六章 あるべき場所へ

聖者の行進3

 空の色が変わる頃になってようやく白騎士団は退いた。夜襲の危険はないと見て騎士たちは天幕を張る。軍師の指示の前よりも早かった。
 最初はルダとアストレアだけの、そのうちにオルグレム将軍の騎士団が加わって、しかしいわば寄せ集めの集団でしかなかった。そこにグランのセシリアが合流し、レオンハルトがさらなる竜騎士団を率いて来てくれた。クレイン家に同調して加わったのは新兵だけはなく、イレスダートの諸侯、または名のある騎士団も加わっている。ロベルトの氷狼騎士団はあの砦に残っている。彼らは同盟軍ではあるけれど、友軍とはっきりとした言葉で表すほどには、こちら側に付いてはいなかった。ブレイヴはロベルトと最後に交わした声を覚えている。おまえは馬鹿だ。やっぱり彼はそう言った。
 ブレイヴがセルジュとともに天幕へと入ったとき、すでに食事は用意されていた。
 固くて酸っぱい黒パンとピクルス漬けに、それからソーセージとチーズに果物がすこしだけ、それでも戦場では贅沢なくらいの食事だ。ところが、今日はそれに葡萄酒とあったかいスープまで付いてくる。あつあつの玉ねぎのスープは疲れが取れるだろう。葡萄酒は短時間でもよく眠れるようにと考えたのだろう。
 おかえりなさいませ。それだけ言って、けれどもルテキアはまだ退出しようとしない。ちゃんと全部を胃の腑に収めるまで見届けるつもりなのだろう。ブレイヴは苦笑する。
「ありがとう。……これから、軍師と話がしたい」
「私は邪魔になりますか?」
 どうにも棘が残る物言いは騎士が怒っているせいかもしれない。同郷の騎士を勝手に行かせてしまったこと、傍付きなのに姫君から引き離していることのどちらかか、あるいは両方だ。
「そうじゃない。そんなに見張ってなくても休めるときには休むよ。君こそ、他に仕事が残っているはずだろう?」
 そろそろ軍師が苛立ちはじめる頃だ。騎士は短気を起こすようなたちではなかったものの、さすがにこの言い方は不快に感じたらしい。こんなところで口論になるのは避けたい。騎士を追い出す形になったとしても。
 ルテキアの背中が天幕から消えてからやっとブレイヴは腰をおろした。
 玉ねぎのスープに浸して食べると黒パンでも食が進む。騎士の気遣いに、あとでもう一度ちゃんとした礼を言うべきだと思った。悪いことをしてしまった、その自覚はある。
 ブレイヴは横目で軍師を見た。セルジュはまだ食事に手をつけてはおらず、深いため息だけがきこえた。ルテキアを邪険にするつもりではなくとも、話題が話題なので秘匿にしなければならない。
「ノエルの報告によると、蒼天騎士団の者たちが目を覚ましたそうです。皆、公子に会いたがっているようですが、いましばらく時を置くべきかと」
「わかっている。それより、不可解な点がふたつある」
「どこの誰かは存じませんが、叛乱軍に味方するつもりなのでしょうね。後者でしたらこの目で見ていませんので断言できませんが、そのような魔術を扱える者は異端です。もしくは、食事に毒を含ませていたか」
 チーズを喉に詰まらせかけてブレイヴは葡萄酒で流し込む。
「イレスダートでそれは不可能だ」
「イレスダートでなければ可能です」
 少量の睡眠剤ならば見逃されるとしても、それが毒と見做されてしまえば罰せられる。イレスダートでは毒薬の所持及び、製法が禁じられているからだ。となれば他国から入手するしかないが、北のルドラスはもとより西のラ・ガーディアにしても、そのような危険を課してまで手に入れようとする者はいない。あとは自由都市サリタ。いまでこそイレスダートの管轄に置かれているが、その前ならば有り得る話だ。ブレイヴは空になった碗を置く。あれこれ考えていても仕方がない。ともかく、アストレアの者たちと戦わずに済んだのだからそれでよかった。毒を盛られたにしても魔術によるものだとしても、後遺症さえ残らなければ心配は要らない。そのはずだ。
「魔術といえば……、他者の心を掌握することは可能なのだろうか?」
 セルジュは露骨に眉間に皺を寄せた。非現実だとでも言いたいのか、ため息が返ってくる前にブレイヴはつづける。
「たとえば、その、魔力で上回る者が弱者を意のままに操ると、そういうことが」
「可能でしょうね。相手が人間ではないのでしたら」
 回りくどいやり方をしても軍師は騙し切れないようだ。ため息で返すのはブレイヴの方だった。この短期間で起こったこと、そのほとんどは軍師に漏れなく伝えていたが、あれは幼なじみはもとよりセルジュにも話してはいなかった。イレスダートの姫君。消えた王女ソニアが女神の名を語る魔女だということも、軍師はもう知っている。
「ですが、私にはどうも違和が残る話にきこえますがね。かのお方が容易く心を明け渡すでしょうか? そうとは思えません」
「お前らしい見識だな」
 セルジュはそのひとを知らないからそう言うのだ。ブレイヴやレオナはちがう。認めたくないからこそ、そうではないと否定をする。と、ここで天幕の外が急に騒がしくなった。制止をするのはルテキアの声で、しかし間に合わずに入ってきた人物を見てブレイヴは目を瞠った。
「密談中に悪いね。邪魔をするよ」
「あなたは……、シオン!」
 名を呼べば西の戦士は破顔した。大股で近づき、それからブレイヴの肩を乱暴にたたく。痛いと抗議すればもっとたたかれるのでブレイヴは大人しくする。イスカの厳しい日差しで焼かれた褐色の肌も、黒髪も意志の強いその目も、彼女は何も変わっていなかった。
「ふむ、すこし痩せたな。ちゃんと食べているのか?」
 ブレイヴは目顔で木机を指す。シオンはちょっと肩を竦めて見せた。まるで母親みたいだ。口にすれば怒られそうなので黙ってはおくが。
「おひさしぶりです。聖騎士どの」
 シオンのうしろからひょこっと顔をのぞかせたのは、成人にも満たない子どもだった。ブレイヴはまじろぎ、子どもは祈りの動作をする。イスカの戦士ならば誰もが知っている挙措だ。
「私の子だ。前に、イスカで会っただろう?」
 記憶を手繰り寄せてやっとたどり着いた。イスカの王城にて、はじめての挨拶をしても子どもは、シオンのうしろにすぐ隠れてしまったので会話もできなかった。
「これが初陣だ。スオウに黙って連れて来たわけではないぞ」
 だとしたら、より込みあげるものを感じてブレイヴは言葉に詰まる。イスカは世襲制ではなかったが、それでもシオンは愛息を他国の戦争へと関わらせるつもりなのだ。すべては、友と交わした約束のために。そしてイスカの戦士は、ブレイヴが負けるとは思ってはいない。だから幼子とともに、ここにいる。
「よく来てくれた。シオン、感謝する。本当に……これ以上を何て言えばいいのか」
「お前がいなければラ・ガーディアはいまも荒れたままだった。イスカの民は受けた恩を忘れたりはしない。もうすこし胸を張ったらどうだ?」
「それは買い被りすぎだよ、シオン。俺は……、あなたたちを利用しただけだ」
 子どもが不安そうに母親の目を見たが、シオンはブレイヴから目を逸らさないどころか唇に笑みを作っている。
「それの何が悪い? 損得で物を考えない人間などいないと私は思うがな。だが、あえて言うならば、お前は優しすぎるのだ。自分の前で起こっているものに目を逸らさないし、見捨てては置けない。まあ、早死にする類の人間ではあるな」
 またおなじことを言われてしまった。それに、これは過大評価だ。笑みをやめないイスカの戦士に今度はブレイヴもおなじように笑う。頼もしい仲間がまた増えた。









 入れ違いに出て行った医者はコンスタンツの目を見なかった。コンスタンツは侍従をそこで下がらせる。眠っているのならばいい、けれども公爵ではないヘルムートの姿を見せるわけにはいかない。医者のあの様子ならばまたひどく暴れたのだろう。コンスタンツは深い息を吐いた。
 寝台で眠るヘルムートは病人に等しかった。
 叛乱軍との戦いに敗れて、森を彷徨っていたヘルムートを見つけたのは彼の麾下だ。黒騎士ヘルムートの纏う軍服は血の色に染まっていたと言うが、しかし生傷はどこにも見当たらなかった。
 戦場へと戻ろうとする公爵を、麾下の騎士が必死に止めたのも理由がある。誰かが治したであろう傷が癒えたとしても、ひどい高熱でとても戦える状態ではなかったのだ。彼を突き動かすのは騎士の矜持だったのかもしれないし、あるいは意地だったのかもしれない。ヘルムートの信ずるものはただひとつ、王だけだ。
 夫はこんなに弱い人だったのだろうか。 
 小棚に常設されている薬の数を見てコンスタンツは思う。傷は癒えているはずなのに痛みを訴える。辛抱強い人だから痛みに耐えることはできても、体力の回復を待たずに無理をするものだからまた熱をぶり返す。譫妄せんもうがつづけば身体は弱る一方で、それでも彼は戦場へと戻ろうとする。手が付けられないほどに暴れて、医者は違法な薬の処置をし、無理やりに眠らされたヘルムートは幾日もそのままで、たまに目を覚ましたかと思えば、廃人のようにただ空を見つめるばかりだ。
 部屋の空気を入れ替えよう。コンスタンツは窓を開け、澄み渡る青空を眺めた。イレスダートは夏を迎えているが、ムスタールではまだ雨が残っている。昨晩も激しい雨が降りつづいて、敬虔なヴァルハルワ信者たちは神の怒りだと恐れる。ちょうど一年前、ムスタールでは記録的な大雨に見舞われた。山間の集落では家屋が崩壊し、作物の収穫にも影響が出た。いまでも信者たちはこぞって大聖堂へと赴き、神へと祈りを欠かさない。コンスタンツは彼らを憐れに思わない。それが、ヴァルハルワ信者たちの日常だからだ。
 明日もまた雨が降ればいい。それは、呪いの言葉のようにコンスタンツの唇から溢れる。大雨が邪魔をして公爵の出陣を妨げる。晴れの日には無理をしたせいで身体が動かせなくなる。コンスタンツは大司教を父に持つヴァルハルワ教徒ではあるもの、神を信じてはいなかった。けれどこうも思う。彼を止めているのは神の意思ではないのか、と。
 いつから悲観的な考えになったのだろう。コンスタンツはまたひとつ息を吐く。外庭からは子どもの声がきこえてきた。午餐の前のこの時間は子どもたちにとっての息抜きだった。息子たちに公爵の姿を見せてはいなかったが、上の子は聡い子どもだ。きっと気がついていて、それでも弟を不安にさせないようにと努めている。だからコンスタンツも、子どもたちの前では母親であらねばならない。
 ヘルムートの呻く声がきこえる。また、うなされているのだろうか。ムスタールの男は謹直なたちではあるものの、彼は特にそうだった。婚約者として彼の前に立ったときも婚礼の日にも、彼はほとんど笑わなかったと、コンスタンツはそう記憶している。子どもらが生まれたそのときには目を細めていたけれど、息子たちに微笑む姿は多くはなかった。真面目で不器用で、でも強い人。ところが、この姿はなんだろう。彼から剣を奪ってしまえばこんなにも変わり果ててしまうのか。どちらが本当のヘルムートなのかと、コンスタンツは思う。騎士として、人として、あまりに、脆い。
 外庭を駆ける侍従の姿が見えた。来客はすべて断っていたが、おそらく彼らがまた来たのだろう。公爵への伺候は名目上として、彼らは黒騎士に圧力を掛けているのだ。コンスタンツは机上を見た。羊皮紙の山が公爵を待っていた。無理を押して公務をつづけようとするもの、一向に減らずにあるそのどこかに、彼らの寄越した書状が挟まっているはずだ。
 最初に届いた書状をコンスタンツは読んだ。次に届いた書状は封蝋を切る前に捨てた。
 元老院は王の名を語りて、黒騎士ヘルムートを戦場へと戻そうとする。王命とあらば、彼は是が非でもそれを果たそうとする。彼にとって王は絶対であり、抗うことのできない存在だからだ。
 ヘルムートが目蓋を開けた。上体を起こそうとするのでコンスタンツは止める。
「私は、どのくらい眠っていた?」
「二日です」
 そうか、と。ちいさく零してヘルムートは肩の力を抜いた。こんな簡単な嘘でも通じるくらいに彼は弱っている。
「すまないが、軍師をここに呼んでほしい。明朝には経つ。その準備は滞りなく、」
「先ほど、王都からの使者がお見えになりました」
 彼の声を途中で遮り、コンスタンツは偽りの言葉を吐く。
「わたくしは国王陛下の声を預かっております」
「陛下は、私に何と?」
「とにかくお身体を気遣われておりました。公の回復を何より願っていらっしゃるのだと」
 ヘルムートは黙り込んだ。国王アナクレオンを敬慕する彼ならば、逆らう声などしまい。だが――。
「我が身を案じてくださる陛下のお心に甘えるわけにはいかない。コンスタンツ、悪いが代筆を頼まれてくれないか? 私は、手が震えて書けない」
「王命に背かれるのですか?」
 純粋で無垢な子どものような目を、ヘルムートはコンスタンツに向けている。
「恐れながら、国王陛下をこれ以上失望させることは、騎士の行いとしていかがなものかと」
「では、私は何をすればいい?」
「いまは、身体を休めてくださいませ。麾下も宰相も諸侯らも、それから子どもたちも。皆が公を案じております。叛乱軍は白騎士団にお任せすればよろしいのです。イレスダートには、聖騎士フランツ・エルマン様がいらっしゃるではありませんか?」
 幼子をあやすようにコンスタンツは言う。ヘルムートはふたたび目蓋を閉じた。そうだ。王都マイアには王の盾がいる。叛乱軍を王都へは近づけさせないし、他の公国も動き出しているはずだ。彼が、動く必要などないのだ。それに――。
 どうせ間に合わない。コンスタンツの声は眠るヘルムートには届かなかっただろう。 


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