六章 あるべき場所へ

別路

 湿しとった風が頬を撫でる。セルジュはおろしていた視線をもうすこし上にした。昨日までの晴天はどこにも見えずに、かわりに鉛色の雲が広がっている。あれは、そのうちに雨を連れてくるのだろう。
 しかし、それにしては寒い。
 季節は着実に夏へと近づいているはずである。暦の上ではとっくにそれだというのに、セルジュはいま外套を着込んでいるし、周りの者だってそうだ。
 はじまった、と。セルジュはつぶやく。口のなかだけで落とした声は、しかし幾年のときを待ち望んでいたかのように、安堵に満ちていた。 
 不意に足を止めていたのだろう。責付せつかれてセルジュはふたたび歩み出す。自由を奪う枷がないのは、見くびられているためか。たしかに、ここから逃げ出す術はない。片手剣はもとより、外套のなかに隠していた短剣も奪われた。馬を盗もうとするならその前に斬られる。もっとも、四方を囲まれていれば最初からそんなことは考えない。対一の相手でも勝ち目が薄いことなど、己が一番わかっているからだ。
 そうだ。セルジュはただの軍師である。魔力のにおいも残らず消さねばならない。ここに、高位の魔道士が配置されていなかったとしても、だ。
 セルジュの前方には老齢の騎士がいる。
 白髯と禿頭の二人は将軍の麾下であるから、老騎士の傍をまず離れない。彼らは少年の時分より親しかったと言うが、しかし忠実なる臣下には変わりなかった。命令は絶対だ。もしも、彼らが独断で動くとなれば、それはセルジュが害悪だと判断したそのときである。おそらく、オルグレムの声を待たずに、騎士はセルジュを殺す。
 そのうちに、セルジュの目にも堅牢な建物が見えた。
 北東にはルダが、その西にはムスタールが。南へと下ればやがてアストレアの領域へと入り、さらに南西に行けば王都へとたどり着く。つまり、ここはそういう場所だ。
 さすがは国境に築かれた砦である。いや、要塞と言い換えるべきか。ともかく、ここはたしかに重要な施設だろう。かの北のルドラスがイレスダートへと侵攻したそのときも、ムスタール公爵はこの砦を拠点にしたという。近隣の街や村にもすでに人っ子一人と残っておらずに、人々は砦に築かれた聖堂にて安息の祈りをする。
 ヴァルハルワ教徒たちはけっして神を疑わない。それから、ムスタール公爵も。
 門扉が開かれたときに、セルジュはどういう顔を作るべきかを考えていた。
 堂々たる相好を崩さずにか、それとも絶望を描くのが正しいのか。立ち止まったセルジュを騎士が責付く。けっきょく、セルジュはそのままを面に作った。ずっと歩き通しだったので足がくたくただったのだ。
 まだ若い衛士たちはオルグレムを認めるなり、歓喜した。遠い旅路を経て故郷に戻った英雄さながらの扱いだ。好々爺は青年騎士たちにも居丈高な物言いをせず、やさしい声をする。騎士たちは破顔した。
 つづいて、奥から案内役が出てきた。やはりオルグレムを歓迎したが、そのうしろに控えるセルジュを見て嫌悪の表情を浮かべた。穢らわしいものを見るときのように、厭悪と畏怖の目をする。屈辱を露わにするのも億劫で、セルジュは虚ろな瞳のまま誰とも目を合わさずにいた。
 砦のなかは思っていたよりも広い。
 堅固な要塞は侵入者を許さないが、その逆も兼ね備えている。俘虜ふりょは生きては出られない。外から来た者にとって、ここは迷宮そのものだ。セルジュの目はそのすべてを見る。武器庫に食料庫に、厨房にそれぞれの宿泊場所に。人の姿が多く集まっていれば、だいたいの見当はつく。案内役は老将軍を信用しているから受け答えもすべらかだった。わざと遠回りをさせているにも気がつかずに、まるで自身が褒め称えられたかのような声をする。油断ならない老人だ。セルジュは呼吸を深くする。これでは、どんな法の番人も騙されるにちがいない。
 では、この男にはどうだろうか。
 セルジュを見据える男は憂鬱そうな顔をするものの、案内役やこれまで擦れ違った者たちのようにあからさまな嫌悪を描かなかった。この男がそうか。セルジュは口のなかで落とす。己が命運を握るのはこの男だというのに、セルジュの挙措きょそはどれを取っても冷静そのものだった。男は、セルジュを観察している。疑われても当然だ。ただし、最初から演じるつもりもないセルジュとちがって、老騎士は相当な手練れである。それも含めて警戒されているのかもしれないと、セルジュは思う。
 ルダとマイアの戦いのすべてはムスタールにも届いている。結末がどうあったのかも、この男は知っている。老将軍は敗者だ。国を裏切り、王を見限ったいわば背信の将である。そのオルグレムが麾下の騎士だけを連れて、突然ここに現れたら誰だってそうする。たとえ、セルジュという手土産を用意していたとしても。
「お話はよくわかりました。……しかしながら、この者がアストレアの要人となれば即刻処刑をするのが正しい」
 異論を認めない声色だった。老将軍を厭っているというよりも、どう扱えばいいのか見極めているのだろう。自尊心の強い男だ。それもそのはず、男はここを任されているという自負がある。爵位はムスタール公爵より下位だったとしても、七つも下の従兄弟に命じられていたとしても、騎士は矜持を捨てたりはしない。
「いやいや、早まられるな。この者はアストレアの正軍師……となれば、その意味がおわかりになるはずですぞ」
 反対に大仰な仕草で返したのはオルグレムだ。軍師を失った軍など、ただの集団でしかない。そんな子どもにでも理解できるようなことを、老将軍はあえて口にする。侯爵の側近たちが目で会話をはじめた。待つべきだと、進言するのは容易くともそれでは侯爵の逆鱗に触れる。セルジュはムスタール公爵の親者をすべて把握してはいなかったが、しかし関係性は読み取れる。黒騎士ヘルムートの名は大きい。侯爵は唸り、それからたっぷりと肉の付いた顎をしきりに触りだした。
 敬虔なヴァルハルワ教徒がほとんどを占めるムスタールでは、成人男子でも痩躯が多い。肉や魚を常食するのを禁じられているためだ。だが、目の前にいる男はちがう。掟を無視しなければこうはならない体型だ。
「おや? 卿は知らないと見える。この者はかつて、オリシスのアルウェン公の元にいた男。ただの軍師ではありますまい」
「オリシスのアルウェン公だと……? し、しかし彼は一度、」
「卿は思い違いをしているようだ。この者がいたからこそ、最悪の事態が免れたことを」
 セルジュの肩が震えた。禿頭の騎士が力任せにセルジュを押さえつける。老将軍は皆まで言わなかったが、それだけで充分だ。口のなかが苦い。頭痛がする。腹の底から感じているのは怒りではなく、虚しさだ。セルジュは瞼を閉じる。逃げられはしない。望まぬ方へと導かれている。だが、それは紛れもない事実だった。忘れようとも忘れられない、消したくても消すことのできない過失。いまさら、何の弁明をするつもりもない。アルウェンはもういない。セルジュにとっては過去の人間だ。
 それでも、と。セルジュは口内を噛む。鉄の味がした。いまの自分を見ればどう思うだろう。惨めで、憐れだと同情するかもしれない。もうすこし上手な生き方をするべきだと、笑うのかもしれない。アルウェンも、ブレイヴも。きっと、そう言う。
「なあに、案じることはない。ひとまずは牢に置くのがよかろう。それより、目を向けるべきはルダとアストレアの連合軍だ。ここに来たからには儂も力を尽くそう」
「それは、ありがたいお言葉です。オルグレム将軍。我らは一体となり、叛乱軍を撃たねばならないのです」
 オルグレムは男の肩をたたく。旧友との再会を喜ぶように、そんな笑みをする。だから侯爵は見抜けなかった。気づけなかった。オルグレム将軍はここに来てから一度も叛乱軍という言葉を使っていなかった。
「そのとおりだ。このような争いは一刻も早く終わらせねばならない。王都のアナクレオン陛下によき報告ができるだろう。そう。そのためには、ムスタールの力が何よりも重要なのだ。無論、そこには卿も含まれているのですぞ」
 侯爵の顔にはじめて笑みらしき色が差した。自尊心よりも、オルグレム将軍という強力な後ろ盾ができたことに、ようやく安心したようだ。これで、何の問題もなければ失敗も起きない。ムスタールの勝利は確実なものへと近づいている。そして、この戦いが終わったときに、侯爵ははじめて認められるべき存在となる。ムスタール公爵の従兄弟という縛りからようやく、一人の騎士となれるのだ。
「ともに戦いましょうぞ。イレスダートは、いまこそひとつになるときだ。ルダもアストレアの聖騎士もそのうちに認める。これが、誤りであると。そのときこそ、若者らを我らが導いてやればよい」
 あまりの饒舌ぶりに、これこそがオルグレム将軍の本心ではないかと、セルジュも疑ったくらいだった。となれば、本当に欺かれているのは誰であるのか。
 知ることを叶わないままにセルジュは地下牢へと移される。その晩、オルグレム将軍を歓迎する宴は明け方まで行われたという。この日はヴァルハルワ教の安息日だった。しかし、宴に使われた酒樽は数えきれぬほどが空となり、乳や肉を使った料理も振る舞われていた。 


 

 

 蝋燭を変えるのはこれで何本目だったのか。
 ブレイヴは思い返そうとして、苦笑する。日が落ちてからというもの、それを繰り返すだけで目の前の羊皮紙の束はまるで減っていなかった。これは、軍師が置いていった宿題だ。
 呼吸を深く落として、それから伸びをする。どうも背や肩が凝って仕方がない。もう六時間も机に向かっていればそうなるだろう。茶器に手を伸ばそうとして、そこで空なことに気がついた。ブレイヴはまた憫笑びんしょうする。侍女が何度か声を掛けてくれていたのにもかかわらず、ブレイヴは空返事だったのかもしれない。そうまで集中していても、この出来はあまりにひどい。言い訳もひとつやふたつでは足りなさそうだ。
 ただ、信じていればいい。
 それは簡単なようでいて、いまのブレイヴにはもっともむずかしい。長い時間執務室に籠もっていても訪ねてくれる人は誰もいなくなった。軍師も、幼なじみも、従者も、他の仲間たちも。戦闘がはじまるのはまもなくだ。斥候隊はとうに出発しているし、他の部隊も準備はできている。輜重しちょう隊も間に合った。ブレイヴは口のなかで感謝を告げる。王妃マリアベルの声がなければ、そのひとの勇気がなければおそらくこの戦いは負けていただろう。いや、この先だってわからない。ブレイヴには何もかもが足りない。兵力も、物資も、食料も。どれだけ持つかどうか。まずはそこから心配をしなければならなかった。
 ブレイヴはマリアベルというひとまで巻き添えにしてしまった。こうなることは想定内だったとしても、未だ心は迷っている。セルジュやアイリスにはお見通しだったようで、だからこそ彼らはブレイヴを叱咤する。だいじょうぶだ。当面、金には困らない。王妃が託してくれた首飾りは我らの助けとなる。それだけではない。あれは、国宝だ。商人も金貸しも驚愕し、または腰を抜かしたことだろう。本当に帰ってきたのだと。その噂はすぐに広まり、そしてあれが持つ意味を理解する。ブレイヴが味方に付けるべきなのは、なにも要人や騎士団だけではないのだ。
 呼びかけは一度だけではなかったらしい。
 いつのまに来ていたのだろう。そういう顔をブレイヴはまず作る。しかし、相手は返事がなかったためだと、訴える目をしていた。彼が不機嫌なのはそれだけではなかった。
「火が、消えている」
 そういえば、彼は寒さに弱かった。異国の剣士の故郷もまた厳しい環境の地だ。日中は灼熱の太陽が肌を焼いたと思えば、夜間はひどく冷える。寒暖差に耐えてきたはずの彼も、しかしそれ以上の寒さは嫌がるのだ。
「ああ、どうりで。寒いと思った」
 ブレイヴは微笑する。暖炉に赤が戻ってもまだクライドは渋面を変えなかった。長話をする時間などないはずで、彼は早朝にここを発つ。それでもこの部屋を訪れたのは、他にブレイヴを見張る役がいなかったせいだ。
「なにか温かいものを用意させるよ。そうだな……、アストレアの葡萄酒があればいいんだけど」
「いや、いい」
 にべもなかった。やはり、長居するつもりはないようだ。酒肴しゅこうを命じたのは、ブレイヴも疲れていたからだ。それで、と。ブレイヴは先を促す。彼は饒舌なたちではなかった。
「ベルク将軍。この名に覚えは?」
 笑みを消さなかったのは失敗だったのかもしれない。クライドは無遠慮な物言いをする男だが、ブレイヴは彼のこういうところが好きだった。同士か、仲間か。いや、友という言葉が一番近い。ならば、彼が落としたその名も、また。
「ムスタールとマイアとの境に小さいが砦がある。建設されたのはそう古くはないそうだ。おそらく、近隣の街を保護するために。だが、そこに動きがある」
 ブレイヴは何もこたえずに、ただ彼の声を待った。
「斥候隊の知らせだ。……そうだな。これからムスタールと戦う。マイアが騒ぎ出してもおかしくはない」
「白の王宮はすでに指令を出しているはずだ。俺を、聖騎士をここから一歩も進ませないと、」
「そして、白騎士団が動き出す。いや、他にも名のある騎士は王命に従う。そこにあんたの友人や知人はどれだけいるだろうな? あんたは、どうする? このまま進むのか、それとも――」
「どうするも、なにも」
 忠告だろうか。それならば、素直に受け取る。でも、そうじゃない。
「マイアに向かう。それだけだよ」
 これからブレイヴがしようとしているのは、正義には反することだ。そういえばと、ブレイヴは思い出す。大義をもっとも口にしたのは誰であったのか。ブレイヴはそれを、壊す。ムスタール公爵であるヘルムートは爵位を継ぐその前に、ブレイヴの教官だった。そのひとに、剣を向ける。あるいは、友を。親しい人を。恩人を。裏切る。
 ため息を落としたのはクライドだった。無用な気遣いだったと、そう感じたのかもしれないが、不器用な友の声がいまのブレイヴにはありがたかった。
「セルジュが戻ってこなかったら、どうする?」
 そうして、クライドは他の者がけっして言わない言葉をする。あり得ない話ではなかった。それもまた想定内だと、思うべきだ。  
「そのときはそのときで、また考える」
 だから、ブレイヴも嘘を吐かない。日付が変わる頃になって、雨は季節外れの雪へと変わっていた。  
 

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