六章 あるべき場所へ

光に請う

 白の王宮の最奥、その白の間が開かれているときは限られている。
 麾下の騎士、あるいは重臣並びに側近たちならばともかく、伺候しこうに訪れた貴人たちが深紅の絨毯を踏むことは許されてはいない。下流貴族などは城門にて誰何され、そうして追い返される。例外があるなら何らかの式典が催されたときだけ、ブレイヴは聖騎士の称号を下賜された日を思い出していた。
 玉座には王が、そして王のうしろに控えていたのは末の姫君だった。側室の子として生まれた彼女が公に姿を現すことなどほとんどなく、しかし姉姫の代わりなのだとブレイヴは理解した。王の前で膝を折るブレイヴの背後には、名だたる騎士からまだちゃんと騎士の称号を与えられてもいない士官生たちまでいた。さすがにすこしばかりは緊張していたのかもしれない。幼なじみの顔をよく覚えていなかったし、同期や他の騎士が掛けてくれた言葉のなかに妬心が混じっていたのも気づけなかった。先んじて聖騎士となっていたフランツ・エルマンはおめでとうと、それだけ言ってくれたような気がする。少年騎士らは羨望の目でブレイヴを見ていた。
 あの日とおなじように、ブレイヴは王の前で跪いていた。
 けれどもいま、従卒や侍従たちも重臣や騎士の姿も他にはなく、白の間には王と聖騎士の二人だけだった。入室を許されて平身低頭をする。顔をあげることは叶わない。となれば、王の声をただ待つだけだ。その時間は数呼吸のあいだだっただろうか。ずっと他人と喋っていなかったときみたいに、どうやって声を出すのかも忘れてしまって最初の一声が出ない。そんな空白の時間だった。
「お前はまだ私を偽物だと思うか?」
 面をあげよ。その合図だとブレイヴは認識する。玉座の王は笑っていた。ブレイヴがよく知る王の顔だった。
「いいえ」
 見抜けなかった者の言う台詞としては間違っている。容姿も声も、それから匂いまですべてがアナクレオンだった。違和を感じたのは彼が吐く言葉、それでも騎士が王を疑ってはならない。
「お前は真面目だな」
 冗談のひとつにしてはこの場に相応しいとは言えなかったが、本物だと認めるには十分だ。戯言で返すくらいの余裕はあっても、ブレイヴの心のなかにはまだしこりが残っている。ここには王の機嫌取りに来たわけじゃない。
「ルダの公女はなかなか気骨のある娘だったぞ」
 どう答えるのが正解か、迷いつつもブレイヴは相好を崩せずにいる。アイリスのことだから無遠慮な声を持って相対したのだろう。まさか主君に陳謝を求めたとは考えにくいが、ルダの公女ならば本当にそうする。ならば、ここは笑って応えるのが素直な反応か。そんな勇気のある者がいたらぜひとも会ってみたい。
「案じるな。マリアベルと子をルダに託したのは他でもない私だ。ルダには礼儀を尽くす」
 ブレイヴは安堵する。そんなことが現実に起こっていたならば、ルダの公子は卒倒していたはずだし、そうなる前に麾下が止めた。だからきっと、アイリスはそれ以上の声をしなかった。それが臣下として正しいあり方だ。
「ランツェスにも大きな借りができたな」
 急に話題が逸れたと思ったが、そうではなかった。ディアスだ。ブレイヴは口のなかでもう一人の幼なじみの名前を呼ぶ。ラ・ガーディアの最北サラザールで別れたディアスが王に接触していたのなら時期は合う。借りなどと、わざとそんな言葉を使ったのも自虐のつもりなのだろうか。笑えない。ブレイヴはまだ真顔のままでいる。
「では、ランツェスの公女は……」
 彼は鷹揚にうなずいた。ディアスの妹ウルスラを差し出したのはその兄であるホルスト公子だ。勝手に北の敵国とも交渉したのもホルストで、それこそ叛逆の意と捉えるには十分な行為と言える。白の王宮はランツェスを許しはしない。だが、王はちがう。
「どこまで干渉ができるかは定かではないが、手は尽くす。そのつもりだ」
 アナクレオンならばそうする。予測された声が返ってきたところで、ブレイヴはまだ納得していない。感情を殺しつづけるのも疲労を感じはじめてきた頃だ。
「お前は辛抱強いたちだと思っていたが、存外そうでもなかったらしい」
「王都からアストレアまで十日は掛かります。本音を申しあげれば、いますぐにでも王都を発ちたいのです」
「返答を待つあいだが惜しいらしい。さほどに信用ならないか?」
「いえ……」
 ブレイヴは唇を閉じる。王命は祖国へと届けられたものの、そこから兵がすべて退くとなればさらに半月は要る。待つことは、できる。そこにいるのがあの男ではなければ。
「ふふ、よほど嫌われたと見える」
「ランドルフはそういう男です」
 周りから妬心としんや蔑視の目で見られるのは慣れている。それはアストレアが小国だからだ。けれども、あの男がブレイヴに向けているのは個人的な感情だけだった。迷惑でしかない。ガレリアにサリタ、おまけにアストリアまで。ランドルフという男はどこまでもブレイヴに付き纏う。
「それに、あの男は二度失敗をしています。素直に従うかどうか……」
 王命に叛くという選択肢は騎士にはない。とはいえ、失敗をした人間が選ぶ道ならばまだ残されているのではないかと、ブレイヴは思う。追い詰められた人間は何をしでかすかわからないからだ。
 レナードやデューイは無事にたどり着けただろうか。そして、母エレノアと接触できたのかどうか。何の連絡もないのがもどかしい。いや、問題はそこではない。
「そこまで陛下は読んでいたのだと、そうおっしゃりたいのですか?」
 非礼を承知で声にする。さすがのアナクレオンもひとつ瞬きを落とした。ふた呼吸の空白は先読みされたことに対しての驚きだったのだろう。王はくつくつと喉の奥で笑う。それが正解だったかどうか、それにしては矛盾が残り過ぎている。いかに慧眼に優れたアナクレオンでも人の死を予測するのは不可能だ。それとも、アルウェンの死が運命であったのなら。
 ブレイヴはかぶりを振る。そんなものを認めたくはないし、信じたりもしない。
 けれど、サリタのあとはどうか。王は視えたのではないかと、ブレイヴは考える。イレスダートを追われた聖騎士が西へと落ち延びる。ラ・ガーディアの動乱にグランの不可侵条約も、あらゆる綻びを彼が見抜くのは容易だろう。
 ふたつの国を味方に付けた。老将軍オルグレムをこちら側へと寝返らせた。過去に関わりのあったクレイン家が参入するのも、あるいはロベルト・ベルクのことまで知っていたというのなら。
 ブレイヴは浅くなった呼吸を意識して戻す。疑い出せば際限がなくなる。いまがまさにそうだった。視線をふたたび床へと落としたのは、王の目を見ているのが怖くなったからだ。
「お前は、レオナをここから逃してくれると思っていた。イレスダートではなければ、どこにだって行ける。だが、そうしなかった。この王都へと戻ってきた」
 作っている拳が震えないようにするだけで精一杯だった。本当にそうしてほしかったのかもしれない。ブレイヴが幼少からマイアの兄妹を見てきて、アナクレオンという人を知っているからそんな風に思ってしまう。でも、そうじゃない。彼女のあるべき場所はひとつしかなかった。そこが安全だといえないのならば作ればいい。そのための手段を選ばないことだって、ブレイヴは知っている。
「アルウェンはずっと陛下を案じておりました。正しいこと、そうでないこと。それでも己が道を必ず選ぶのだと。しかし、それは」
「あれが言いそうな言葉だ。惜しい男を亡くした。残念でならない」
 これは、紛れもない本心だろう。許されるのであれば彼はその場で泣き崩れていた。そんな顔をしている。
「だが、そのとおりだ。王とて完璧な生きものではない。奴らには売国奴と罵られ、その結果がこれだ」
「いったい、何が起きていたのですか? 白の王宮で、この王都で」
 それに、あなたは――。ブレイヴは王の目に黒い影を見た。望むのは謝罪などではなかった。そんなものを王にさせてしまってはならない。けれど、知る必要はある。そもそものはじまりが何であったのかを。
「私が見たのは幻影だった。あれは、父と母だった」
 ブレイヴはまじろぐ。また急に話が逸れたようにも思えるが、そうではない。彼が回り道を好むときにはもっと悪戯っぽい目をしているし、声音はもっと単調だ。
「闇を見た。そこからの記憶は曖昧だが、気がついたときには地下にいた」
 地下と。ブレイヴの唇も動く。牢獄だ。彼からはもっとも遠い場所で、にわかには信じられずにブレイヴはただ彼の声を待つ。
「たしかにあそこに閉じ込められているだけで気が狂うな。なにしろ、時を知る術がない・食事は一日に二度、それも看守の気まぐれだ。賢い者は大人しくしているが、まあそれよりも先に壊れるのが先かもしれないな」
 聖王国イレスダートの中心地である王都マイアは、すべてにおいて守られていると言ってもいい。他の国に比べても犯罪は滅多に起こらないし浮浪者なども彷徨かない。それでも兇行に及んだ者は地下へと閉じ込められる。設備は整っているから不潔な場所ではなければ、ちゃんと人間が人間の扱いをされる。だが、王の目が届かない最奥となれば話は変わってくる。イレスダートでは禁じられている拷問も平気で行われているのだ。人間の尊厳を捨てた者だけが正気を保てる。そう、彼はつづけた。
 ブレイヴは自分の頬に触れた。冷たいものが流れたような気がして、けれど指は濡れてはいなかった。罪状を改め、刑を科すまでに長き時間を要せよと命じたのはこの国の王である。法の番人たちが罪人を正しく罰するためにはそれだけの時間が必要だった。
 因果と言うべきなのだろうか。いや、そうではない。イレスダートを正しく導くのは王だ。それなのに彼の唇は「罪」と零す。
「報いを受けるべきなのだと、そう思った。あれは父と母の呪いなのだろう。私は罪人だ」
「そんな、まさか」
 否定を紡ごうにもそれ以上が出てこなかった。闇に呑み込まれたものしかわかるまい。王の目がそう言っている。強い魔力同士がぶつかれば肉体は滅びなくとも、先に精神が破壊されてしまう。彼は、負けたのだ。だからアナクレオンという人が、こうしていまブレイヴの前にいるのだって、奇跡と呼んだ方がいいのかもしれない。あれは、人間ではなかった。
「さて、誰がここに招いたのやら。いや、忍び込むのも容易いのかもしれないな。ここは闇の巣窟だ」
 ありえない。ブレイヴの声を、王は片手をあげて制する。肘をつき、足を組み、そろそろこの話題に飽きたとでも言わんばかりに、息を吐く。それとも、頭の反応の鈍いブレイヴに苛立ちはじめているのだろうか。
「奴らは化けるのが得意な種族だ。白の王宮に潜り込むなど造作もなきこと」
 ブレイヴは目を瞠る。竜人ドラグナーはそうやって人間のせかいに干渉している。ラ・ガーディアのウルーグでは宰相に、氷狼騎士団の少年騎士に成り代わっていたのも奴らだった。失念していたわけではない。でも、それが彼へと結びつかなかったのは、ブレイヴがアナクレオンを信じていたかっただけだ。そして、いまさらそんな個人の感情なんて何の意味もない。ブレイヴこそが罪人なのだから。
「お前は頑として断罪を望むのだな。だが、裁くにも法の番人たちはここにはいない」
「元老院は、どこに?」
「ヘルムートには書状を送っている」
 ムスタールだ。どこまでが奴らの描いた脚本だったのだろう。異形の力を用いたくせに不利となればこの国を見捨てて逃げ出した。計算が狂ったとすれば竜人が正体を現したためか、それとも本物の王が帰ってきたからか。ブレイヴは玉座の王を見る。彼はブレイヴを見つめていて、唇には微笑みの影が作られていた。だからきっとブレイヴの想像通りなのだろう。
「言っただろう? 私こそ、罪人であると」
 首肯するべきかと迷ったし、黙っていても認めるとおなじだった。ちがうという声はやはり出てこなかった。王は先ほどよりも満足そうな笑みをする。ブレイヴは元老院を憎んでいた。すべてのはじまりはあの日の軍事会議からだったように思う。ガレリアへ行くことに不満はなかった。そもそも自分は騎士であり、それもイレスダートを象徴する聖騎士だ。けれども、不当な扱いと虚偽を掛けられた上にアストレアを奪われて、自身はイレスダートを追われたことには納得をしていない。何も感じないという方がおかしいし、元老院こそが悪だと信じていた。だが、彼らもまたイレスダートの未来を案じたがゆえに。その手段が問題視されるならば、王も断罪される側の人間だ。
 ブレイヴは喋ろうとして舌を噛んだ。だからちがう言葉を口にした。
「元老院は、裁かれる日を待つでしょうか?」
「罪は償わねばならない」
 ヘルムートは彼らを庇わないし、そうする理由がない。公爵家ではなくヴァルハルワ教会に身を潜めていたとしても、必ずマイアに引き渡す。
「あれは正直で嘘が吐けない男だ。そういうところがお前とよく似ている」
 そうだろうか。黒騎士ヘルムートほど自分はただしくはなれない。いつだって心のなかにあるのは騎士の矜持や信念とは別の、独り善がりで我が儘で醜く浅ましい感情だけだ。
「そうやって自分を卑しめるな。私はお前のそういうところを買っている。そしてヘルムート。いや、似ていると言ったのは訂正しよう。あれば実直すぎる。しかし、ヘルムートは私ではないと見破っていた」
 王殺しは大罪だ。ちがうと認めていたとして、ブレイヴにそれができただろうか。いや、いま問題視されるべきなのは、結果ではなくその過程だ。どうやっても許されるはずがない。
「その名を返上しようとしても、私は受け取るつもりはない。お前には聖騎士でいてもらわねば困るのだ。その意味が、わかるか?」
 道連れにしようとしている。このとき、ブレイヴははっきり理解した。そして、何のためにこの剣を持っているのか。忘れてしまうところだった。幼なじみの微笑みが見える。彼女はひかりだ。だから、ここで捨てなければならない。嘆きも悲しみも、絶望も怒りも。
「私が憎いか?」
「いいえ」
 何の感情のないままに声に乗せた。王はもう一度、笑った。
「お前は本当に嘘の吐けない人間だ」
 
 

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