六章 あるべき場所へ

テレーゼとロア

「どうしても、行くというのね?」
 このやり取りは、もう何度目になるだろう。
 切言よりは懇願に近い。何度となく声を落としたところで、彼女にはまるで届かなかった。
 イレスダートはまもなく初夏を迎える。南に位置するオリシスではいち早く雨季が訪れるために、雨は朝から晩まで降り続けている。子どもたちは退屈をする頃で、大人たちもこの煩わしい雨の時をじっと過ごすしかなく、けれども豊かに育ちゆく緑の草木も色とりどりに咲いた花たちにとっても、これは恵みの雨だ。
「私がこれだけ言っても、あなたは聞いてくれないのね」
 根気強く続けたところで彼女はまだこちらの目を見ようともしなかった。椅子に腰掛けるようにと勧めても頑なに拒むものだから、二人はいつもこうして立ち話となる。
「こたえなさい、ロア」
 声は、強い。
 義理の姉と妹の関係であっても、これまで共にしてきた年月は長いもので、互いの性格はよく知っているはずだ。だから、テレーゼの声色が変わったことに彼女は少なからず動揺したようで、それなりの反応をした。
 こわがらせるつもりはない。ただ、話しをしたいのだ。
 もうすぐ一年を迎える。時の流れというものは残酷なくらいに早く、痛みも悲しみも苦しみも、何もかもを癒してくれるほどに長くはなかった。ただそこに彼がいないという空白、これが二年になろうと三年が過ぎようとも、けっして埋められるものではない。
 テレーゼにしてもロアにしても、忙しない日々追われているのは事実、だからこそオリシスはここで折れてしまってはならないのだ。アルウェンという人を失ったとしても。
「ロア。お願いよ。もう一度、考え直して」
 テレーゼは義理妹いもうとの手を包み込むようにしたが、それはすぐに解かれてしまった。その冷えた手はぬくもりを拒んでいる。彼女の心と同じだ。
 ロアが受け入れようとしない理由は分かっている。あまりにも悲しみが大きすぎたのだ。彼女が駆け付けた時にはもうアルウェンの息はなかった。それはテレーゼとて同じで、しかしテレーゼはたしかに彼の思いを受け取っていた。あの時のロアは悲しみよりも怒りと憎しみの方が大きかったのだろう。彼、のいのちを奪った者を逃がすまいと、夜の雨の中を出て行った。それを止めたのはテレーゼであり、公爵の妻としてはじめて下した命令でもあった。
「ひとりきりで、苦しまなくてもいいの。あなただけが、悔やむことはないの」
「私は後悔などしていません」
「いいえ。うそよ」
 その証拠にロアはまだテレーゼの目を見てはいなかった。悔恨ではなく、怨嗟と厭悪えんおに苦しんでいるのだろう。義理妹は道義心に強い人間だ。
 窓をたたく雨の音が聞こえる。テレーゼは雨の日を嫌いではなかった。
 アルウェンは騎士たちの稽古が休みになるからと長椅子に腰掛けてテレーゼの入れるハーブティーを待つ。大人しい養女はみなの会話に耳を傾けつつもお気に入りの本に夢中なようで、その後に少し遅れてから来るのがロアだ。テレーゼの作った焼き菓子は家族みんなの好物であり、たのしいお喋りが終わる頃には皿はきれいに空になっている。それが毎日続いても飽きることなく、しあわせなひとときであったと、テレーゼは思う。そこに、ただ二人がいないだけで、こうも変わってしまうのなら、これほど悲しいことはない。
「あの者たちの声に、耳を傾けてはなりません」
 それは公爵夫人としての、義理姉としての、年長者としての声だった。しかし、届かなければ何の意味も持たず、ロアは薄い笑みをする。
「元老院が言ったことに偽りはない」
 なんて目をしているのだろう。テレーゼは目の前にいるのがロアではないような気がした。
 王都マイアの元老院が接触してきたのはアルウェンの葬儀が終わって幾日も経たぬうちだった。悔やみの言葉と労わりの言葉、それからアルウェンを称える言葉と、そのどれもをテレーゼは信じることができなかった。なにしろ、生前に夫が嫌悪をしていた元老院が一人、かの者たちはさぞかし甘美な声を用意していたのだろう。その少し前のテレーゼならば言われるがままに、あるいは怯えていたかもしれない。毅然とした立ち居振る舞いを見せ、凛とした表情で公爵夫人の顔をして出迎えたテレーゼを、かの者たちはどう見たのか。
 そして、次に彼らがオリシスを訪れた時にはテレーゼではなくロアを名指しした。その当時の身重の身体で自由が利かないテレーゼを気遣ったようで、そうではない。元老院の狙いは最初からロアであり、オリシスなのだ。
「ロア。わかるでしょう? あなたは、惑わされているの」
 アルウェンという公爵を失ってもすぐにオリシスが傾かなかったのは、それだけオリシスが強い国であるからだ。それは諸刃の剣にも成り得るだろう。アルウェンにはロア以外に兄弟はなく、親類にしてもすでに父親も他界しているがため、他には隠居した老爺ろうやたちが、いずれも政治や軍事には関わらない身でありあくまで相談役だ。だから、その上に立つにはロアしかいなかった。成人をしているとはいえ、ロアはまだ若い。いや、以前のロアならば見極める目を持っていたはず、今のロアは――。
「姉上は、私を説得しているようで、そうやっていつも彼らを庇おうとする」
 テレーゼは息を止めた。やっと、こちらを向いたかと思えば、その面差しにはぞっとするようなくらやみが見えた。ともすれば震えそうになる肩をテレーゼは反対の手で押さえる。
「彼らのことを恨んではなりません」
 一番おそれていることを、口に出さなければならない。テレーゼとは対照的にロアは笑っていた。
「何を言われるのですか、姉上。彼らが何をしたか、知らないはずがないというのに」
 テレーゼはかぶりを振る。その先は聞きたくはなかった。
「そこにどのような理由があったとしても、王女を連れ出したことは事実、アストレアはすでに逆臣の罪に問われている。そうしてオリシスに落ち延びたかと思えば我が兄を利用した。それだけに飽き足らず、あの男は兄を殺した……!」
「ロアっ……!」
 ほとんど悲鳴のような声をしても、彼女は瞬きさえ落とさなかった。それはもう呪いの言葉のようで、テレーゼは耳を塞いでいたくなる。
「目を背けているのはあなたの方だ、姉上。イレスダートから逃亡し、その先でも自国の騎士に刃を向けた。それだけに留まらず、あろうことか西の大国の争いに加担したというではありませんか。これが、反逆行為でなければ何と説明するべきです? あれはもう立派な逆賊だ。イレスダートにとって危険なのです……!」
 西の情勢ならば伝え聞いていることだ。しかし、あの元老院が運んできた情報ともなれば、どこまでを信用するべきか。テレーゼはもう一度、否定する。信用すべきなのは元老院などではない。彼ら、だ。
「あなたは、彼らを憎むことで、悲しみを忘れようとしているだけよ」
 ひとつ、涙が零れた。泣くつもりなどなかったけれど、それでも勝手に落ちてきたのだ。テレーゼはロアを見る。義理妹はちゃんと見ているだろうか。テレーゼを、そしてオリシスを。
「あなたにそれを言われたくない。姉上こそ、彼らを信じようとしているだけだ」
「ロア。私は、」
「ならば、なぜ彼らは逃げたのです?」
 それは、と。続けようとしたところで声は途切れてしまった。ロアの言っていることは正しいのかもしれない。
 あの日、偶然にアルウェンの部屋を、彼らがそこにいたことを目撃した侍女だけが知っていたこと、けれどもあまりに凄惨な現場を見てしまったためか、侍女の心は壊れてしまった。執拗に詰問されたためだろう。元老院はただの侍女であろうとも、それを繰り返した。
 彼らではない。テレーゼは信じて疑わないのは、アルウェンの残した声をよく覚えているからだ。祖国を追われてこのオリシスへと落ちた彼らのことをアルウェンは迎え入れ、そしてテレーゼにこう言った。大きな流れが動き出しているのかもしれない。もう自分はマイアに、王家に関わることができない身であっても、イレスダートの和を望むことに変わりはない、と。つまり、彼らを助けることで、それを為せるはずだと、アルウェンもまた信じていたのだ。若き者たちを導く存在として。
「姉上。なぜ、応えてはくれないのですか?」
 その沈黙の時がわずかであろうとも、ロアには焦れるほど長い時間であったのだろう。やや子の泣き声が聞こえてきたのはその時だ。あまりに泣き続けるものだから乳母が手に負えなくなったらしい。気まずそうに部屋へと入ってきた。
 テレーゼは我が子を抱きしめる。普段はそれほど泣かない子がここまでぐずるのもめずらしく、テレーゼは乳母と目を合わせ、互いに困った顔をした。子は母親の情緒を機敏に感じ取るというが、今がその時のようだ。
 溜息を残してロアは部屋から出て行こうとする。テレーゼは子を抱えたまま、追い縋ろうとした。
「姉上には軍事に携わる権限はないはずだ。ならば、すべて私の判断で決める。まもなくはじまる戦争にオリシスは加担する。これは、オリシスのためです」
 そんなことを、どうして黙って見ていられようか。
 妹のロア。アルウェンが未来を託した騎士。それから、身分は違えどテレーゼが友情を望んだ姫君。彼女たちが刃を交えるなどとても耐えられることではない。そうであっても、テレーゼはもう声を持たなかった。
「その子も、守るためです」
 家族に向ける顔をしている。それなのに、ロアは自ら剣と血が混じる方へと向かおうとする。テレーゼは伸ばし掛けた手を力なく下ろした。腕の中のあたたかなぬくもりは、テレーゼにとっても、いや、オリシスにとっての希望だ。未来であると、ロアは言う。けれど――。
 もっと強い女であればよかったと、テレーゼは泣く。妹の背を見つめながら、ごめんなさいと。誰に向けるわけでもなく、ちいさく零した。


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