六章 あるべき場所へ

雨が降るその前に

 誰かに呼び止められるわけでもなく、アロイスはふと足を止めていた。
 風が変わったような気がする。それに、におい。空を覆う灰色の雲はまもなく雨を連れてくるのだろう。イレスダートの雨季が終わるのもそろそろで、その前にやわらかい雨が降るのはめずらしくはなかった。けれどもこの雨は好機となるのかそれとも逆となるのか。アロイスにはわからない。
「あら? まだここにいたのね? あなたはそろそろ戻らないと……」
 惚けていたわけではなかったのに、そこに立ち竦んでいたアロイスを見つけたのは上の姉だった。
「もうすこしだけ、いさせてください。姉上」
 アイリオーネは後衛部隊のなかでも特に重要な治癒班を任されている。姉は優れた治癒魔法の使い手であるから、適任だとアロイスも思う。ただ、アイリオーネはルダを離れてグラン王家に嫁いだ人で、イレスダートの人間とはちがう。
 アロイスは無意識に周囲を見回していた。白皙の聖職者が見習いたちを指導している。白金の長い髪と薄藍の瞳は中性的な美しさを感じさせる。はじめて会う者などは彼を女性と見紛うはずだ。すこし離れたところには金髪の少女がいて、アロイスとは一番歳が近かった。白金の聖職者は西のラ・ガーディアから来たそうで、金髪の少女がオリシスの娘だという。ここにはルダの魔道士だけではなく、マイアの人間もたくさんいる。クレイン家に縁のある者や元は王都マイアの宮廷魔道士に、聖騎士は彼らを拒まない。
 なんだか、知らない人ばかりになったな。
 アロイスが姉を心配している理由はひとつではなかった。疲れているのかもしれない。はじめは、そう思っていた。グラン王国で大きな戦争が終わったばかりで、次は祖国ルダの危機だった。ムスタールの黒騎士団との戦闘を経て、ここに至るまでの三ヶ月のあいだに、疲労するのは当然のことだ。
「ここは、僕がいますから。姉上は休んでいてくださいね」
 気遣うというよりも、懇願のような声になってしまった。アロイスの姉はちょっと笑う。
「まあ、あなたまで私を年寄り扱いするのね。余計なお世話です。それに、私はグランのレオンハルトの妻ですよ? ここで休んでいたらあの人に叱られてしまうわ」
 目も口も笑っているからか、そんなに怒っているようには見えなくとも、だからこそ姉が気になってしまう。やっぱり、アイリ姉さまは無理をしている。アロイスがそれに気がついたのは最近だ。ムスタールの黒騎士団と戦ってから、いやアロイスがフレイアの制止を振り切って、敵の騎士を助けたそのあとから、だ。
 間違ったことをしたと思わなければ、姉を困らせるつもりもなかった。けれど、あのとき、アロイスは気づかなかったのだ。騎士を救いたい一心で、姉の顔を見ていなかったのだ。
 いまとなっては、あの騎士が誰であったかなどたしかめようがないし、アイリオーネも何も言わないだろう、そんな気がする。でも、結果的に姉を気鬱にさせてしまったアロイスは、レオンハルト王子に会ったらまず殴られるかもしれない。
「それに、私よりも先に休むべき人がいるわ」
 アイリオーネの視線が白皙の聖職者へと向けられる。彼もずっと働き通しだった。救える命は救う。治癒魔法の使い手は、自身の魔力が尽きてもなお働く。魔法の力だって有限ではないから完全には治せない傷もある。それをなかったことにする、そういう力を持っているのはレオナ王女だけだ。
 けれども、王女にばかり負担はかけられないし、救えなかった命だってもちろんある。
 生き残った者たちができることは、生きることだけだ。アイリオーネもクリスも、それからシャルロットという少女も、彼らにずっと付き添っている。本当に、いつ休んでいるのだろうと、アロイスはそう思う。
「クリス。ここは、私が代わります。シャルロットもいるから心配は要りません。あなたは休んでください」
 いつもの姉の声ではない。白皙の聖職者は瞬き、しかしその次には柔和な笑みを見せた。
「それは命令でしょうか?」
「お願い、よ」
 喧嘩がはじまってしまうのではないかと、内心でアロイスは焦っていた。普段は大人しい気質の二人だから余計にこのやり取りがちょっと怖く感じる。そこで袖を引かれているのにアロイスは気がついた。視線をすこしさげてみれば、金髪の少女がこちらを見つめている。
「うん、だいじょうぶ。私、アイリといっしょにがんばれる。クリスに教えてもらったとおりに、ちゃんとできるから」
 新米たちが白皙の聖職者とアロイスの姉と、それから金髪の少女を順番に見た。ここに加わったばかりの者たちが不安視するのは無理もないけれど、このオリシスの少女は聖騎士たちとずっと一緒に戦ってきたのだ。ややあって、白皙の聖職者はもう一度微笑んだ。どうやら先に折れたのは彼のようで、アロイスもやっと安堵した。
「さあ、あなたは早く王子のところに戻りなさい。傍付きが長く王子から離れるなんて、だめですよ」
 マリアベル王妃とバルト王子は氷狼騎士団の砦に残っている。
 王都への道のりはまだ長く、なによりもこれから戦うのは白騎士団だ。マイアの他の騎士団も動き出しているし、それに隣国の公国も黙ってこちらの進軍を見逃すわけがない。確実な安全が確保できるまで要人たちはベルク将軍が守ってくれる。聖騎士はそう言った。ならば、アロイスの役目もおなじだ。
「ええ、そうですね……姉上」
 これも忠告ではなくお願いだろう。アロイスはうなずいた。すでに聖騎士たちは南へと進み出している。輜重隊に治癒班に、後衛部隊はやや遅れて本体につづく。悪戯に時を重ねれば不利になるのはこちらの方で、なにしろ白騎士団は大軍だ。この戦力差を埋めることなど本当に可能だろうか。聖騎士や彼の軍師を信じていないわけではなくとも、不安にはなる。姉は、そんなアロイスを案じているから、なおのこと母親のような声をする。わかっています、姉上。アロイスのもう一人の姉は、魔道士の主力部隊を率いているからとっくに出発していた。ルダを離れるそのときまで、アイリスはいつだってアロイスを叱咤したし、それから守ってくれた。それなのに、この姉ときたら戦場へと赴くときにも、アロイスに何も告げずに行く。これも、アロイスはちゃんとわかっている。絶対に帰ってくるつもりだから、余計な声など要らないのだ。
 僕は自分の足でこれから歩かなければならないし、僕にだって守らなければならないひとがいる。
 まだ幼いアロイスの主君は、抱っこが下手くそなアロイスに触れられると、とにかく泣く。王妃はちょっと笑って、それでも泣く子をアロイスの腕に託す。ほら、バルト。あなたの傍付きですよ。アロイスはちゃんとあなたを守ってくれます。ちいさな王子はむずがったり泣いたりを繰り返し、けれどもこのところは大人しくしてくれる。幼子のぬくもりと、やわらかい頬を思い出してアロイスは微笑む。自分がすこしだけ強くなったような、そんな気持ちになるのだ。
 バルト王子のところへ戻ろう。ここは、アイリオーネがいるからきっと大丈夫だ。
 ところが、一歩踏み出してアロイスの足は止まった。馬のいななきが響いた。そんなはずはない。アロイスはそう思い込もうとする。この森には自分の足で来たし、他に馬を必要とする者もいなかった。火急の用件で使者を遣わせたのならば――。いや、後衛部隊の子細な位置までは味方といえど、知る者はわずかだ。
「あ、姉上……!」
「貴様らは叛乱軍だな?」
 騎士を先導している男はまだ若かった。聖騎士とおなじか、あるいはひとつやふたつ上にも見える。アロイスは答えない。敵とはいえ、騎士が着ている軍服の色は白だ。ならば、分別のある人間のはず、その数は十にも満たなくともここにはまともに戦える者なんてわずかだ。
 アロイスの耳元で声がする。アイリオーネがアロイスの名を呼んでいる。ああ、そうか。少なくとも最悪の事態は免れているのだ。アロイスは一瞬、あの金髪の王女フレイアの存在を思った。けれども彼女がいまここに、いないことが正解だった。戦える側の人間はそうでない者を守ろうとするし、力のある側の人間は勝てない数でも戦おうとするからだ。
 いったい、何が起こっているのだろう。
 上手く働いてくれない頭で考えても無駄だ。聖騎士の軍師はけっして見誤らないし、見落としたりしない。けれど、どんな名軍師でも中身は人間だ。運命の歯車はどこかで狂うこともあるのかもしれない。アロイスは意識して呼吸を深くする。だいじょうぶだと、口のなかで繰り返す。従えと、白騎士団の男がそう言った。他に逃れられる術など何もなかった。










 風のにおいが変わった気がする。空を見つめたレオナにアステアが囁く。もうすぐ雨がきますね、と。
 緊張していたのだろうか。知らずのうちに気が昂るのは当然だ。ここは、戦場なのだから。
 でも、レオナは自分がいまこの場所にいることを、一度だって後悔しなかった。そうだ。これは、わたしが望んだことだ。
 知らずのうちに魔力を使っていたのかもしれない。それはごく自然にわずかな力であっても、名だたるルダの魔道士たちがあの分厚い雲を呼んで、長いあいだ雪を降らせたように。レオナが白い光を放つそのときにも、術者によって気候が変動するのは不思議ではなかった。ムスタールの黒騎士団は、あの光を神の怒りと恐れていたが、白騎士団はどう感じるのだろう。彼らにとって、主は王都マイアの王だけ、叛乱軍に与する王女などきっと敵でしかない。
「ちょっと! これはどういうわけ? 新兵たちは何をやってるのよ!」
 アイリスの声だ。レオナはアステアと一緒に振り返る。ルダの公女は伝令の騎士に怒鳴りつけているところだった。
「新兵たち……? 伏兵部隊のことね? でも、あそこにはクライドもフレイアもいるわ」
「だから、どうなっているのかって、きいてるのよ!」
 援護射撃するつもりが、アイリスの怒りの矛先は完全にレオナへと向いてしまった。いきなり詰問された伝令の騎士も困り果てた顔をしている。
「あのう、つまり何が起こっているんです?」
 アステアがレオナのうしろからひょっこりと顔をのぞかせる。場に相応しくないのんびりとした声色にアイリスは彼を睨みつけたが、魔道士の少年はにこっと返すだけだ。苛立ちを隠さないため息と腕組みと、けれどもアイリスは自分を落ち着かせる時間をちゃんと作っている。
「相変わらず鈍臭い子ねえ。いい? 私たちはね、主力の騎馬部隊を援護するためにゆっくりと動いているの。白兵戦に巻き込まれるなんてとんでもないわ。それなのに、囮になるはずの伏兵たちがもう敵に見つかってるなんて、何の意味もないじゃないの!」
「まって。それじゃあ、新兵たちが勝手に動き出したって、そう言いたいのね? でも、どうして……?」
「手柄を立てたいのか、相手を見縊っているのか知らないけれど、どっちにしても大馬鹿ね!」
 では、すでに戦闘が始まっているのだろうか。アイリスの物言いはそうとしか取れないし、なにより危険なのは陣形が乱れてしまっていることだ。レオナは幼なじみの名を口のなかで呼ぶ。だいじょうぶ。ブレイヴには軍師が付いているし、うしろを守るのはオルグレム将軍の部隊だ。それよりももっと危険なのは本来守られている後衛部隊、誘き出すはずが逆に誘導されてしまっているのだとすれば――。
「いけないっ、アイリたちが危ない!」
「他人の心配をするよりも先に、自分たちのことを心配した方がよさそうよ」
 馬たちが興奮している。魔道士たちの持つ魔力に怯えないようにと、落ち着かせる香草を嗅がせてあるものの、やはり戦闘がはじまる前には急に騒ぎ出す。動物たちは特別な力を宿さないからこそ、危険なものをいち早く察知してくれる。そして、レオナは見た。彼らが掲げる旗は真紅の色だった。
「あれは……っ!」
「どうやら、赤い悪魔のお出ましのようね」
 目を瞠った。ランツェスが、ディアスが近くに来ていることは知っていた。ルダとマイアの戦いのあと、オルグレム将軍の裏切りは即座にイレスダートの公国すべてに伝わり、公爵たちに叛乱軍討伐の王命が下っていた。黒騎士団との戦いのときに、赤い旗を見た者がいると言う。赤い悪魔。レオナのもう一人の幼なじみの姿を認めた者は、そのまま聖騎士に報告をする。いずれこんな日が来ると、ブレイヴはきっと予感していただろう。敵として幼なじみがそこにいるのなら、戦わなければならない。
 アイリスの麾下の魔道士が耳打ちする。逃げてください。包囲されている。剣や槍を持たない魔道士たちが間近に迫った敵とどう戦えばいいのか。答えは、ひとつだけだ。
「逃してくれるとは思わないけどね……!」
 こんなときでもアイリスは落ち着いているように見える。レオナも呼吸を整えた。幼なじみはいま、レオナの目の前にいる。
「ディアス……」
「忠告だ。このまま退け」
 レオナの作った拳が震えていた。逃してくれるのだろうか。自分たちは助かっても新兵たちは全滅する。
「ふうん、ずいぶんと太っ腹じゃない? でもそれって、忠告ってよりも命令ね」
「死にたいのなら勝手にすればいい。犠牲を増やすのが正しいとは思わないが」
 脅しのつもりだろうか。ディアスはきっと時間稼ぎをしてくれている。戦う意思はなく、このままレオナたちを逃すつもりなのだ。幼なじみの立場は苦しい位置にあることはわかっている。ディアスの妹ウルスラを北の敵国ルドラスに売ったのは長兄ホルストで、けれどもランツェスの公爵はイレスダートを裏切ったりはしない。つまりはレオナの敵なのだ。それなのに――。
「いいえ」
 ここで、逃げるわけにはいかない。
 このままレオナたちが退けば新兵たちを失ってしまう。それだけではない。南下をつづけている本体の逃げ場はなくなり、それだけブレイヴたちが危険に晒される。彼を、失うことだけはあってはならない。
「おあいにく様! 私たちはね、どんなときだって諦めたりはしないのよ!」
 強がりなんかじゃなかった。アイリスは本気だ。だからレオナも前だけを見る。魔道士たちがルダの公女に応える。幼なじみの声は彼らの喊声に消されてしまったが、そのときのディアスの顔をレオナは忘れない。きっとこうなることもわかっていたのだろう。わたしはいつも幼なじみを悲しませている。

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