六章 あるべき場所へ

聖者の行進2

 強い日差しが頬を焼く。十日ほど前までは雨つづきだったというのに、イレスダートの夏はいつもこうだ。
 草木は太陽の恵みを受けてぐんぐん伸びてゆくけれど、人間や他の動物たちはそうもいかない。気温の変化に身体がついていかなくなるし、なによりもう五時間も休みなく進んでいれば疲労を感じるのも当然だろう。
 ふう、と魔道士の少年は息を吐く。隣から可憐な声がきこえたのは、そのときだった。
「アステア、だいじょうぶ?」
 心配そうに顔をのぞきこむ彼女に、アステアは笑む。
「はい。僕は、大丈夫です」
 作った笑顔になっていなかっただろうか。アステアは反省をする。まだ成人を迎えていないとはいってもアステアは男だ。それが箱庭で育った姫君に、不安そうな目をさせてしまうなんて、まったくもって情けない。
「ちょっと、もっとしゃんと背中を伸ばしなさいよね!」
 ほら、やっぱり叱られてしまった。
 アステアはちゃんと言うとおりにする。イレスダート北部に位置するルダは夏も過ごしやすいときくが、公女は涼しい顔をしているし、疲れてもいないようだ。アステアは額から流れる汗を袖で拭う。魔道士たちの黒の長衣ローブは見るからに暑苦しいものの、特殊な糸を使って編まれているために季節を問わずに着用できる。もっともそれには本人の魔力の調節が必要になるわけで、これはアステアに心身ともに余裕のない証拠だった。
 うう、やっぱり情けない。アステアは口のなかで零す。深窓の令嬢だなんて、ずっと一緒に旅を共にしてきた仲間に対しても失礼だ。
 たしかに体力には自信がなかったけれど。魔法の訓練はレオナとずっとつづけて、それから剣の稽古はレナードに見てもらっている。彼が消えてしまってからも型を忘れてしまわないようにと日課にしているうちに、ちょっとは体力もついたはずだと、自分ではそう思っていた。
 みんなに置いていかれないようにするには、どうしたらいいんだろう。
 アステアは努力しか知らない。ここで天才型のルダの公女に教えを請うのもいいかもしれないけれど、かの人は「魔法は呼吸よ」だなんてなんとも抽象的な言葉でしか教えてくれない。反対に努力の天才というひとならセルジュがいるが、兄は軍師の仕事で忙しくそれどころではなかった。こういうときに頼るのではなく、自分が頼られる側にならないと。それこそ気負いすぎていることに、きっとアステアは気がついていなかったのだろう。
「ねえ、ラ・ガーディアの夏も暑いんでしょ?」
 脈絡がなかったためにアステアはまじろぐ。ルダの公女は興味本位というよりも、この時間を退屈しているようにも見える。
「ええ、そうきいていますけれど……。でも僕たちは秋と夏の季節しかいませんでしたから」
「ルダの冬とどっちが寒いのかしらね?」
「それは、どうでしょうか? フォルネやウルーグはそれほど寒いとは感じませんでしたけど、イスカは寒かったですよ。ルダみたいに大雪こそなかったですけど……、でも身体が芯から凍えたなあ」
「ふうん。……それで? その人たち、いつ来てくれるわけ?」
 アステアはもう一度瞬きをした。イレスダートの聖騎士とラ・ガーディアの要人たちは約束を交わした。彼らは義を重んじる人たちだ。その約束を果たすときは、まさしくいまだろう。
「来ますよ、きっと。彼らは来てくれます。ここに。イレスダートに」
 それは祈りや希望などとはちがう。確信だ。このたたかいの行く末がどうなるかだなんてアステアにはわからなかったけれど、これだけは言える。皆は明日を信じているし光を見失っていない。ルダの公女がいい例だ。この人はいつだって強い。その強さも自信も、どこから来るのだろうとアステアはいつも思う。
「まあ、いいわ。ここからが踏ん張りどころよ。まずは頑張ってもらうしかないわね。オヒメサマに」
 アイリスの揶揄にも笑顔を返すことなく、彼女はただまっすぐを見つめていた。思いつめているのだろうか。ずっと一人で考えごとをしているようにも見える。そのとき、だった。
「なに……? これは、」
 アステアも感じていた。はじめはにおい。肌が粟立っているのも強い魔力を嗅ぎ取っているからだ。
「――来る」
 彼女の声のすぐあとにアステアは雷鳴を見た。まばゆい光が天空を裂き、地面を揺らすのはまさしく神の怒りだ。
「……っ、やってくれるじゃない!」
 アイリスが舌打ちをする。ここにいる誰一人として怪我を負っていないのは、姫君の作った魔法壁のおかげだ。でも、これじゃ動けない。彼女が防御に徹するというのなら攻撃の手段はなくなるし、そもそも先手を打たれてしまってはこちらが不利になる一方だ。
「魔法障壁を! 早く!」
 ルダの公女の叫びと追撃はほぼ同時だった。王都マイアの宮廷魔道士たちはルダの名だたる魔道士にけっして劣らない。彼らはその自負があり、王たる証を自分たちの手で作り出す。王女の存在をそこに認めているからこそ、あえての攻撃だ。広範囲の無差別による攻撃でも彼女レオナだけは生き残ると踏んでいる。
「まったく、冗談じゃないわよ!」
「アイリスさん、僕たちも!」
「言われるまでもないわね! いい? 攻め込まれる前に撃つ! ……遅れるなよっ!」
 ルダの公女に呼応し、魔道士たちが鬨の声をあげる。アステアは遅れないようにと馬を飛ばし、けれども彼女から目を離さない。どこか、なにかが変だ。この形容できない違和感はなんだろう。
 姫君を守る義務は公子に頼まれたからだけではなかった。レオナは友達で、そして同志だ。でも、いまの彼女はどこか――。
 思考はすぐに遮られる。このたたかいは長くはつづかない。白の王宮は早期の終結を望んでいて白騎士団もそれに従う。だが、そこに反対の意思を持つ者がいれば、話はまた別だ。あれは兄の独り言だったように思う。たしかにいまの状況がそれだ。己の矜持と精神と魔力を酷使した魔道士たちの戦いは、何千という屍をイレスダートの大地に作った。自分がここでまだ生きているのが不思議なくらいだった。
「嫌になるわね、まったく!」
 それでもなお毒を吐くくらいの元気はあるようだ。自分が何人を殺して、仲間の何人が殺されたなんて考えるのはやめた。戦いは終わっていないからだ。アステアとアイリスの視線の先には銀の集団がいる。剣や槍、あるいは弓。接近戦に持ち込まれた時点でこちらの負けは決まったようなものだった。降伏か、否か。決断をくだすのは一人だけだ。 
「レオナ?」
 彼女は白騎士団の前に立つ。待ってください、と。止めようとしたアステアの目を彼女は一度見た。それきり、アステアは声を出せなくなった。
 説得が効くような相手ならば敵も味方もここまで壊滅したりはしなかった。彼らは王女の存在を知っていてもなお、叛乱軍を撃つのが使命である。かの老将軍がこちら側に付いたのも、ムスタールの黒騎士団を抑えられたのも、出来過ぎていたくらいだった。そう、聖騎士は言っていた。いまさら王女の声なんて届かない。
 守らなければ。白騎士団が王女を捕らえる。きっともう、ルダの魔道士たちは北の国に帰ることはできないだろう。それなのに、アステアの体は動かずに、声も出せずにいる。
「――聞け、勇敢なるイレスダートの子らよ。私はこれ以上の争いを望んではいない。剣を、収めなさい」
 それは静かに、けれども絶対的な命令だった。この場が一人の力で支配されている。そんな錯覚をアステアは持つ。まだ成人を迎えていない少年騎士は胴震いする。経験豊富な往年の騎士さえも身じろぎせずにいる。ルダの魔道士たちは瞠目している。アステアは助けを求めるべくルダの公女を見たが、表情はわからなかった。
 呼吸すら許されないそのなかで、一人の騎士が王女と相対する。金髪の見目麗しい、聖騎士とそう歳の変わらない騎士だった。白騎士団団長フランツ・エルマンよりこの部隊を任されているのだろう。騎士は冷静であったし、目の奥には自信と矜恃の両方が見える。
「剣を抑えるべきなのはあなたです、レオナ殿下。我々はあなたを保護する。そして、聖騎士の首をこの手に、」
「させません」
 彼女は右手を天に掲げる。空から降り注いだのは無数の光の刃だった。あのときと、おなじだった。彼女の力をはじめて目にしたときには感じなかった。でも、いまはわかる。目が、喉が熱くなる。心臓の音が耳の奥で響く。歯の根がかちあわない。これは、畏怖だ。けれども、白い光は誰の命も奪うどころか傷さえもつけなかった。アステアはそれがおそろしかった。外れたのではなく、外したのだ。敵も味方も、ここにいる全員の命を彼女は簡単に摘み取れる。
「従うべくは誰であるか、問うまでもない。無益な争いなど何も生み出さない。賢明なイレスダートが子らならば、わかるであろう?」
 一人が下乗した。膝を折り、恭順の意を示せば隣の騎士もおなじ挙止をした。一人、二人とつづけば騎士たちはもう迷わなかった。王女の声が、彼女の言葉が届いたのだ。それなのに、この震えが止まらないのはどうしてだろう。アステアはその意味を追わずにいる。そして、この目で見たのだ。青玉石サファイアのような清冽でうつくしい彼女の瞳が、あのときたしかに血のように赤い石榴石ガーネットの色に変わっていたことを。









 彼が目覚めるときはいつもおなじ場所だった。
 静謐に帰する空間はがらんどうとしている。灯火などもなにもないのにまったくの暗闇でもなく、彼にはひかりが見える。なんのこともない、彼が己の魔力で作った光だ。
 闇のなかに生きるものたちは光をことさら嫌うとも言うが、彼はそうとも思わない。人間の社会に馴染めず、半ば追放される形でやがてたどり着いた地下深く、言うなればここが彼らのあるべき場所だ。
 呪いを施されたものたちは悠久のときを生きなければならない。
 己の身を嘆き絶望し、そうして外へと出たものも、けっきょくはこの場所へと帰ってくる。それでも稀に例外もいる。緑の息吹、風のにおい、大地のぬくもり、喉を潤す清らかな水も炎の恩恵も、一度知れば離れがたくなるのだろうか。宣教師のように自然の素晴らしさを語った女が自身の母親であったかどうか、彼はもう覚えてはいない。女は彼を置いて外へと行ってしまったが、恨む気持ちもなければ失望することもなく、彼はこの場所が嫌いではなかった。
 無聊を慰めるのも気まぐれのようなものだったのかもしれない。彼はときおり外へと旅立つ。白亜と大理石で作られた宮殿で何年かを過ごし、けれども心が満たされることがないまま、目的を定めずにただ気の向く方へと行く。彼の容貌は子どもであったり青年であったりとさまざまだったものの、雪花石膏アラバスターのような透き通る肌と絹糸を思わせる白髪がめずらしいのか、行く先々で娘たちが彼に引き寄せられる。誑惑きょうわくするうつくしさはまさしく魔性のそれで、人とは異なる種族の彼の正体など誰も知らなければ、知ろうともしない。
 となると、やはりあの娘は異質だったのだろう。怯えた目で、けれども凛とした声音ではっきりと、あなたを知りたいと言った娘の言葉は偽りなどではなかった。
 彼はそれ以来、娘を自身の傍に置いている。人間の言葉を借りるならばそれは連れ合いと言うものらしい。人ではない存在のくせに人の真似事をしている、過去の自分がきけばきっと笑うだろう。
 さきほどまで感じていた体温も幻だったようだ。彼女のにおいもとっくに消えていて、彼は一人きりだった。酷使していた魔力も体力も回復しているというのに、身体を動かすのがどうにも億劫で彼は眠るのを繰り返す。すると彼の名を呼ぶ声がきこえてきた。はじめは無視していた彼も、あまりにしつこく呼ばわるものだから意識がどうしてもそこへと向く。退屈したときのように、子どもは欠伸まじりの声で言った。
「ねえ、いつまでそうしているの? もう飽きちゃったよ」
 彼はこたえなかったが、子どもはくすくす笑っている。
「こんなつまらないところ、早く出て行こうよ。そうだ、またお城で暮らすのもいいね。ユノは王様。今度はイシュカも連れて行ってあげようよ」
 とっておきの秘密を話すときみたいに子どもの声は弾んでいる。
「きっと喜ぶと思うんだ。だって、あの子は元々お姫さまだから。新しい絨毯にふかふかのベッド、甘いおやつだってたくさん食べられる。綺麗なドレスも似合いそうだなあ。そうだ、きらきらのティアラをイシュカにあげよう。きっと、」
「五月蝿い」
 ユノ・ジュールは目蓋を開き、起きあがった。
 子どもの声も姿も消えていた。いや、はじめからここには彼だけしかいなかった。あの声は他でもない彼の唇から溢れた声で、もうひとりが勝手に喋り出しただけのことだ。
 《彼》の存在を自身のなかに認めるようになってから、どれくらいが経っただろうか。人に教えられるまでもなく己が異端であると知っていて、しかし同様の声がきこえるものなど他にはいなかった。いや、いるとすればもうひとりが――。
 ユノ・ジュールは裸足で歩き出す。無機質な石は冷たく、彼の長い白髪も地面へと届きそうなくらいに伸びていた。こうなる前にいつもイシュタリカが切ってくれるのだが、あいにく彼女は出かけている。監視役を務めているのだろう。
 放っておけばいいものを。つぶやきはさきほどまでの子どもの声とはちがって、大人の男のものだった。
 彼が目を覚ましたのは同族たちの勝手な行いに辟易したからでもなければ、先の声の煩わしさでもなかった。ユノ・ジュールは石の壁に手を添える。この壁の向こう、ずっと遠いあの聖王国のどこかで力を放ったものがいた。彼はそのにおいを見逃さない。魔力の性質が似ているのは当然だ。あれは、彼の片割れなのだから。
 目覚めつつあるものの、まだ足りない。そうだ、完全でなければならない。彼の内に宿る獣は血と肉を好む。死を恐れずにそのうちに何も感じなくなってくるのも、獣の本質だ。自らに秘められた力を抑制なく使いつづければ、人としての理性を忘れて獣と化す日も遠くないだろう。それこそ、ユノ・ジュールの狙いである。しかし、彼に許された時間はそう長くはない。その日のために揃えた駒をあとは動かすだけ。
「そう、上手くいくかなあ?」
 子どもの声はいつもユノ・ジュールの邪魔をする。
 はたして、そこへとたどり着くのはどちらが先であろうか。彼はふたたび眠りにつく。次に目覚めたとき、彼女はきっとそこで泣いているだろう。


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