六章 あるべき場所へ

星墜ちるとき

 暗き森で声がする。街道から逸れた獣が行く道に等しいそこは、時として旅人が迷い込むこともあると言う。人を喰らう獣に怯えて早足となればもっと道に迷うばかり、そのうちに力尽きて歩むのを止めたときに不思議な光を目にする。ちいさく淡い光に導かれること小一時間、やがて湖へとたどり着く。不思議な光は消えてしまったが、しかし旅人は人里を見つけて涙する。
 あれは、聖霊だったんだ。旅人を泊めてくれた老夫婦は、熱々の玉葱のスープと焼き立てパンをご馳走して、ただにこにことしている。翌日、旅人は老夫婦にと菫の砂糖漬けを置いてゆく。恋人へのお土産に王都で買ったらしく、けれどもやさしい老夫婦に他にあげられるものがなかったからだ。ほらね、あたしの言ったとおりだろう? あの子は、やっぱりいい子だったんだよ。老婆の嬉しそうな声に老爺もにっこりと笑う。女神アストレイアは正しきものを導くが、悪人は決して助けない。
「じゃあ、獣に喰われちまうのはおまえだな」
 ピクルス漬けを頬張りながら少年騎士が言う。指差された癖毛の男はにやっとする。
「いいや、ちがうね。俺は昔この話をばあちゃんからきいたとき、お前みたいな良い子はきっと聖霊に会えるよって言われたんだ」
 亜麻色の癖っ毛は雨の日に特に癖がひどくなるらしく、男はいつも無意識に癖毛を触っている。二人はイレスダートの生まれだが同郷というわけではない。叛乱軍に入ったのも半月ほど前で、おなじ部隊に配属されただけ、歳は離れていても気が合うようでいつも一緒だ。そこへもう一人が加わる。
「へえ、お前らがそんな妄想野郎だとは知らなかった」
「俺はちがう。こいつだけだよ」
「嘘つけ。ガキみたいに目を輝かせて俺の話を皆まできいたくせによ」
 固くなった黒パンを水で流し込みながら笑う。三人の境遇はそれぞれでも共通点はいくつかあった。ひとつは騎士であること、ふたつ目は元貴族であること、最後は白の王宮を憎んでいること、だ。もっとも年上の往年の騎士は没落貴族だというが他の二人も似たようなもので、しかし彼らの身の上など興味も関心もなかった。騎士というよりも傭兵みたいだとクライドは思う。実際、それは当たっていて、いまの彼らは勝手に騎士を名乗っているだけ、ぺちゃくちゃとお喋りをつづけてここが戦場なのも忘れているらしい。
「まあ、きけ。俺は良い奴だから、お前たちにもちゃんと手柄を残してやるよ」
 癖毛の男がやおら立ちあがった。
「本気で行くつもりかよ」
 少年騎士はまだ黒パンを齧っている。
「ぐずぐずしてたら戦闘がはじまっちまうからな。怖じ気付いたんならここに残ってろ。ガキには荷が重すぎる」
「そんなんじゃねえよ!」
 唾を飛ばす少年騎士に癖毛の男が笑う。その横で往年の騎士だけが冷静だった。
「強要はしない。付いて来れなければ置いていくし、お前たちがやられようが俺は助けるつもりもない」
「そりゃ、俺だってそうするさ。けっきょく、生き残った奴が勝ちなんだ」
「じゃあ、おまえは真っ先に死ぬタイプのやつだな」
 少年騎士が剣を背負う。彼らの獲物は両手剣だ。クライドは荒々しく息を吐いた。放っておけばいい。あと先も考えずに自分の利益だけを優先する奴らは、言葉どおりに早死にするだけだ。そういう奴をクライドはいつも見てきた。家の再興を願う者も、亡くした兄弟の復讐のために生きる者も、王宮を憎む者もその末路はおなじだ。
「おい」
 三人が同時に振り返った。彼らはクライドを慕っていなくとも、恐れてはいるようだ。
「な、なんだよ……」
「勝手な真似はするな」
 許さないとは言わなかった。クライドはたしかにこの部隊を任されていて、新兵たちの世話もまとめて行っている。いや、押し付けられたというべきか。ともかく、その権限は持っていても強制するつもりなどない。彼らが黙りこくっているのはクライドの強さを知っているからだ。褐色の肌は異国人の証、イレスダートの人間でもない、それも騎士でもない傭兵くずれに指図されるのは彼らの矜持が許さない。最初に歯向かった新兵をクライドは力でねじ伏せた。事の顛末をきいても聖騎士は何も言わず、ああ見えて血の気の多い側の人間だとクライドは思っている。
「持ち場へ戻れ」
 勝手に死ぬならそうすればいい。けれど、それだけでは済まない。一人の行動ひとつで風向きが変わる。いつのまに自分はそういうことまで考えるようになったのだろうと、思う。きっと聖騎士と長くともにいたせいだ。
「放っておいてくれないか」
「なに……?」
 気圧されている他の二人とちがって往年の騎士はクライドに楯突く気だ。よほど自信があるのだろう。唇の形は変わっていなくとも目が笑っている。あるいは、舐められているのか。
「あんたはイレスダート人だからわからない。いまの白の王宮は腐ってる。……腐り切っている。そういうところから変えていかなければならない」
「お前にそれができるとでも?」
「そうじゃない。そんな大ごとは誰か偉い奴がやればいい。俺たちはそこに乗っかるだけだ」
 それなら大人しくしていればいいものを。ちがう。こいつらは自分の行いを正当化したいだけだ。
「止めても無駄だぜ。俺たちは行く」
「そうだ。聖騎士は俺たちを信用してないんだ」
 癖毛の男が言い、少年騎士が身を乗り出した。本音が出たな。新兵たちは自分たちの置かれた状況に不満を持っている。先陣を切って馬を駆け、たくさん敵を仕留めた者が勝ち、敵の将の首を取った者にはより多くの褒賞を与れると思っている。それは騎士ではなく傭兵の思考だ。じっと待つだけの時間を要する伏兵部隊こそ、要ということも気がついていない。だから聖騎士が時宜を見誤ったのだと、そう言いたいらしい。
 クライドは彼らを止められなかった。本気で止めるならば、彼らを殺してまでそうするべきだったのかもしれない。できなかったのはその性格のゆえか、いまさら言い訳するつもりもなかった。だが、この些細な一件で事態は急激に悪化している。若者たちに賛同する者がいたのだ。新兵たちと言っても血気盛んな青年たちだけではない。皆事情はそれぞれで、たしかにそこに同情を覚えなくもないが、しかしそれはあくまで個人の事情だ。罠に嵌まったのはこちらの方だった。どうやら白騎士団の頭には、相当切れる奴がいるらしい。
 呼吸を整えて、クライドはもう一度前を見た。
 数えきれない屍がそこには転がっている。敵も、味方も多くの人間が死んだ。混戦には慣れているはずなのに、ここまで苦しい戦いははじめてだった。退くという決断をいまここでしなければ、部隊は壊滅するだろう。
 雨が降ってきた。イレスダートでは季節の変わり目にこうした雨がよく降るという。だが、この雨はクライドたちの味方とはならない。マイアの白騎士団は、ここにいる者たちよりも地の利に明るい。
「だめ。見捨ててなんかおけない。このままじゃ、あの子たちみんな死ぬ」
 もうとっくに死んでいる。クライドは口に出さなかった。彼らを止めなかったのは自分だ。この少女とともに戦うのは二度目か。あのとき、彼女を静止したのはクライドで、いまはその逆だった。
「お前が死ねば、クリスが悲しむ」
 西の国ラ・ガーディア、その最南の国フォルネの王女はひとつ瞬いた。自分が死ぬだなんて思ってもいないような顔をする。
 フレイアという少女は死をひどく恐れていた。だからきっと、死ぬとわかっている他人を見捨ててはおけないのだろう。蒲公英色をした髪の毛も、纏っている軍服も、彼女は何もかも血だらけだった。痛みを感じていないはずがないのに、それでもまだ戦おうとするのは、彼女が死にたくないからだ。死なせてはならないと、思う。
「守ってはやれない。だが……、せめて俺の傍からは離れるなよ」










 なにが、起こっているのだろう。
 小一時間時ほど前から降り出した驟雨は、セルジュの読みどおりだった。白騎士団は平野に陣を敷き、こちらの到着を待っていた。真正面からまともにぶつかって勝ち目が薄いなど計算済みだ。後衛に控えた魔道士たちが本体を援護する。彼女の放つ白い光、それが合図だった。
 ところが、雲を走る稲妻をブレイヴはけっきょく目にすることはなかったし、それよりも前に戦闘ははじまっていた。どうやら伏兵部隊は待ちきれなかったらしい。さすがはフランツ・エルマンだ。彼はこうなることを予期していたのだろう。王の盾はブレイヴを絶対に王都へと近づけさせない。
「私の責任です」
「言うな。……言わなくて、いい」
 そうだ。誰のせいでもない。新兵たちをクライドに託したのはブレイヴだ。異国の剣士は傭兵としてずっと戦場で戦ってきたし、ブレイヴは友を信頼している。ともにいるはずのフレイアもそうだ。だから二人が新兵たちを止められなかったことを、責めるつもりはない。軍師にしてもおなじ、人は時として失敗をする生き物だ。
 ブレイヴはセルジュを見た。軍師の剣はあくまで自分の身を守るだけの代物だ。苦戦しているがブレイヴには助けてやれるだけの余力がない。黒騎士団のときと同様に、正義を重んじる騎士たちは真っ先に聖騎士の首を狙う。左からブレイヴに突撃してきた騎士が吹き飛んだ。余計なことを。ブレイヴは口のなかで言う。ちいさな竜巻はすぐに消えて、それは軍師の魔力が限界に近い何よりの証拠だった。セルジュの魔力が間に合わないときには別の誰かがブレイヴの前に立つ。年若い少年騎士が矢の餌食になった。衝動的な行動だろうか。彼らは死を恐れていないし、聖騎士を光のように見る。もういい。庇わなくても、いい。ブレイヴの声は届かない。
「公子!」
 呼ばれて我に返った。ルダの騎士だった。氷狼騎士団は若き騎士を生かしていて、ブレイヴとおなじようにちゃんと傷の手当てもしてくれた。あの日助かったのはこの騎士だけで、その数日後ひょっこり姿を現したとき、ブレイヴは亡霊でも見た顔をした。それなのに、性懲りもなくまたブレイヴを助ける気らしい。謹直な顔で、聖騎士にも軍師にも無遠慮な声をする。厳しい環境で生きているためか、ルダの人間にはこういった剛毅ごうきなたちのものが多い。そのなかでも、騎士はルダの軍師になる男だ。死なせては、ならない。いや、誰だって死んでいい人間なんていないというのに。
「お二方は何を迷われているのです? 躊躇う時間がありますか? ここは、もう限界です」 
 わかっている。しかし、そうすることができない理由だってある。新兵たちをうまく誘導した白騎士団は後衛の部隊の位置も把握している。ばらばらに散らばった部隊を撃破するのは容易く、ここでまとめてたたき潰すつもりなのだろう。ここでブレイヴたち主力部隊が持ち堪えなければ、それこそ戦えない者たちまで危険に晒させてしまうのだ。仲間のみを案じるだけに留まらず、ちゃんとその次も考えている。輜重隊を押さえられたらこの先は持たなくなるし、治療班を俘虜にされればブレイヴはもう戦えなくなる。
「全滅したいのですか?」
 ブレイヴは騎士を睨みつけた。それだけ済むなら立て直しもまだ効くが、そうはならない。白騎士団は、フランツ・エルマンはブレイヴを逃しはしない。
「やめなさい」
 セルジュが隣に来ていた。顔色が悪いのは怪我をしているせいだ。呼吸も荒い。
「あなたのおっしゃるとおりです。これ以上は持たない。公子、決断なさってください」
 強い雨がブレイヴの頬をたたく。周りがよく見えずに、味方がどれくらい残っているのか判断に遅れる。だが、時間はブレイヴを待ってはくれないようだ。
「仲間を、見殺しにしろと言うのか?」
「そうではありません。これは、生きるためです」
 皆、戦うためにここに集まっている。ブレイヴもセルジュも、クライドもフレイアも、ルダの魔道士たち、敵対していた者も、うしろを守っている者も、己の死をちゃんと覚悟している。それは、幼なじみだって一緒だ。アイリスやアステアが彼女を守ってくれるだろう。希望にも似た祈りは果たして届くだろうか。
「ききわけなさい」
 思い切り頬を殴られた気分だ。軍師が満身創痍でなければきっとそうしていたはずだ。
「しんがりは、オルグレム将軍に任せます。他に適任はいません」
 まるで、あらかじめ決まっていたかのように言う。軍師と老将軍がブレイヴのいないところで話していたのを、自分だけが知らなかった。もしもそれに気がついていたならば、ちがう道を選んでいただろうか。いまとなってはもうわからない。
 雨は夜更けには止んでいた。空を覆っていた分厚い雲もなくなり、星さえ見えていた。けれどもブレイヴは、そのうちのいくつかの星が消えるのを、その目で見た。

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