない。どこかセルジュらしくないと感じるのも、ひさしぶりの故郷だからだろうか。そうだ。ここが、あるべき場所。ブレイヴも、彼らも、ここが帰るべき場所なのだ。


 

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