六章 あるべき場所へ

目覚め

 幼い子どもが泣いている。
 そこには城も宮殿もあり、城下の街にはたくさんの人々が暮らしていた。廃墟と化してから何年が過ぎたのだろう。子どもは一人泣くばかりで母親とはぐれた風にも見えず、壊れてしまったとただ嘆き悲しんでいる。
 子どもの物乞いはたしかにめずらしくはない。
 幼い姿に同情して、人は立ち止まり子どものちいさい手に銀貨を乗せてくれる。顔や身体に殴打の痕があればなおさらだ。だが、それにしては様子が異なる。ここには他に人の姿がなかったし、着古した外套は泥や血でひどく汚れていたものの、その雪花石膏アラバスターのような白い肌には、傷はひとつも見当たらなかった。
 うつくしい子どもだった。
 日に焼けた様子が一切ない肌は純白の雪さながらに、眼窩に埋め込まれた青玉石サファイア色の瞳にひとたび見つめられたら息を忘れてしまう。ふっくらとした唇からは絶えず嗚咽が漏れているが、それも愛らしいと感じるくらいだ。彼なのか、それとも彼女なのか。性別を認識させない神秘的な雰囲気もまた子どもの魅力なのかもしれない。商人、貴族、騎士。あらゆる身分にある者がその先の道を捨てて、子どもに傅く。誑惑きょうわくするうつくしさが、この子どもにはある。
「またそうやって泣くんだね。自分がこわしたくせに」
 罵られようとも子どもは顔をあげない。そうしなくても、誰であるかがわかっていたからだ。
「でも、いい気味」
 嘲笑う声もまた子どもだった。容貌は良く似ている。いや、そっくりだと言い換えるべきか。それもそのはず、二人はおなじ女の腹から生まれた双子の兄弟だ。
「わたしじゃない」
 子どもは言い返した。するとそれまで笑っていた双子の片割れは急に笑みを止め、子どもを拳で殴りつけた。子どもはしたたかに頭を打ち付ける。痛みに喘ぐよりも前に次は腹を蹴られた。理不尽な暴力を受けても子どもは抵抗をしなかった。たたかれても殴られても蹴られても痛いのは知っているし、どうせやり返したところで余計に相手を怒らせるだけだ。
 暴力から解放された子どもは腹を押さえてしばらく咳き込んだ。口のなかを切ったのかもしれない。血が混じった唾を吐きながら子どもは双子の片割れを睨めつける。せめてもの抵抗だ。けれども憎しみは抱かなかった。あれは自分の半分だから。あとでひどく後悔するのもあいつの方だ。
「うまく使えばいいのに、その力。わたしを追い出したときみたいに」
 ちがう。子どもは反論したが声にはならなかった。追い出したんじゃない。追い出されたんじゃない。おまえが勝手に出て行ったんだ。気分屋でわがままで、けれど本当は臆病だってことを知っている。ふたりは反対だったから。ちがう力を持たされたから、おなじ道は歩めない。
 うそつき、うそつき、うそつき。子どもは繰り返す。先に偽ったのはどっちだろう。置いて行ったのはおまえだ。見捨てたのはおまえだ。声はずっと子どもを責めつづけている。別たれてしまったのなら、もう元のふたりには戻れない。
「裏切りもの」
 ふたりは同時に声をした。それが、最後に交わした言葉だったと、子どもは記憶している。





 鼻孔を満たす香りに気がついたとき、レオナは自分がいまどこにいるのかを理解した。
 自分好みの高さに調整された枕に肌触りの良いシーツ、見慣れた天蓋に安堵するのも当然だ。ここは、レオナにとってもっとも安全であり、あるべき場所だった。
 レオナはゆっくりと起きあがる。長く眠っていたのかもしれない。身体のどこにも痛みは感じなかったけれど、頭はまだぼんやりとした。
 そのままふたつ呼吸をして、視線を左へと向ける。まず目に映ったのは薄紅色と白の薔薇で、レオナは特にこの色が好きだった。きちんと整理されている棚とちがって机の上はちょっと散らかっている。書きかけの手紙は幼なじみに宛てたもので、しかし何を綴っていたのかをレオナは覚えていなかった。
「よかった。お目覚めになったのですね」
 声音はやさしく、それでも感嘆に満ちていた。扉をたたくがきこえなかったのも、レオナがまだぼうっとしていたからだ。
「わたし……、どれくらいねむっていたの?」
「二日です。もう、すっごくすっごく、心配したんですよっ!」
 最初の声よりもずいぶんと幼い。それでいて、わあわあと泣き出すものだから、レオナは思わず苦笑いした。 
 白の王宮をまっすぐに西へと進み、やがてたどり着くのは離れの別塔、ここへと足を踏み入れる人間は限られている。レオナのふたつ下の侍女はその一人だ。
「心配かけてごめんなさい」
「ううん、いいんです。だって、姫様が帰って来てくださいましたもの」
 まだ瞳は潤んでいるものの、侍女は鼻を啜り、レオナの手をぎゅっと握りしめた。
 レオナは侍女の顔をよく見る。前は栗毛のおさげをふたつ作っていたのに、いまでは上手に結わえている。王都マイアで栗毛の娘は稀というほどでもなく、けれども庶子の証だと蔑まれることを侍女は思い悩んでいた。せっかく綺麗な髪なのに。レオナがそう言えば、侍女はぱっと顔をあげて髪を伸ばすようになった。離れていたのは一年とすこし、それなのにずいぶんと長い時間にも感じる。
 夢なんかじゃない。戻って、きたのだ。レオナはちゃんと笑みを作る。でも、記憶が混濁しているのはどうしてだろう。なにが起こっていたのかを、よくは覚えていない。きっと怪我をしたせいだ。レオナはそう思い込もうとする。それに、あの竜は。
「ブレイヴは? ……みんなは?」
 侍女はきょとんとしたあと、またやさしい笑顔に戻った。
「聖騎士様でしたら何度か来てくださいましたわ。でも、姫様がお目覚めにならないとわかって、すぐ帰られましたけれど……」
 幼なじみらしい。でも、彼が無事なことはたしかだ。
「それよりも! アステアさんってすっごく良い子ですね。一緒にいらした美少女と麗しのお姉様も姫さまのお友達なのでしょう? 今度は、私にも紹介してくださいましね!」
 さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、侍女ははしゃいでいる。レオナは瞬きをして考える。アステアとシャルロットと、もう一人はルテキアだろうか。皆は何度もここに来てくれたのだ。そうして、侍女はお茶と焼き菓子を用意してあれこれお喋りをした。その様子が想像できて、レオナはちょっと笑う。
「いけないっ、私ったら。早く陛下にお知らせしなければ……!」
 次から次へと変わる表情に、ああそうだったとレオナは思い出す。ともかくそそっかしい侍女は、自分の仕事を途中で忘れてはよく叱られていた。
「すぐにあたたかいお茶を用意いたしますね! なにか欲しいものがありましたら、言ってくださいましね!」
 そんなに大きな声をしなくてもきこえているのに、そうつぶやいても侍女はもう扉の向こうへと消えていた。一人残されたレオナは呼吸をゆっくりと整えて、もう一度部屋のなかを見渡す。甘くやさしい花のにおいがする。深みのある真紅の薔薇に、あたたかな黄色や橙の薔薇、青や紫の薔薇は気分を落ち着かせるときにいいと、庭師は教えてくれた。いつかレオナが戻ってくる日のために、シーツはちゃんと毎日取り替えられていたのだろう。机の上がそのままなのもおなじ理由からで、皆が帰りを待ってくれていたのだと思うと、涙が溢れそうになった。
 ここが、わたしの――。
 言いかけて止める。レオナは見たのだ。あの白い光を。咆哮、苦痛に暴れ回っていた竜は最後に光を放った。しかし、まばゆい光はやがて収まり、そこには竜の姿も元の人間の姿も残らなかった。そして、レオナはあれが自分とおなじ存在だと認めている。感情で否定しようとも血が、魂が、レオナをそうだと自覚させる。悲しいのかおそろしいのか、ときどきわからなくなるのはどうしてだろう。あれは、理性をなくしたただの獣だった。人の命を奪うことを厭わない本能のままに暴れ狂う獣。レオナはあの竜を憐れに思った。
 わたしは、ちがう。
 でも、自分の身体に流れる血もこの力だって、かわいそうな竜とおなじだ。どんなに否定の声を紡ごうとも、けっきょく行き着くところはひとつだけ。そういう声が、きこえる。あの夢の子どもが、レオナにそう言っている。あれは夢なんかじゃない。レオナは口のなかで言う。そうだ、あれは夢などではなく、《《誰か》》の記憶なのだ。
 レオナは無意識に自身の腹部へと触れていた。痛みなど感じなかった。傷など、もうどこにも残ってはいなかった。

 








 時を知らせる鐘の音がきこえたとき、彼女はクリスの顔を見た。これより小一時間ほど前、純白の長衣を纏った集団が足早に東へと向かっていた。あれは、大聖堂のある場所だった。
 クリスは主に向けてにっこりとする。
 ワイト家は敬虔なヴァルハルワ教徒の家だ。他の教徒がそうであるように彼らは祈りの時間を最も大事にするし、食事や就寝の前だけではなく、聖堂から鐘の音がきこえるその前にはもう着席している。幼いクリスは両親に倣って、彼らとおなじ所作をした。まだ純粋に神を信じていた頃のはなしだ。
 ワイト家が没落すると同時にクリスは両親の元から引き離された。けれども祈りの時間はそれまでと何ら変わりなくつづき、そうしていまのクリスも聖職者の法衣に身を包んでいる。フレイアが物言いたげな目をするのも当然だろう。
「次は、露天商をのぞいてみましょうか?」
 彼女はただうなずいた。
 噴水広場では母子が焼き立てパンを頬張っている。娘たちはお喋りに花を咲かせて、老爺はうつらうつらと居眠りをしている。巡回をする騎士はまばらなもので、しかしここは王都マイアである。弱者や旅行者を狙って盗みを働く愚か者などいるはずもなく、いたって平和で穏やかな午後の時間が流れている。北の国とずっと長く戦争をつづけているようにも見えないし、内乱をしていたとも思えない。それこそ、あの古の獣がすぐそこに現れていたのも、幻であったかのように。
 クリスは幼い日の記憶の糸をたどってみたものの、この華やかで美しい都の情景がどうやっても思い出せなかった。明るい声で呼び込みをしている商人たち、南から来た伝道師はほとんど素通りされているのに、それでも布教活動を行う。母親におつかいを頼まれたちいさい兄弟たちは手を繋いで歩いているし、一足早く仕事を終えた大工仲間たちは昼間から大衆食堂で一杯引っ掛ける。こうした光景は王都マイアの日常なのに、どうして忘れてしまったのだろう。それとも、敬虔な教徒の家の子として日々の勤めに忙しく、邸と大聖堂の繰り返しであったのか。クリスは微笑する。彼女もそれに気がついたようだ。
「クリスは、ここには来たくなかった?」
 そう見えていたのかもしれない。けれど、彼女と出会ったのもまた、この地なのだ。
「いいえ。そうではありません。でもね、フレイア様。故郷というものがそれぞれ人にはあるのでしたら、私にとってそれはラ・ガーディアでありフォルネなのです」
 フォルネの王女は瞬いた。
 出会うはずのなかった二人と言ってもいい。ワイト家が没落しなければ、王女は血の繋がった実の両親に厭われなければ、その偶然が二人を引き会わせた。
 クリスは預けられた親戚の家で、両親が迎えに来てくれるのをずっと待っていた。叔父が少年のクリスを女の子のように扱い、夜伽娘の真似事をしようとも耐えつづけて、それでもとうとうあの家から逃げ出した。行く当てのない少年を、彼よりもっとちいさい少女が拾う。気まぐれなんかじゃなかったとクリスはそう思っているし、彼女を信じている。少女がフォルネの姫君だと知ったのは、ラ・ガーディアに入ってからだ。
「でも、私は覚えてるよ。ここで、あなたを見つけた」
 彼女は花のようだ。大切に庭園で育てられた繊細で優美な花とはちがう。山野で自由に咲いて、美しい色で人の目を喜ばせる可憐な王女。けれども、王室で大事に育てられるはずの彼女に与えられたのは、愛情などではなかった。
 フレイアの傍付きの騎士は、クリスに皆まで打ち明ける前に死んだ。毒殺だった。おなじ食事を取っていたフレイアはすこし熱を出しただけで、その頃には彼女に毒は効かなくなっていた。
 当時王子だったルイナスが実妹を守るためだったのだろう。隣国ウルーグにカナーン地方、それからイレスダート。フレイアは幼い頃から各地を転々としていた。王女を守るはずの騎士団は動かなかったし、誰も味方はいなかった。愚かな女だったのだ。ルイナスは母親を語るときに、いつもそう言う。蒲公英色の髪、紅玉石ルビーのような緋色の瞳。自分とちがう色を持って生まれた娘を、母親はどうしても愛せなかったのだろう。フォルネの王宮で飾られている肖像画のなかで、ただ一人フレイアの姿がない理由はそれだ。
 母親が伏したあとも、フレイアに安息の日は遠かった。
 王妃に嘘事を吹き込まれつづけたせいか、王宮の騎士や侍女たちはフレイアを忌人のように見る。凶手がフレイアの部屋に侵入したのも一度や二度ではなく、身を守るには自分自身が剣を持つしかなかった。そのうちに彼女は人を殺すことを躊躇わなくなる。感情が欠落したわけではない。でも、彼女は死をひどく恐れていて、死ぬのがこわいと泣くのだ。それをルイナスからきいたとき、クリスは己の贖罪ではなく、はじめて他者のために祈った。
 クリスはずっとフレイアの傍にいる。
 旅をするのも彼女の気が赴くままに、目的などほとんどないように等しかった。それでも、冬になる前に彼女はフォルネへと戻る。フレイアの母親が亡くなったのは、冬のはじめの寒い日だった。
 イレスダートの夏が終わる前に、彼女は西へ行くと言うだろうか。
 そういう話まで彼にしたのかどうか。クリスはちゃんと覚えていない。異国の剣士は口下手なのに人の話は最後まできいてくれる。それに、フレイアを守ってくれた。
「めずらしいものでもありましたか?」
 彼はクリスと話すとき、いつも居心地が悪そうに視線をすぐ他所へとやる。偶然だと思う。けれども、彼はそこに通りかかり、そうしてクリスと目が合った。 
「別に、そんなんじゃない」
 クライドが王都に訪れたのはこれがはじめてだとはきいたが、それにしては表情がない。クリスは思わず笑ってしまった。
「でも、こうした時間も必要でしょう? 旅にはそれなりに準備が要りますし、砂漠ともなればなおさらに」
 ふた呼吸のあと、彼はため息をした。
「俺はあそこの生まれだ。大層な荷物など要らない」
「邪魔になる、ですか?」
 返答はなく、彼はふたたび目を逸らした。露天に群がる人々をどこか眩しそうに、それでいて懐かしそうに見ている。けれどもクライドは王都やそこに住まう人に関係がないし、きっといま彼の目に映っているのは別の情景だ。
「公子に別れを伝えなくてもよろしいのですか?」
「待ってみたが、会えなかった。それはあんたたちもおなじじゃないか」
「さあ。いつまで留まるかどうかは、フレイア様の気分次第ですから」
 目配せするとクリスの主はただうなずいた。いつもならばそろそろ退屈しそうな頃なのに、彼のこともじっと見つめている。
「世話になった。……そう伝えてくれ」
 それくらい自分で言えばいいのに。でも、彼はもう行ってしまった。クリスの袖を彼女の手が掴んでいる。自己主張に乏しいフレイアが何か言いたいときにする仕草だ。
「私、あの人にまだお礼、言ってない」
 守ってあげてください。勝手に交わした約束だったかもしれない。けれど、クリスは彼に感謝をする。
「五つの鐘が鳴る頃に、噴水広場で待ち合わせましょう。私は、先ほどのお店でもうすこし薬草を買い足してきます。たくさん使ってしまったので、アステアさんにもお返ししないと」
「うん。クリスは迷子にならないでね」
 クライドの背中はすでに雑踏のなかへと溶けてしまったけれど、彼女は人を見つけるのが上手い。一度通った道はちゃんと覚えているので迷うこともないし、彼女を拐かす者だって、この王都にはいない。それに、むしろこの先を案じるべきなのはクリス本人だ。
 いつ、付けられていたのだろうか。
 いや、それならばフレイアがとっくに気が付いているはずだし、さっきまではクライドがいた。だからきっと、彼らがクリスを見つけたのも偶然なのだろう。白金の髪、薄藍の瞳。一人は若く、もう一人はそれなりに歳を重ねた初老の男だったが、いずれも見目麗しい容貌をしていた。金髪はイレスダートでもめずらしくはなかったが、しかし、彼らはおなじ共通点を持っていて、一族を見分けるその色を持っている。没落し、離散した者たちは同族をけっして見逃したりはしない。
「ワイト家の者だな?」
 男はクリスにそう囁いた。 
 
 

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