六章 あるべき場所へ

王の盾

「では、血で穢すというのか」
 王は言った。あの日、軍事会議にて。それがすべてのはじまりであったように、ブレイヴは思う。
 一堂に会した要人たちは声を失った。聖王国と謳われるイレスダートは長きに渡って北のルドラスと戦争をしている。百年、いやそれよりももっと前に、きっかけが何であったのかなど、誰も覚えてはいない。沃土よくどに恵まれた南のイレスダートをルドラスが狙った、あるいは領土を広げるために南が北を欲しただとか、諸説はいくつも残されてはいたものの、どれも信憑性に欠けていた。ともあれ、イレスダートは竜の加護を受けた聖王国である。マウロス大陸には西のラ・ガーディアや山岳地帯のグラン王国が存在するが、されどもイレスダートこそが大陸の支配者であらねばならない。王都マイア、特に白の王宮では確固たる信念を曲げない者も多く、己らがその象徴なのだと主張する。戦争は、力を維持するためには必要な行為であると、正しさを謳う。
 しかし、時の王アナクレオンは血の気の多い元老院とは相対するようだ。
 戦争が長引けば国が荒れる。暴徒が増え、そのうちに内乱がはじまる。美しいイレスダートの大地に血の雨が降る。王都マイア、けっして穢してはならない聖地に鋼と殺戮、血をもたらすなど歴史は許しはしないだろう。だからあのとき、皆が王の前に絶句した。滅びの日をおそれるかのように。
 軍師の呼ぶ声でブレイヴは現実へと戻った。戦場では気が昂って正気をなくす者も多いという。自分はそちら側の人間ではないと思っていたはずなのに、これが何度もつづくと認めざるを得なくなりそうだ。
 では、なぜいまここで思い出したのだろう。答えは簡単だ。イレスダートで内乱を起こしたのはブレイヴである。まさしく王都に不吉を運ぶ死神そのもの、罪人の扱いをされても心が痛まないのは、己の罪を受け入れている何よりの理由だった。それでも、ここまで来てしまったのだ。後戻りなどできるはずがない。
「何をお考えになっているのです?」
 ブレイヴは応えない。代わりに微笑んで見せた。いままさに、聖騎士を左から襲おうとした騎士を斬った。ふと、右腕が軽くなった気がした。軍師が治癒魔法を使ったのだろう。余計なことを。風の魔法は聖騎士へと敵を近づけさせまいとするが、そろそろそれも限界のはずだ。残りの魔力は自分のために使え。ブレイヴはそういう目顔をする。
 白い光をブレイヴは見た。あれは東の空だった。幼なじみを、白の王宮の姫君を戦場へと立たせてしまったのはブレイヴだ。けれども、ブレイヴはレオナをここまで連れてきた。いや、一緒に来たのだ。長い旅路を経て、はるかなるイレスダートへと。
 そして、やはりフランツ・エルマンは本気なのだ。
 姫君がそこにいるとわかっていて、名だたる宮廷魔道士を向かわせた。ただし、ルダの魔道士たちも負けてはいまい。魔力がぶつかり合い、そうして疲弊したところで騎馬部隊を送る。何千という屍がイレスダートの大地に積み重なっても、彼女は生き残る。それが、狙いだ。
 そこからさらに背後を守るのはノエルの弓騎士部隊だ。
 王都マイアには弓を得意とする名家が多数存在する。名のある将を送り込んでいることだろう。彼らの負担を減らすために、グランの竜騎士団がイレスダートの蒼空を旋回する。竜騎士たちは撹乱部隊だ。飛竜の鱗には矢や魔法は届かなくとも、しかし的にはなる。セシリアはこの危険な役目を受けてくれた。そして、その兄レオンハルトは後方からの襲撃に身構えている。ランツェスやムスタールがいつ動き出すかもしれないので、それに備えるためだ。
 ブレイヴは横目でセルジュを見た。
 軍師は奇策を用いたりはしなかった。いや、できなかったというべきか。ここまで来たら何の小細工も通用しないなどわかっているし、全軍を王都マイアへと進めるのみだ。白騎士団は全力でそれを阻止する。他の騎士団も協力を惜しまずに、名のある諸侯たちがこの戦いに引き摺り出された。
 これは聖戦なのだと、声高に謳う少年騎士をブレイヴは見た。怨嗟の瞳で聖騎士を睨みつけて、力任せに剣を振り回している。輝かしい未来を期待されていたであろう少年騎士を、ブレイヴは斬った。呪いの声は他の騎士からもきこえる。とっくに心が麻痺しているから何も感じないし痛まないと、そう思い込んでいただけだった。軍師がブレイヴを叱咤する。とまらないでください。それは命令のようでいて懇願のようでもあった。
「見つけたぞ! アストレアの聖騎士だ!」
 湾刀を持った大男が馬を飛ばしてくる。イレスダートではめずらしい褐色の肌と黄金の髪色をした男だった。大男につづく者たちも似たような容貌をして、これもまた希少な黒馬を駆っていた。だが、彼らはれっきとしたイレスダート人だと、ブレイヴは記憶している。この大男の名前は何だっただろう。家名もその騎士団も思い出せない。悍馬かんばを操る大男の相手をまともにするなんて、馬鹿のすることだと軍師が言う。とはいえ、大男の狙いはブレイヴただ一人だ。湾刀を受け止めれば手の痺れを感じた。たしかにそうかもしれない。こんな馬鹿力はイスカの獅子王くらいだ。
「援護してください!」
 セルジュが叫ぶ。湾刀を操る大男は攻撃ごとに一旦間合いを取る。その隙に次の攻撃に耐えられるほどの余裕はブレイヴにはなく、切り抜けようとも大男の部隊に囲まれてしまった。
「ただの優男に見えて、なかなかやるじゃないか! いや、叛逆者の聖騎士サマだ。こうでなければいけねえ!」
 声も大きくてうるさい。思わず顔をしかめたブレイヴに対して大男は満足そうに笑っている。こういう人間を戦闘狂と呼ぶが、一緒にされたくはない。しかし、三撃目を受けたその瞬間、ブレイヴの剣が折れた。
「公子……!」
「おっと、そうはさせねえ!」
 聖騎士の軍師が風の魔法を使うのも、大男は知っていたらしい。軍師は大男の配下に阻まれて近づけない。そして、そのたった数秒のあいだだったが、ブレイヴは茫然自失していた。
 イスカの剣だった。片手剣ではあるもの、この大刃はイレスダート人が扱うには重い。イスカの大地に愛された戦士たちだからこそ扱える代物を、けれどもシオンはブレイヴに与えてくれた。イスカに戻れなかった友人が遺した形見だった。
 剣を失ったブレイヴに大男の湾刀がしつこく襲い掛かる。歓声がきこえる。大男の配下たちが騒ぎ立てている。もう勝ったつもりでいるようだが、事実それは正解だ。聖騎士の首を取った者が英雄となりて、そこで叛乱軍も壊滅する。槍はとっくに折れていたし他の武器といえば短剣のみだが、これでは湾刀の相手は務まらない。死を、覚悟するときが来てしまったのだ。
 ブレイヴは最期まで戦いつづける。王都マイアにたどり着けないまま、祖国アストレアに戻れないまま果てるつもりなどなかったが、これではブレイヴより先に馬が潰れてしまう。ブレイヴは短剣を取り出して応戦しようとする。ところが――。
 突然、大男の動きが止まった。そのままゆっくりと、大男の巨体が黒馬から崩れ落ちる。背に刺さっていた矢は心臓を貫いていたのだろうか。しかし、どこにも弓兵などいなかったはずだ。そして、それはブレイヴ自身の目でたしかめることになる。
 次には矢の雨が降った。かろうじて躱したブレイヴと風の魔法で弾き返したセルジュ、それから味方の騎士たちもうまく逃れている。だが指揮官を失い、また思わぬ攻撃を受けた大男の部隊はたちまちに混乱した。
「なんとか、間に合いましたか……!」
 なつかしい声が響いた。同時にブレイヴは四葉を目にした。天色に四葉と鷹が描かれたそれは、ウルーグの国旗である。友の名を呟こうとしたブレイヴに彼は剣を投げる。落とさないようにとっさに両手で受け止めたブレイヴはその剣を見た。鞘には四葉と鹿の国章が、これはラ・ガーディアのフォルネの証だった。
「使ってください。イスカの剣よりは小ぶりですが、扱いやすいはずです」
「ありがとう、エディ。きみが来てくれなかったら、危なかった」
「遅れてくる方が格好が付きますからね。まあ、それも紙一重でしたか」
 こんな冗談を言う人だったかどうか、ブレイヴは記憶になかったのですこし笑った。エディも少年らしい笑みを浮かべている。
「ここは私たちに任せてください。大丈夫です。ウルーグの他にフォルネの騎士団もお借りしています」
 すでに激しい戦闘がはじまっているようだ。味方が増え、楽になったブレイヴの部隊も戻ってきた。
「さあ、行ってください。そして、忘れないでください。ブレイヴ、あなたはひとりではありません。ここには姉エリスもルイナスもスオウも、それからガゼルもいません。ですが、彼らの意思を。来られなかった者たちの分まで、私たちは戦います!」
 エディの矢が敵の胸を貫いた。相変わらず正確無比なその弓の腕には感服する。軍師がブレイヴを促す。わかっている。感謝を声にするのはもっとあとだ。ブレイヴはふたたび馬の腹を蹴った。










 マイア平野には激しい戦闘の跡が残されている。
 そこかしこに遺体が積み重なり馬は苦痛に喘ぐ主人を見捨てて逃げ出し、友を危機から救おうとした騎士は今まさに矢の餌食となって倒れた。王都マイアの白騎士団を筆頭に、イレスダートには正規の騎士団がたくさん存在する。数でいえば圧倒的に王国軍が有利であったものの、運命の女神はいつだって気まぐれだ。
 騎士団に雇われていた者もあるいは勝手に付いていた傭兵たちも、風向きがいつ変わるかもしれないと、叛乱軍に寝返る者も少なくはなかった。そういった裏切り者は何も傭兵たちに留まらず、名のある騎士団にしても将校にしても、はじめからこちらに付いていましたとばかりにしたたかな顔をする。叛逆に手を貸す者が、のちにどういう道を歩むのか知らないのだろう。
 ブレイヴはただひたすらに南を目指していた。
 聖戦を語る者、正義を謳う者、聖騎士を悪魔と罵る者もいたし、反対に説き伏せようとする者だっていた。立ち止まることもせず振り返ることもしなかった。これが聖戦だというのならそれこそ傲慢と言うべきだろう。
 正義など口にするつもりもなければ、悪魔でも死神でもどちらだってかまわない。そのやさしき声はブレイヴを破滅へと導く。罪から逃れることなど、どう足掻いたところで不可能だというのに。
 西ではシオンとエディが戦っている。東を守るのはグランのレオンハルトとセシリアだ。そして後方にはルダの魔道士たちとノエルの弓部隊が、クライドとフレイアが属する伏兵部隊も相手の動きを撹乱させているはずだ。
 ブレイヴは意識して呼吸を繰り返す。やがて、王都マイアが見えた。歓喜の声があがったが、それにはまだ早い。ブレイヴとおなじくイレスダートの聖騎士が一人、フランツ・エルマンが無策でこの戦いをつづけていたとは到底思えず、むしろこれは誘き出されたと考えなければならない。しかし、それを承知の上でブレイヴもセルジュもここまで来たのだ。四方八方はすでにマイアの軍勢に囲まれている。王都マイアのその目前で聖騎士を、叛乱軍をここで潰すつもりなのだろう。王の盾は鉄壁の守りである。
「ブレイヴ・ロイ・アストレア」
 ところが、フランツ・エルマンその人が、ブレイヴの前に現れた。
「貴公はなぜ、戦う?」
 どういうこたえで返すのが正解か、ブレイヴはふた呼吸を置く。
「私の声で返さずとも、あなたはもうわかっているはずです」
 その問いは時間稼ぎのための言葉とも思えずに、降伏を促しているようにも感じなかった。同情と捉えるべきなのだろうか。彼は、ブレイヴを賤視せんししている。
「フランツ。あなたは見て見ぬふりをされるつもりですか? この国は、国王陛下は間違っている」
 はじめて言葉に出した。白騎士団がざわめき立ち、フランツは片手をあげてこれを制した。
「ルドラスの銀の騎士ランスロットに接触し、アナクレオン陛下の声を偽りなく伝えたのはたしかに私です。ですが、それがどうして国を売ることに繋がりましょうか? 陛下を売国奴と称して排除しようと企むは元老院、それこそ国賊ではありませんか?」
「心変わりをされたのであろう。陛下は、内乱の終結を望んでおられる」
「私には到底理解ができません。ルダとアストレアを代価とし、手中に収めたその暁にはルドラスとの戦争に使うなど……。抗うのは、当然の行為です」
 怒りで声が震える。認めたくは、なかった。けれどもこうして言葉にして吐いて、やっとブレイヴは気付いてしまった。見て見ぬふりをしていたのは己であったのだと。いや、そうではない。信じていたかったのだ。ブレイヴの主君はアナクレオンという人、ただひとりだ。
「騎士ならば、主君の声に応えなければならない」
「それが王の盾として、あなたのこたえなのですか?」
 返答はなかった。フランツ・エルマンが折れることはけっして、ない。
「正義も、信念も、守るべきものも、絶対的な力の前では無意味だと、あなたはそうおっしゃるのですね?」
 これが最後の問いだろう。ブレイヴの声だけで騎士が引くというのなら、こんな戦いなどはじまってはいなかった。ブレイヴには彼が微笑んでいるように見えた。見間違いだろう。フランツは王の盾で、ブレイヴは王の剣でありつづけなければならなかった。
 遠回りをし過ぎた気がする。旅路を経てようやくたどり着いたそこが、安息の地ではなかったとしても、ブレイヴの意思は揺らがない。
「私はレオナをこの国にかえします。彼女が安全で、何も危険などないその場所に」
「そしてお前は逃げるというのだな? 王をその手で屠り、断頭台しかない未来に」
 その場にいる全員が信じられないものを見る目をした。ブレイヴもフランツも、同時に目を瞠った。誰も、その人の名を呼べずにいる。声を失い、呼吸すら忘れてしまっている。当然だ。玉座にあるべきその人がそこにいるのだ。
 アナクレオン・ギル・マイア。彼らの王が、そこにはいた。


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