六章 あるべき場所へ

女神の加護とともに 1

 焦げくさいにおいがする。けれども黒煙はここからでは見えずに、城内の様子も知ることは叶わない。
 女たちは家に閉じ籠もっている。子どもたちは母親の腕のなかで震えているのだろうか。残っているのは女と子どもばかりで、まだ成人にも満たない少年たちも母親が止めるのを無視して行ってしまった。若者たちに負けてはいられないと、老爺もくわや大工仕事で使うつちを持ち出している。仕様がないじいさんたちだねえ。老婦は呆れながらも笑って、そうしてまた大鍋へと視線を戻す。キノコと根菜がたっぷり入ったスープは、疲れて帰ってきた男たちを癒やしてくれる。
 娘たちは寝台を整えて、消毒液や包帯の準備をする。皆は怪我をして帰って来るはずだから、彼女たちが本当に忙しくなるのは夜になってからだ。ぼろぼろになって戻ってきた恋人を前に泣く娘はほとんどいない。傷が痛いだなんて騒いだところで男たちは包帯でぐるぐる巻きにされるだけ、アストレアの女たちは皆こうやって生きてきた。
 既視感がある。そう、レオナは思った。
 民を虐げて圧政をつづけた悪い王を倒すために、西の果てサラザールで叛乱軍が立ちあがった。あのときは街に火を放って城から騎士を誘き出したけれど、いまはその逆だ。
 戦いがはじまっているのなら、すでに城内は混乱しているだろう。自分には何ができるのかを、レオナはずっと考えてきた。
「大丈夫だよ」
 女たちが声をそろえて言う。公子がこの国に帰ってきてくれたんだ。絶対に負けることなんてないし、みんなちゃんと戻ってくる。
 信じているからだ。そう、レオナはつぶやく。アストレアには女神がいる。アストレイアは正しき者を導くけれど、悪しき者は決して助けない。
「だいじょうぶだよ」
 そう言った少女の顔をレオナは見る。仕事の邪魔にならないようにと、綺麗に纏めた金髪は少女が毎日自分で結っている。しっかりと捲りあげた袖に、指先はあかぎれでぼろぼろだ。ぜんぶ終わったらルテキアが良い香りのする保湿剤を塗ってくれる。少女はすこしくすぐったそうにして、けれどまたすぐに手は荒れてしまう。きっと、あの手は少女の誇りなのだろう。
「いままでだって、ずっとそうだったでしょう?」
 背が伸びて、微笑むその表情も以前よりもずっと大人みたいに見える。義理母のテレーゼにもちゃんと目を合わせなかった少女が嘘みたいだ。 
 ほんとうは、オリシスに戻ることだってできたのに。王都マイアで迎えに来てくれたオリシスの騎士たちに向かって、少女ははっきりと言った。私はまだ戻れません。やるべきことが残っているから。拒む理由をあれこれ問われてもそれきり、ついぞ少女が首を縦に振ることはなかった。
 あれはきっと、あなたを真似ているんですよ。白皙の聖職者が言った。そうだろうか。レオナはちょっと首を傾げる。わたしは、こんなに頑固じゃないと、自分ではそう思うのだけれど。オリシスに帰りなさいだなんて言えば、じゃあどうしてレオナはアストレアに行くの? と返されてしまう。いまのシャルロットにはそのくらいのしたたかさは持っているし、度胸だってある。
「私は、すこし疑っていました」
 傍付きの声にレオナはきょとんとした。どういう意味だろう。レオナはちょっと考えてみる。まっすぐに見つめられて気まずさを感じたのか、ルテキアが先に目を逸らした。
「いえ……、案じているのは私もおなじですが」
「ルテキアが心配なのはレナードでしょう?」
 隣でシャルロットがくすくす笑っている。
 レナードやノエルよりも三つ年上のルテキアは先に騎士になった。彼女からすれば、遅れて蒼天騎士団に入ったレナードは、やっぱりどこか未熟な少年のままなのかもしれない。それに、騎士と一緒にいるのはデューイだ。そういえばルテキアは最初からデューイを警戒していた。いまも心を許せていないのなら、二人の身を案じるとともに神経をすり減らしているのは当然だ。 
「城内に行きたいと、そうおっしゃると思っていました」
 レオナは目を瞬かせる。そういうこと、ね。ずっと一緒にいるからこそ、ルテキアはレオナの性格をよく知っている。
「そこまで向こう見ずだと思うの?」
 目は逸らされたままだから、答えはきっと《《はい》》だ。
「行かないよ、レオナは。だって、行ってしまったら、私たちもいっしょに来てしまうから」
 レオナが笑って、ルテキアが咳払いする。
「そういう、こと。シャルロットの方が大人ね」
 きっと、一番年下の少女がこのなかで一番大人だ。アストレアに戻ってきてからというもの、最近の傍付きはすこし変だ。
「大変失礼いたしました」
「いいの、そういうの。わたしだって、ちゃんとわかっているの」
 城内の状況が不明だからこそ、下手に動くことなんてできない。女たちは男たちの帰りを信じて忙しく働いている。レオナはここで皆を守る義務があることだって、ちゃんとわかっている。
「信じて、待ちましょう。ダミアンのことも」
 レオナをここまで連れてきてくれたダミアンは、急にどこかに行ってしまった。同行させた侍従や騎士の数はそれほど多くなかったものの、ダミアンがあれこれと裏で手を回していたのをレオナは知っている。
「そう、ですね……」
 曖昧な声を返すルテキアには何か思うところでもあるようだ。元婚約者の関係というのがあるのかもしれない。あれきりルテキアはダミアンに関わりたくないようにも見える。
「さあ、そろそろ戻りましょうか」
 洗濯が終わったのならいつまでも外にいるわけにもいかない。仕事はまだまだたくさんで、なによりもここにいると他の娘たちが不安がってしまう。手伝います。ルテキアが手を差し出してくれたときだった。
 敷地内にはレオナたちしかいなかった。だから急に誰かが飛び出してくるとは思わずに、そしてそれが見知った顔ならばなおのこと。レオナは抱えようとした水桶をひっくり返してしまった。
「うわっ、いきなりなんだ!」
 まともに水を被った彼はそこで尻餅をついた。驚きのあまりとっさに声を紡げなかったレオナの前に傍付きが立つ。 
「お前……っ!」
「ん? なんだ、ルテキアか。ちょうどよかった」 
「よかった、だと? なんでお前がここにいる?」
「なんでって、ここがアストレアだからだよ」
「ふざけているのか?」
「ま、待ってルテキア。デューイも」
 いまにも剣を抜く勢いの傍付きと、どこか話の噛み合っていないデューイと、レオナは二人のあいだに割り込む。
「あなた、ひとりなの? レナードはどこに?」
「いやあ、あいつは……」
 それまで軽い口調だったデューイが急に神妙な顔つきになった。まさか、とレオナが唇が動く。彼は慌てて首を振った。
「ちがうちがう、そうじゃない! でも、ここで説明してる場合じゃないんだよ。俺はとにかく、知らせにきたんだ!」
「知らせって、」
「エレノアって人が、公子の母親だろ? その人が危ないって、」
「エレノア様が……っ!」
 デューイの胸倉を掴もうとするルテキアを、レオナとシャルロットの二人がかりで止める。ルテキアはレオナの傍付きになる前はエレノア付きの騎士だった。感情を抑えられないのも無理はない。
「待って、ルテキア」
 それにレナードの安否も不明なままだ。二人で呼びかければ幾分かは冷静さを取り戻したようで、やっとルテキアはデューイから離れた。不安そうに見つめるシャルロットにレオナはうなずく。だいじょうぶ。そう、繰り返す。
「信じて、待つの。だいじょうぶ。あの方はブレイヴのおかあさま……いいえ、アストレアの母ですもの」
 強くなりなさい。その人は言った。自分が強くなれたかなんてわからない。それでも、きっとエレノアはレオナに微笑んでくれる。自分の娘のように抱きしめてくれる。










 城内が混乱しているのは想定内だ。
 けれども、ごった返している回廊内で邪魔だとかどいてろだとか、とにかく怒鳴られたのは想定外。殺気立っているのは当然だろう。公子がアストレアに帰ってきた。皆はこの日が来るのを心待ちにしていた。
 ノエルは見知った顔がないかと探していたのだが、この状況では見つかりそうもなかった。では逆にノエルに気づいてくれる人物はどうか。激しく肩がぶつかって、小柄なノエルは後ろに倒れ込みそうになった。あるいは押し除けられたりもした。まあ、無理もないと思う。ノエルが蒼天騎士団に入ったのは成人してからすぐのこと、そこから一年が過ぎていてもアストレアにいた時間よりも他の方が長い。同期のレナードとちがって、ノエルは地味な印象が強いのも自分で認める。だから誰もノエルには気づいてくれない。
 そんなのわかっていたはずだろ。
 落胆するのは馬鹿げている。それに、ここに来た目的だってそうじゃない。ノエルは蒼天騎士団の一人だ。何のために騎士になったんだ。くじけそうになる自分を叱咤する。そうでなければ、ノエルを送り出してくれた人になんだか申し訳ないような気がした。
「公子のところに行きたいのでしょう?」
 彼は艶美な笑みでそう言った。裏方の仕事に回っていたノエルは精力的に働いて、公子や軍師の下命に背くなんて考えてもいなかった。さすがは聖職者だ。その薄藍の瞳はノエルの心を読み取っている。白皙の聖職者は誰に対してもやさしく真摯だった。彼の声をきくと安心するのもわかる気がする。あの心地良いアルトの声に囁かれたら、誰だって素直にうなずく。
 だけど軍律違反をするのは二度目、次こそは除名されるかもしれない。
 急にノエルは心細くなった。城内の人間は倉皇そうこうとなっている。裏口から侵入したのでこっちの道程ならば人も少ないと思っていたのに、逆だったらしい。先に公子や軍師が城内に入っているはずでも、誰もその名前を口にしないのはなぜだろうか。そして、城主エレノアの名も。
 いったい、どうなっているのだろう。
 ノエルは東の塔を目指して走っていた。己の主君の元へと駆けつけたい気持ちと、エレノアの身を案じる気持ちとでせめぎ合っていたが、なかなか目的には近づけずに押し流されるように東へと向かっていた。執事や侍女、他の使用人たちの姿は見えずに、きっと皆はとっくに安全な場所に隠れている。そう、信じたかった。
 やがて、エレノアの薔薇園が見えてきた。季節を終えた薔薇園に鮮やかな彩りは見えなくても、ちゃんと手入れはされているようだ。けれど安堵するのはまだ早い。ここまである程度の自由は許されていたのかもしれないが、公子が帰ってきたのなら話は変わってくる。あの男はきっと、エレノアを盾に使う。
「うわっ!」
 考えごとをつづけていたせいか、ノエルはうしろに吹っ飛んだ。なんという不覚。ここまで来てやられたなんて笑い話どころでは済まなくなる。崩れた体勢を立て直して、ノエルは衝突した相手を見る。向こうもノエルとおなじ顔をしていた。
「レナード!」
「ノエル!」
 二人は同時に叫んでいた。赤髪と気の強そうなまんまる目に、童顔だからかレナードもノエル、二人とも年齢よりも幼く見える。アストレアを離れていたこの一年で、二人ともちょっと背が伸びていた。何も変わっていない。わかれたときの、ノエルが知っているレナードのままだ。
「お前、なんでここに」
「それ、こっちの台詞だよ! ぜんぜん連絡も寄越してこないし」
 魔法の硝子玉が割れたのは知っている。けれどもあれは、レナードとデューイが失敗したとその合図だと、そう認識している。少なくともセルジュは二人の安否に関しても期待していなかった。
「あとで話す。ともかくいまは、エレノア様を」
「この先にはいないんだな?」
 レナードがうなずく。そこでノエルは理解した。レナードがこれまでどこで何をしていたのかいまは置いておくとして、しかし彼もまたこの状況を把握できていないのだ。そして、城主エレノアにも蒼天騎士団団長であるトリスタンにも接触できていないのだろう。
 だったら、俺たちにいまできることなんて。
 ノエルは自分のことのように気落ちしてしまった。それなのにレナードの目は死んでいなければ、声もしっかりしている。
「ほら、行くぞ。……公子は、無事なんだろ?」
「当たり前だよ」
 一緒にアストレアに帰ってきたんだ。ノエルとレナードの主君は必ずこの国を取り戻す。二人は回廊へと戻った。先ほどまで騒がしかったのが静かになっている。とはいえ、ここがまだ安全といえるかどうか。皆の姿が見えないのも、やはり不安になってくる。
「おい、そこのちび二人!」
 大台所を通り過ぎようとして、大きな声に呼び止められた。ふとっちょの男が扉から顔を覗かせている。
「モッペルさん!」
「やっぱり、見習いちびっ子どもだったか!」
 アストレア公爵家も、騎士団に所属する騎士たちも、皆が世話になっている料理長だ。育ち盛りの若い騎士らは台所にお邪魔してはおこぼれを頂く。もうちゃんとした騎士なのだから見習いなんかじゃない。そう言いたいのに、このふとっちょの料理長はいつまでも二人を子ども扱いする。
「お前たちがここにいるってことは、やっぱり帰ってきてたんだな!」
「ここは? みんなは大丈夫なのか?」
「もちろんだよ! まだ王都の騎士たちがうろうろしてるから、ぶん殴ってやったよ!」
 料理長はたくましい二の腕を見せてくる。そしてその手にはフライパンが握られていた。拳でも卒倒しそうなのに、あれで殴られたら痛いなんかじゃすまない。料理長のうしろから他の料理人も見える。彼らはふとっちょの料理長ほど豪快なたちではないので、包丁を持った手がぶるぶる震えている。
「けどなあ、せっかく皆がこうして戦ってるっていうのに、こっちはまったく準備が進まなくてなあ」
 アストレアを取り戻すという大仕事を任されているのは、何も騎士たちだけじゃない。ぜんぶ終わったときに、疲れて戻った騎士たちの腹を満たすのが彼らの役目だ。
「レナード」
「わかってる」
 なんだ、ちゃんといつものレナードじゃないか。ノエルはちょっとくすぐったいような気持ちになった。戦場で戦うだけが騎士の仕事じゃない。ジークはいつもそう言っていた。
「俺たちは、蒼天騎士団だ」


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