六章 あるべき場所へ

聖騎士の帰還1

 公子、と。呼ばれていたのは一度ではなかったらしい。振り返ったその先では、軍師が渋い表情で待っていた。
 ブレイヴは苦笑する。自分はどうも考えごとをしているときに、周りの声がきこえなくなる。
「本当によろしかったのですか?」
 何をいまさらと声を返せば、セルジュの機嫌はもっと悪くなるだろう。では、どう答えるのが正解か。他に良い方法もなかっただなんて、それこそ軍師は怒り出す。
 山毛欅の森をずっと南下しつづけてきた。騒ぎになると困るので、街や集落などに寄るのも最低限に留めている。とはいえ昨晩の驟雨しゅううにはまいった。エーベル兄弟も野宿つづきで疲労が溜まっている。
「変装されてみてはいかがでしょうか?」
 魔道士の少年の声に、ブレイヴもセルジュも反応に困った。子どもの浅知恵だ。普段ならそう返しそうなのに、軍師はだんまりを決め込んでいる。魔道士の少年はこういうときに冗談を言うような性格ではなかったし、本人はいたって真面目な顔をしている。けっきょくそんな時間はなかったのでそのままで来た。もしかしたらアステアはちょっと怒っているのかもしれない。口数も減っている。
 いま、ブレイヴの傍にいるのはセルジュとアステアだけだ。
 西の国ウルーグにて、魔道士の少年が乗馬を習ったのが半年前。その頃よりもずいぶんと慣れた様子で、アステアは兄と馬を並べている。魔道士の少年とおなじ頃に馬に乗りはじめた幼なじみはここにはいない。彼女はルテキアとシャルロットとともに、北の領地を訪れている。他に別行動を取っているのがノエル。アストレアの弓騎士と一緒なのがフレイアとクリスで、ノエルは二人の護衛役だ。
 というのも名目上として、彼らにはアストレアの領地の視察に行ってもらっている。敬虔なヴァルハルワ教徒であるクリスならば、巡礼地を巡る傍らでアストレアの民を見舞っても警戒されないはず、病人や怪我人がいる場所ならばなおさらだ。
 先の内乱にて捕らえた蒼天騎士団の者たちは森の外へと置いてきた。
 捕虜、というよりは保護と言うべきかもしれない。ノエルが接触したときに彼らは薬で眠らされていた。そのおかげでブレイヴは同郷の騎士らと戦わずに済んだわけで、しかしアストレアに連れてくるのは危険すぎた。彼らが脱走兵と見做されたら、家族たちは無事とはいかなくなるからだ。
 では、軍師は何を懸念しているのだろう。
 ブレイヴはバルタザール伯の顔を思い出そうとして、うまく頭に描けなかった。父母もおなじとする兄弟なのに、亡き父親と伯父ではそれほど似ていなかったように思う。それに、記憶が曖昧なのはバルタザールという人と会ったのが数えるほどだからで、彼の息子であるダミアンと最後に話したのも三年以上前だ。
 セルジュはこう言っている。レオナで大丈夫なのか、と。
 幼なじみは王家の姫君として生まれたものの、側室の子という理由から白の王宮の別塔でほとんどの時間を過ごしてきた。社交界で生き抜くための処世術もなければ、姉のソニア王女とちがって公の場から遠い場所で生きてきた。バルタザールもダミアンも王家の人間をぞんざいに扱うとは考えにくいが、まともに取り合ってくれるかどうか、話は別だ。役不足だと、つまりはそう言いたいのだろう。
 それきり、セルジュは黙り込んでしまった。
 こちらの声を待っているのではなく、軍師も考えごとをしているのだ。本音と建て前はちがう。軍師がブレイヴの性格をよく知っているように、ブレイヴもセルジュという人間のことを理解している。不器用で損な役回りだ。
 幼なじみにバルタザール伯との接触を任せたのは他でもないブレイヴだったが、そのときセルジュは強く止めたりはしなかった。王女の傍にはルテキアがいる。いまは白紙の状態でも、かつてダミアンとルテキアは婚約者の関係だった。少なくとも門前で追い返したりはしないはずだし、形だけでも受け入れはする。
 問題は、ここから。
 バルタザールやダミアンが味方となる保証はどこにもなければ、最悪なのは敵へと回ること。王女を人質にされてしまっては、こちらはまったく動けなくなってしまう。
 そんなことにはならない。そう、自信を持って言えないのはどうしてだろう。だが、他に打つ手がなかったのも事実、アストレアの城内にはまだ多くのマイアの騎士たちが残っている。だからこそ、軍師を気鬱にさせている理由はひとつではない。
「お前なら、どうしていた?」
「断りませんね。ありがたく頂戴します」
 即答だった。ブレイヴは苦笑する。手数が少ないだろう。国王アナクレオンはブレイヴに白騎士団を貸してくれると言ってくれたが、しかしブレイヴはこれを辞退している。 
「陛下のあれは、たぶん半分が冗談だったと思う。こちらが断ることを知っているから、試されたのかもしれない」
「悪趣味な方です」
 アステアがくすくす笑っている。たしかに白騎士団の力を借りれば、アストレアは簡単に取り戻せる。
「でも、その恩はいつか返さなければなりませんね」
「ああ。代償が大きすぎる。白の王宮は黙っていないだろうし、なによりも……」
「マイアの残党が何をするかわからない、と?」
 ブレイヴはうなずく。王都からの下命はすでに届いているはずだが、おそらくランドルフは動かない。素直にきき入れているのならとっくにアストレアは解放されているし、しかしそうしないのはなぜか。矜持か意地かのどちらかでしかないと、ブレイヴは思う。あの男の心中などわかりたくもなかったが。
「公子も厄介な者に目を付けられたものです」
 セルジュはガレリア遠征の際にいなかったから、そんな風に言えるのだ。自尊心を傷つけられたら誰だって相手を憎み、そうして根に持つ。ガレリア、それからサリタ。二度の失敗を繰り返したあの男はもう後がない。だからこちらが兵を率いて城を包囲すれば、侵略だと声を大きくする。己こそがそうなのだと、認めることもせずに。
「とはいえ、バルタザール伯が動かないのであれば、話がまた変わってきます」
 当てにしているのかそうでないのか。セルジュの機嫌も悪くなる一方だ。
「さすがにこの人数で取り戻せるとは思わない。けれど、蒼天騎士団はランドルフに抑えられているから、他に頼るのも危険だな」
 魔道士の少年がこちらを見つめている。言動が相反していると、そう言いたいのかもしれない。そのとおりだ。こうやって姿を隠して行動していても、あれが公子の一行だと気がついている者だっている。アストレアの民は聡い。それに、人々はずっと待っていたのだ。聖騎士の帰還を。
 彼らに答えられるだけの力が、いまのブレイヴにあるのか。
 私たちもともに戦います。アストレアは我々の国です。公子、どうか私たちも同行させてください。身柄を拘束されても蒼天騎士団の者たちは騎士の誇りを失わない。彼らの声を真摯に受け止めたものの、けっきょくブレイヴは同行を許さなかった。彼らの身を案じただけではなく、その理由はもうひとつ――。若い騎士たちはきっとブレイヴの真意をわかってくれただろう。
「それほど悲観されることもありませんね。いざとなれば、その剣を使えばよろしいのでは?」
 ブレイヴは失笑しそうになる。それこそたちの悪い冗談だ。鞘に収まっているのはカーナ・ラージャ。聖なる祭壇にて生き返った長剣を見て、ブレイヴは肌が粟立っていることに気がついた。
 うつくしい剣だった。十字架に見立てた形状をした長剣は、まさしく聖剣と呼ばわるにふさわしい輝きを放っていた。ただの武器ではない。この剣には特別な力が込められている。幼なじみがこれをブレイヴへと手渡してくれたとき、彼女は微笑んでいた。
「この剣を持つ意味を、知る者ならばあるいは」
 矛盾だらけだな。ブレイヴは途中で声を止める。聖剣の力を借りるのならば、白騎士団を率いてアストレアに戻ってくるのと変わらない。白の王宮の地下深くにて、ブレイヴは王の声に驚き、その先を躊躇った。けれど、もうこれを受け取ってしまった。つまりは引き返せないということだ。
「でも、伝説の剣なのでしょう? 置いてくることなんて、できませんよね?」
 意地悪っぽい笑みをする魔道士の少年に、ブレイヴも微笑する。
「王家の聖剣だからね。預かってもらうわけにもいかないし、できるところもない」
 軍師の咳払いがきこえる。自分から振ってきたくせに、その話題にたどり着くのは嫌がっている。
「べつに責めているわけじゃない。マリアベル王妃から託された首飾り。あれをどう使うかは、お前に任せていたんだ。だけど、どういうわけか陛下のところに戻っていた」
 今度は深いため息。アステアが笑うのを堪えている。
「売れるわけないでしょう。あれは、金貸しや商人たちとの駆け引きに使わせて頂いただけです」
 でも、セルジュは正直に王妃の首飾りを受け取り、それを持ち出した。もっとも神経の図太い商屋たちは、ちゃんとその先を見ている。王国軍にも叛乱軍にもどちらにもいい顔をして糧食や武具を売りつつも、勝つ方につく。王妃といえども王家の宝物を勝手に持ち出すなんて不可能だとも知っている。けっきょく、真実に近い者が得をする。
「でも、彼らがちゃんと陛下の手に返してくれてよかったよ。そうでなければ、俺もセルジュも、それからマリアベル王妃も……いまごろは本当に叛逆者だ」
「牢獄ですか。笑えませんね」
「それに、誰かの助けがあったとはいえ、陛下一人では王都に戻ってくることなんて、きっとできなかった」
 そういう意味でも適時とも言える。アナクレオンは時宜を待っていた。聖騎士と王女が王都マイアへと戻ってくるそのときを、待っていた。協力者、いや支援者とも言うべきだろうか。国王派でも元老院派でもない、王国軍にも叛乱軍にも味方しない者たちは、どこにだっている。
「大変なのは、これからだ」
 ブレイヴはつぶやく。独り言だったのだが、セルジュもアステアもおなじ表情だった。だからこそ、内乱が終わったばかりの白の王宮には頼れない。みんなそれをちゃんとわかっている。
 魔道士の少年が馬を止めて、周囲を見回した。
「風が……。いえ、精霊たちが」
 アストレアの森に隠れ住んでいる精霊たちを見つけるのは、子どもであっても困難だ。でも、アステアには精霊たちの声が届く。忠告、いや警告だったのかもしれない。女神アストレイアは正しき者を導くけれど、悪しき者は決して助けない。襲撃を受けたのは、そのすぐあとだった。









 
 蒼天騎士団を指揮する騎士団長トリスタンは、この日もランドルフに呼び出されていた。
 針仕事を終えたエレノアが侍女にお茶の用意をさせている。
 そんなに疲れた顔を見せるものではありませんよ。あの子たちがあなたを見て不安になります。蒼天騎士団は成人を迎えたばかりの少年騎士が多いせいか、エレノアはどの少年たちも自分の息子みたいに思っている。
 焼き菓子の良いにおいがする。アストレア城内で長いあいだ働いてきたふとっちょの料理長は、魚料理に鴨料理の他にもパンを焼くのが得意で、このところは新しい菓子にも挑戦しているらしい。円卓に並べられたのは新作のマドレーヌのようで、にこにこしながらエレノアがトリスタンにも取り分ける。このあと感想を求められるのだが、甘いものが苦手なトリスタンはいつもとおなじ声をする。そこへ、慌ただしく扉をたたく音がした。トリスタンは思わずため息を吐いていた。
 カウチに腰を沈めた男の目は血走っている。
 酒精アルコールのきついにおいは不快だったものの、トリスタンは騎士の表情を崩さない。よく持った方だと思う。トリスタンはガレリア遠征の仔細を他の騎士からきいている。アストレアの鴉は常に公子の傍にいたから、夜を待たずにランドルフが酒瓶を空にするのも知っていた。この男が食中酒として葡萄酒を楽しむに留めていたのも、エレノアに嫌われたくないからだ。トリスタンの主は鯨飲げいいん馬食をことに嫌う。
「あの男が、帰ってくる」
 呪いの言葉のように吐き出された声は震えていた。それほどに酩酊しているようには見えなかったが、しかし不安を解消するためには酒の力を借りなければならないほどに、ランドルフは追い詰められているのだ。
 王都マイアより下命が届いたのは七日前だった。
 ランドルフの傍にはすでに仮面の騎士がいて、蒼天騎士団の団長であるトリスタンも同席を求められた。王都からの使者は白騎士団の若者だ。こちらを穿鑿せんさくするようなたちではなかったものの、しかしランドルフはちがう。すべての責任をトリスタンに押しつけるつもりでいたらしい。
 ところが、使者の口から出てきた言葉にランドルフは驚愕し、己が立場を忘れて激高した。年若い使者は気圧されつつも、しかしさすがは白騎士団の騎士である。
「これは、国王陛下の声なのです。従わないという選択などありましょうか?」
 使者は毅然とした面持ちで最後までランドルフと向き合った。
 残されたトリスタンと仮面の騎士は、ランドルフの癇癪が収まるのをとにかく待った。鵜呑みにできない気持ちはわからなくともなかった。王国軍と叛乱軍の戦いがすでに終わっていること、本当の王が玉座へと戻ってきたこと、聖騎士と王女はともに王都マイアに入り、また聖騎士とともに戦った他国の要人に対しても、王は真摯な対応に当たったこと。いずれこの日が訪れるだろう。トリスタンは信じて止まなかったが、聖騎士を敵と見做していた者にとってはまさに寝耳に水だ。己が正義を声高に叫んでいたのならばなおのこと、それどころか王はランドルフに即刻アストレアを解放するように求めている。
「あの男が、私を殺しに……」
 そうまで恐れているのなら、即時にこの国から出て行けばいい。悔悛かいしゅんし、すべての非を認めさえすれば、白の王宮もアナクレオン陛下もこの男を許すだろう。
 それなのに、ランドルフは未だにアストレアにこだわっている。トリスタンは声を求められるまでただ沈黙を守っている。同情をするには値しない。爵位を剥奪され領地を没収され、ランドルフが貴族でも騎士でもなくなったとしても関係がない。そもそも、この男こそがアストレアの侵略者だ。
 公子が姫君とともにアストレアを追われたあの日、軍を率いて城を包囲した王都の騎士たちはすでに国外へと逃げている。残っているのはこの男のように、行く当てのない者か、あるいは処罰を恐れている者かのどちらかだ。蒼天騎士団の力を集結させれば、戦えない相手ではなかったが、エレノアは首を縦には振らない。彼女は公子の帰りを待っているのだ。
「何をそうまで恐れる必要があるのです?」
 仮面の騎士の声には笑みが含まれている。蔑み、あるいは嫌悪。騎士が主君に対してする声ではないようにもきこえる。
「ランドルフ卿はこのアストレアを守っていたのです。公子が戻ってくるというのなら、好都合ではありませんか? そのときが来るまで、ここに留まればいい」
 悪魔の囁きだ。にもかかわらず、ランドルフは救いを求めた子どもの目を仮面の騎士に向けている。そら恐ろしいものを感じつつも、トリスタンはずっと呼吸を殺している。仮面の騎士はランドルフの前で騎士の挙止をする。
「どちらに……?」
 思わず、呼び止めた。
「鼠の始末を。どうやら、鼠は一匹ではないようですので」
 あの仮面の裏で騎士はどんな表情を描いているのだろう。謹直な騎士に見える。だが、トリスタンにはこうも見える。冷静な声を繰り返しながらも、仮面の騎士はわざとああいう物言いをする。そう、ランドルフを追い詰めているのは、仮面の騎士ではないのか、と。

 
 

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