六章 あるべき場所へ

そのひとつは希望という名の

 封蝋を押したとき、その手は一度止まったものの、またすぐに動き出した。
 封書を預かった扈従こじゅうが退出して行くのを騎士は見送る。侍女が運んだ香茶は隣国オリシスから取り寄せた茶葉を使っていて、彼女のお気に入りだった。しかし、茶器のなかはまだ空になっておらずに、すっかり冷めてしまっていた。忙しなく動きつづける彼女の手を騎士の目は追う。ただ、そこに直立しているだけ、余計なことをしようものならばすぐに叱責されるからだ。香茶の替えを用意するのは騎士の仕事ではないと、主はそう言うだろう。
 小一時間が過ぎた。
 三通目の封書を書き終えたとき、彼女は肩で息を吐いた。他の二通の行き先を騎士は知らなかったが、最後の手紙だけは自分の手で届けなければならない。亡きアストレア公爵の弟、彼女にとっては義理の弟で、けれども歳はおなじだったと騎士は記憶している。アストレアの北部を預かる侯爵の印象を、あるいは情報を騎士はほとんど持たない。先代のアストレア公爵という人があまりに勁烈けいれつすぎたために、その弟が大人しく見えるだけなのかもしれないが。
 とはいえ、彼女が認めた封書の意味を騎士はちゃんとわかっている。そう、自分では思い込んでいる。
「頼みましたよ、トリスタン」
 騎士は主君の前で膝を折った。ごく自然な騎士の挙止きょしでも、彼女はすこし笑っていた。
 執務を終えたあとに彼女は向かう場所はいつも決まっていた。この城に来たばかりの頃に、無聊を慰めるためにはじめた薔薇の世話は、いまでは彼女の趣味のひとつだった。良家の未子として育ったとはいえ騎士は剣の他を知らず、花のことにはいっそ明るくはなかったが、しかし咲き誇る花たちを見れば、あの場所を彼女がどれほど大切にしてきたかはわかる。だからこそ、つらい。彼女は東の塔より外へと出ることを禁じられていて、薔薇園も庭師に任せきり、そうして一年が過ぎた。
 ここから庭園は見えるものの、清冽な花のにおいまでは届かない。その横顔がすこし痩せたように騎士には見えた。主人を安心させるための笑みを作らなければならないのに、騎士はそれすらできずにいる。己の無力さが歯痒くてたまらなくなる。それも、このひとにはお見通しなのだろう。
「そんな顔をするものではありませんよ。わたくしのことなど、案じる必要はありません」
 騎士トリスタンは開きかけた唇を閉じる。どんな声を乗せようとも、彼女には勝てない。
「わたくしを、信じられませんか?」
「そんなことは……」
「ふふふ。あなたをそこまで不安にさせるのはいつ以来でしょうね? 求婚を受け入れたときかしら?」
 ずいぶんと昔のはなしを持ち出してくるものだ。
 トリスタンはずっと彼女の騎士だった。アストレアの城に主とともにはじめて来た少年騎士は、そこで彼女と自分の運命が決まるなど思いもしなかった。それもそのはず、彼女は自身の姉の代わりにここへと来たのだ。当時のアストレア公子が相当な奇人だときいていたが、その意味をトリスタンはすぐに理解する。姉には恋人がいるのであなたの妻にはなれません。正面から言い切った自分よりも六つも若い娘に、彼は腹を立てるどころか哄笑こうしょうする。次の言葉はもっとトリスタンを驚かせた。気に入ったからしばらくここに留まるといい。なに、ひと月でいい。そのあいだに落としてみせる。
 そうして彼女がアストレア公爵家に嫁いだのは、ほだされたからだとトリスタンは思っている。
 反対はしなかったものの、はたしてそれで良かったのだろうかと、そんな顔をトリスタンはしていたのだろう。そして、いまのトリスタンも。
「わたくしが一度でも、不幸を嘆いたことがありましたか?」
 いいえ、と。騎士は口のなかだけで言う。
 このひとはどんなときだって絶望したりしない。最初に授かったロイド公子を病で亡くしたときも、夫をルドラスの敵地で亡くしたときも、二番目の子のブレイヴ公子をガレリアへと送られたそのときも。白の王宮より元老院が訪れて、ほどなくしてアストレアの城をマイアの騎士に包囲されたその日も、彼女は決して悲観しなかった。そういうひとだということを、トリスタンは知っている。けれども反対にも見える。不安も恐れもなにも感じない人間などいない。彼女を支えて、守るはずのひとがそこに居ないのなら、己が盾となる。そうだ。トリスタンはエレノアの騎士だ。
 扉をたたく音がした。入室の許可がないまま無遠慮な足音がつづいたのは、相手が短慮であるからだ。
「エレノア殿、これはどういうことなのか、説明して頂きたい!」
 礼を欠いた行いにトリスタンは露骨に嫌悪を描いたものの、エレノアは騎士を制した。
「まあ、ランドルフ卿。お茶の約束をしたのは明日ですよ? オリシスの茶葉を切らしていますの。けれども明日の朝には届くでしょう。無花果のタルトもこれから焼くところですわ」
「う、うむ……。それはたのしみではあるが、そうではない。叛乱軍が動き出した。アストレアのために力を貸して頂きたい!」
 男は力任せに机をたたきつけたものの、エレノアの表情はそのままだ。その報告は昨晩には届いていて、この男が乗り込んできたのも遅いくらいだった。
 席を勧めても固辞する男にエレノアは肩をすくめて見せた。親しい友人さながらの挙措で、実際二人の関係はそれに近い。二人の年齢もそれほど変わらず、一人娘を王都マイアに残しているだとか、妻女を亡くした際に顔も見せなかった父親にすっかり心を閉ざしてしまっただとか、他愛もないお喋りから男の私事までをエレノアはというひとは簡単に引き出す。はじめこそはアストレアを敵視していた男がエレノアに強く出られない理由は他にもある。自由都市サリタの籠絡を不首尾に終わったランドルフは次にアストレアを狙った。次こそ失敗は許されない。だが、子を罪人扱いされたエレノアはほろほろとただ涙を流すばかり、かくなる上は息子と言えども袂を分かちましょう。それまで、ランドルフ卿にはアストレアを守って頂かねばなりませんね。嗚咽する母親の顔から統治者の顔へと変わったエレノアは、そう言い切った。
 アストレアはマイア王家に忠誠を誓う。けれども、剣を預けるその相手は王であり、白の王宮でも元老院ともちがう。エレノアは決して折れない。彼女がいるかぎり、アストレアはマイアの隷属とはならずに、たとえこの国にマイアの騎士たちの存在を許したとしても、形だけの関係だ。懐柔されているのはこの男だ、トリスタンはそう思っている。
「ランドルフ卿ともあろう方が、何を焦っているのです?」
 やさしく、しかしはっきりとした声音は、何も男を落ち着かせるためだけに吐いたものではなかった。
「アストレアは森と湖に守られた国。女神アストレイアは正しき者にだけ力を貸すでしょう。とはいえ、そうではない者に容赦はしない。敵など、このアストレアに許すはずがありませんわ」
「し、しかしエレノア殿……、白の王宮からも要求が来ておるのだ。これ以上は待てぬ。早々に蒼天騎士団を動かして頂きたい」
 ランドルフの視線は騎士に向く。
「騎士団長殿もよろしいな? これは、叛乱軍討伐のためだ。異論は許さぬ」
 トリスタンは失笑しそうになる。男は己の言葉に矛盾を感じてもいないらしい。それこそ半年ほど前の男ならば、己の心のままに驕慢で粗野な声をしていただろう。いまのランドルフは牙を抜かれた獣でしかない。
率爾そつじながら、ランドルフ卿。私はたしかに蒼天騎士団を率いておりますが、その権限はございません。主の声なくして、騎士団を動かすわけにはまいりませぬ」
 男はちいさく唸っていたが、これも自分が蒔いた種である。彼女を東の塔へと軟禁して、軍事権を奪っただけではなく城主の仕事もさせなかった。それでもいまのアストレアが保たれているのは、エレノアがあれこれと根回ししているからで、しかしこの憐れな男は己の力だと思っているのだろう。それならば、代償は自分の手で払うべきだ。
「されども、いまは一刻を争います。特例を認めると、元老院より伝わっておりますゆえに。お二方には従って頂く他はありますまい?」
 騎士と主は同時に振り返った。ランドルフは他に騎士も扈従も連れてはいなかったが、そこにはもう一人がいる。黒髪の仮面を付けた騎士がこちらへと近づいてくる。火事で負った火傷のせいなのか、あるいは激しい戦闘の末にできた傷のためなのか、いずれにしても顔を隠す理由は明かされていない。ランドルフの麾下として、付き従う仮面の男をトリスタンは危険に思う。仮面の騎士が現れるそのときに、いつも話が中断される羽目になる。それこそ、仮面の騎士の狙ったとおりに。
 トリスタンは主の名を呼ぶ。わたくしは、なにひとつとして諦めてはいませんよ。エレノアの目は光を失っておらずに、どこか悲しそうに笑んでいた。








 その翌日には難詰されるだろうなと、ブレイヴはそう身構えていたのだが、軍師がそれを口にしたのは彼らがここを発ってから三日が過ぎていた。
「せめて、私に一言あってもよかったと思うのですが?」
 説教よりも先に恨み言をきくのは想定外だった。ブレイヴは苦笑する。
「正直に告げたとして、お前が素直にうなずくとは思わない」
「当然です。勝手に厄介事を増やされては困ります」
 セルジュは彼らが失敗すると決めつけている。軍師は非情であるべき存在でも、セルジュという人間はそんなことを望んではいない。
「二人を信じてやればいい」
 言いながらブレイヴはそれとなく場所を移動する。氷狼騎士団の砦はアストレアとの国境間近にあり、森にも近い。湖のそばには竜騎士たちが野営している。グランの王女セシリアの隊だ。厩舎はあってもさすがに飛竜を世話する施設などここにはなく、竜たちはともかく目立つので、竜騎士たちにはこうしてもらう他なかった。セシリアには繰り言を言われると思ったのだが、アストレアの湖が気に入ったらしく、彼女は反対に兄レオンハルトがまだしばらく遅れることを詫びたのだった。
 城門でブレイヴを待ち構えていたのは軍師と衛士だ。
 氷狼騎士団の砦にはちいさいが聖堂も設けられているために、ヴァルハルワ教徒たちが足繁く通う。イレスダートの内乱に巻き込まれないよう近隣の住民たちも避難していたのがはじめだったものの、とにかくいまは人の出入りが多くなり、こうして見張りを常駐させる羽目になったと、ロベルトはごちていた。
 この軍はどんどん大きくなる。ルダとアストレアの公子の麾下がすこしだけの、そこにオルグレムの騎士たちが加わって、半月ほど前にはクレイン家が合流した。侯爵を失ってもクレインの名は人を呼び、賛同者の数は増える一方だ。同盟軍と、自分たちをそう呼ぶ。
 子どもたちがおっかなびっくり近づいてくる。聖騎士がめずらしいのだろうか。すぐに母親がすっ飛んできて子どもの頭にひとつ拳を落としてから、逃げて行く。無垢な子どもらは聖騎士が光のように見えるのかもしれないが、大人たちにとってはただの犯罪者だ。イレスダートに争いと混乱の両方を起こした悪人を恐れるのは当然で、けれどもいまの王都に不信を抱いているもの事実らしい。税を毟り取られるのは戦争が長引くためでも、それがこの半年のあいだにもっとひどくなった。白の王宮内で王の力が弱まっているせいだと、民は声を震わせる。アナクレオンという人がいるかぎり、こうしたことは起こらなかったはずだ。ブレイヴはそう思う。
「その逆は考えられませんか? トリスタンほど忠直ちゅうちょくな騎士はおりませんが、彼は蒼天騎士団の団長である前にエレノア様の騎士です。主を守るためにその声に従わず、マイアに屈するかもしれない、と」
「それならそれで、かまわない」
 軍師の嘆息がきこえる。あまり下手な嘘を吐くものではないなと、ブレイヴは思った。アストレアを占有しているのがあの男でなければ、そこで思考を止める。軍師がいまのいままで言わなかったのは正解だ。いや、正確には自分の口から告げてはいない。セルジュはずっと前からこれを知っていたのだろう。おそらくはディアスから、幼なじみは自身がイレスダートを離れているあいだに麾下に情勢を探らせていた。とっくに情報を得ていながら秘匿ひとくにしていた意味など考えなくともわかる。だから、オルグレムも時宜をはかってからブレイヴに知らせた。
「ともかく、アストレアはレナードとデューイに託した。あとは……信じて待つしかない」
「ええ。……しかし、私よりも彼女の方がもっと強敵なのでは? かなり怒っているそうですから」
「ルテキアだな。恨まれても仕方ないだろうな。ノエルにしても、止めるつもりで俺のところに知らせに来たのではなかった」
 馬を用意していたのはノエルで、深夜厩舎に忍び込んだ彼らを待っていたのはブレイヴだ。何も言わずに金貨を一枚握らせる。それだけの行為でも聖騎士の行いとしては間違っている。この軍は大きくなりすぎたのかもしれない。王女を連れ出したノエルには軽罰で済んでも、二人は脱走兵だ。そうしなければ他に示しがつかなくなる。軍師には苦労をかけてばかりだ。
「迷わないでください」
 それは、これから先も止まらないでくださいと、言っているようにもきこえた。
「公子。これは、あなたがはじめた戦争です。それでも……、あなたは一人ではありません。私は軍師として、どんな穢れた仕事でもやり遂げましょう」
 いまさら言うことじゃない。だからこれは、きっと確認だ。
「忘れないでください。あなたには軍師がいます。信頼できる部下がいます。友がいます。志をともにした仲間がそろっています。我らは同士であり、同罪です。自分だけがなどと、思わないように。あなたの姫君は、それを望んでなどいません」
 ひかりを、見ているのだろうか。セルジュはいま、そんな目をしている。
 けれども、ブレイヴは自分のなかに光などを感じたことはなかった。まもるべき光は、ひとつだけだ。
「わかっている、セルジュ。俺は、立ち止まったりはしないし、この戦いが最後だなんて思っていない」
 セルジュの笑みをひさしぶりに見た気がする。いつ以来だろうと、遡ってもすぐに思い出せなかった。だからきっと、本当の意味ではわかっていなかったのだろう。気がついていたはずだ。軍師の覚悟に。それなのに――。
 悔やむならば、いったいいつの自分自身になのだろう。ブレイヴはときどき、それを考える。 


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