六章 あるべき場所へ

ルダの公女

 彼女の性格はよく知っているために、面と向かって言われたくらいで腹は立たなかった。
 とはいうもの、この豪雪を掻き分けてやっと見つけ出し、そうして間に合ったとばかりに思っていたからには苦笑いするしかなくなる。ブレイヴのその顔はよりアイリスの機嫌を損ねたことだろう。目がもう少しきつくなった。
「それで? どうしてレオン義理兄《にい》さまは来なかったのかしら?」
 その上、言いたいことは山とあるらしく、反論しようものならば余計な刺激を与えかねない。ブレイヴは次の声を慎重に探す。
「彼は、今はまだ無理だ。動ける状態じゃない」
「そ。やっぱりグランはルダを見捨てるってわけね」
 毒も皮肉も。両方をたっぷりと含んだ返しに、ブレイヴはさすがに溜息を吐いた。
「そうじゃない」
 グランルーザとエルグランとの間で起きていた抗争のことを知らないのだろうか。いや、知っていてもなお援軍を求めていたのならば、それはいくらなんでも無理な願いだ。ルダが王子レオンハルトの妻であるアイリオーネの実家だとしても、両国の間は良好な結びつきがあったとしても、おいそれと兵力を動かせるほどの余力がグランルーザにはない。それでも、レオンハルトならば多少の無理をしてもルダのために動くのかもしれないが。
「レオンハルトの代わりだと思ってくれればいい」
 ブレイヴはそのままを口にする。納得がいかないのかアイリスは小鼻をふくらませ、けれどほんの少しだけ目には興味の光が宿っているのをブレイヴは見た。
「ふうん。どういうつもりだか知らないけれど。でも、あなたって反逆者でしょ?」
 二度目には怒りを見せるべきか。ブレイヴの逡巡は横から遮られる。
「残念ながらその通りですね。しかし、それはルダも変わりないのでは?」
「セルジュ」
 相も変わらず軍師は遠慮も容赦もしないようだ。ブレイヴは二人の間に割って入り声を続けるつもりだったが、アイリスの方が早かった。
「正直なところ、困るのよね。これ以上の厄介事をルダに持ち込まれるのは」
 ルダには今、王妃マリアベルが身を寄せている。ブレイヴがそれを最初に聞いたのはオリシスにて、そこから時はちょうど一年という頃か。生まれた王子はまだ赤子だ。引き渡しを求めるにしてはあまりに早過ぎる。
 その紅玉の瞳を見ないように、ブレイヴはもう少し視線を左へとずらす。目が合ったのは少年だった。
「君たちも同意見であると、受け取るべきか?」
 突然に話を振られたものだから、少年は激しく瞬いた。ブレイヴは彼の言葉を待つ。
「あ、あの、ぼくたちは、」
 声が途中で終わってしまったのは、少年がこちらへと近づこうとして雪に足を取られてしまったからだ。少年はそのまま前のめりに倒れ込み、雪だらけになったところを従者たちが引き起こす。まぬけ、と。ブレイヴの後ろでアイリスがぼやいた。フードを外した少年の髪の色は銀、それはルダではあまり見ない色だった。出生時ならばともかく、彼らは成長するに従って髪の色がもっと濃い色に変わっていくという。朝焼けの赤、蒼穹の青、それから紫はルダにて神聖視されている色だ。それは魔力の強さの象徴でもあり、アイリスもその姉のアイリオーネも濃い紫の髪をしている。だから、少年は《《その力》》を持っていないのかもしれない。柔和そうな目にしてもアイリスとは似ていなかったが、ブレイヴは彼が何者であるかを分かっていた。
「アストレアの聖騎士さまですね。ぼくは、」
「アロイスだね。アイリオーネが君のことを心配していた」
 少年の姉の名を口にすれば、彼は年相応の柔らかさで笑んだ。
「上の姉には、いつも心配ばかりを掛けていましたから」
 ブレイヴも同じように笑む。アイリオーネとアロイスは歳の差があるから、姉というよりは母のような感情で接していたのだろう。雰囲気もどこか二人は似ている。
「ちょっと、話はまだ終わってないわ」
「同意見ですが、ここで悠長に世間話をしている場合ではないのでは?」
 アイリスとセルジュと、両者から責める目をされてしまえば、ブレイヴは観念したかのように肩をすくめた。それと同時にクライドとレナード、ノエルが戻って来る。どうやら他に敵が潜んでないかを確認していたようだ。
「すぐに引き上げるべきだ。俺はこんなところで共倒れになる気はない」
「そうだね」
 いつもと比べてクライドの動きがやや鈍く見えるのは、雪に慣れていないせいだ。
「待ちなさいよ! 勝手に話を進めないで、私はまだ、」
「すでに落ちていた」
 ただ現実だけを告げるブレイヴに、アイリスは憎しみと怒りの眼差しを向ける。
「なによ、それ……」
 それは悔恨か、それとも懺悔か。隠しきれない感情がアイリスの唇から洩れた。懸命に涙を堪えているのかアイリスの肩は震え、また姉を気遣う表情をしていた弟もそこで絶句する。彼女たちが目指していたのは東。国土が狭いルダとはいえど、ひとところに兵力は置かない。なにしろイレスダートは常に戦争をしている国だ。その一つの公国としてルダもまたあり続け、されどアイリスが頼りとしていた東の砦はすでに抑えられていた。本来ならば、味方のはずのマイア軍によってだ。
 ブレイヴにはアイリスの気持ちがよく分かる。
 祖国アストレアを追われて西へと向かい、そうして山岳地帯をこえた後にやっとイレスダートへと帰ってきた。すべてはマイアの、元老院によるいわれのない疑いを掛けられたことからはじまった。ルダも今、まさしくその状況である。いや、まだ間に合う。ブレイヴは口の中で改める。ルダの中心地はここよりもずっと北にあり、マイアの軍勢がそこへと進軍するまでには少なくとも七日、この吹雪が続けばそれ以上のはずだ。だからここで、ふたりを死なせるわけにはいかない。
「いいえ。まだよ」
 けれど、彼女はまだ追い縋ろうとする。
「姉上」
「まだ西には兵力がある。ヴァルハルワ教会。奴らの力を今こそ利用する時だ」
 アイリスは諌めようとする弟の手を振り解いた。持ち上げた唇の端には自信よりも自嘲の方が勝っているように見える。ブレイヴは憐れであるとは思わない。もしも彼女と同じ立場ならばそうするだろう。けれどあの時、ブレイヴはそれを選ばなかった。守るべきひとがいたから、それはアイリスにも同じものが――。
「アロイス。君はどちらを選ぶ? ここで、引き返すか。それとも、わずかな望みを賭けて前に進むか」
 意地悪な質問をするものだと、ブレイヴは思う。
 少年と、残った彼の従者たちの表情を見れば答えを訊かずとも分かること、それでも問うたのは。
「待ちなさい。私は認めないわよ」
「俺は彼に質問をしている。ルダの代表はアロイス、君だね?」
 ブレイヴは事実だけを言う。アロイスはうなずくことで肯定した。
 彼女たちの父親、つまりルダの公爵はまだ存命でありながらも武力行使、特に王都マイアに関わることをしない人だ。それは公爵が温厚で争いを望まぬ性格をしているために、言い換えれば怯懦《きょうだ》な人間であるからだ。嫡子であるアロイスはまだ成人に満たない少年で、だからアイリスは進もうとする。犠牲になろうとする。ルダのために。己の命を捨てることを惜しむことをせずに。
「死なせない」
 その、どちらも。
 真摯な声はどこまでが伝わったのだろう。けれど、彼女たちに与えられた時間は少ないもので、アイリスは殺していた息をやっと吐いた。ブレイヴは目尻をもう少し下げる。
「とりあえず、この雪と風をもう少し抑えてくれないか? 俺たちを送ってくれた竜騎士たちが、ここまではとても来られなかった」
 小一時間ほど前まではそれはひどい吹雪だった。行く手を阻む風と視界の悪い中で飛ぶのは自殺行為であるものの、勇敢なグランの竜騎士たちは臆さずに空を翔けた。今も少し離れたところで待機してくれているはずで、竜騎士たちをこれ以上待たせるのは酷だろう。
「どうして、私だと分かったのよ」
 挑戦的な眼つきはアイリスそのものだ。ブレイヴは笑みで応える。
「こんな芸当ができる人は、ルダで一人しかいないからね」
 揶揄であってもまんざらでもなかったらしい。アイリスはくくっと喉の奥で笑った。
「私に、殺されなくてよかったわね」









 イレスダートの中心地である王都マイアで生まれ育ち、白の王宮での限られた場所だけしか知らなかったレオナでも、雪というものは見たことがあった。
 最北のガレリアと南のオリシスとのちょうど真ん中に当たるマイアの白の王宮がある場所ともなれば、冬にしても夏にしてもそれほど難儀する気候の地帯ではなく、されどやはり冬には白の贈り物が天から届くものだ。ただ、それはこれまでレオナが目にしてきた景色とはまるで違う。イレスダートから離れて西のラ・ガーディアやグラン王国をこえてきた時にも、厳しい環境の地を旅してきたものだが、それはいずれも自然が人間に与えし試練でもあった。
「あの子は、決して無思慮な子ではないのだけれど……」
 アイリオーネが落とした声の中にのぞく感情はひとつだけではなかった。妹を擁護する気持ちもあれば諌める気持ちもあるのだろう。アイリオーネはそういう人だ。
 レオナは空を見上げる。厚い灰色の雲は太陽の光を遮り続けているために、もうこの雪は五日以上も降り続いているという。ルダの冬はいつもそうで、そこに住まう者たちはそれに慣れてはいるものの、されど今はその季節ではなかった。いかにルダの春や夏が遅いものだとしても本来ならば若葉が芽吹く頃、これは誰の目から見ても異常気象であり、だがルダの者たちはそれが自然による力だけではないことを知っていた。
 どれだけ除雪をしようともとても間に合わず、主要な街道はことごとく寸断されればちいさな村はすぐに孤立してしまう。人々はそうなる前に難を逃れて大聖堂へと向かったようだ。レオナはグランルーザの物資の補給部隊に加わっていたが、訪れた村に人っ子一人としていないことに安堵していた。そして、次に向かったのは大聖堂のある場所だ。ヴァルハルワ教会の総本山であるムスタールや王都マイアほどではなくともやはり信徒は存在するもので、それがある程度の大きさの都市ともなれば比例する。
 着込んだ綿入りの外套も長靴《ブーツ》も北国の寒さに耐えられる作りであっても、長く外にいればいるほどに体温を奪われてゆく。大聖堂の一室に招かれたレオナは手袋を外し、かじかんだ手を陶器で温める。ルダの香草で煮出したお茶をゆっくりと喉に流し込んで、そうしてやっと落ち着いた頃に司教が訪れた。ここの司教とアイリオーネは顔見知りのようで、帰郷したルダの公女の顔を見れば皺だらけの顔がもっとくしゃくしゃになった。
「支援の物資はありがたく頂戴致しますが、ここにはもう十分なくらいです。どうぞ、他の村々にもお分けください」
 拒絶でも謙虚でもないのは声色から聞き取れたものの、意図を汲みかねてレオナは瞬く。司教は続けた。
「信徒たちはこぞって教会本部へと移り行きました。ですから、ここにはそれほど人は残っていないのです」
 その数は百や二百ではないことが分かる。しかし、それほど大多数の人間を動かせるような影響を持つ者がルダに居るとは思えず、レオナは机上で作っていた拳を作り変えた。それはアイリオーネも同じだったようで、司教にもう少し仔細《しさい》を問う。
「それは……、何のために? いったい、誰が彼らを導いたというのですか?」
 言葉つきはおだやかであっても、やや詰問のようにも取れるのはアイリオーネがルダの民を案じているからだ。人々の生活を奪うほどの雪、けれどそうしなければルダはもうとっくにマイアの軍勢によって落ちていただろう。ルダの人々はそれを侵入者であると認めている。だから、戦うために剣を持ち槍を構え、彼らに宿った魔力を惜しみもなく使う道を選んだ。
「ワイト家の、当主になられるはずだった方。その方が……生きていらしたのです」
 レオナとアイリオーネは顔を見合わせる。
 ワイトの名を知らない者はイレスダートにいないといってもいいほどに名の通った貴族の家柄である。ワイトの名を持つものたちはそろって白金の髪をし、瞳は薄藍の色を宿したうつくしい容貌をしている。王家に関わりこそ遠いものの、このヴァルハルワ教会との縁は深くそのほとんどが関係者であるといってもいい。ただしそれは少し過去の話であり、彼らは離散し、イレスダートから消えてしまった。
「では、あの方が……」
 それは、レオナもアイリオーネも知っている人物であった。レオナは修道院に身を寄せていた頃を思い出す。隣室であったアイリオーネもかの司祭とは面識があり、気高い精神にしてもうつくしい容姿にしても、記憶には残っているだろう。
 杞憂であればいいと、レオナは思う。
 イレスダートに落とされた火種は一つや二つに留まらず、それらは今まさにすべてを飲み込まんとする勢いの炎として燃えはじめている。
 

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