六章 あるべき場所へ

氷上のたたかい

 ムスタールの進軍はこの上なく順調であった。
 斥候部隊はすでに出陣していて、まもなく本陣がここを発つ。祭儀が終わったばかりのヴァルハルワ教徒たちは、その足で騎士たちを見送りに行く。教徒たちの顔には不安や怖れなどといった色は見えずに、目には希望の光が宿っている。一段と歓声が大きくなったのは、ムスタール公爵が現れたときだ。
 勇猛果敢な黒騎士団を率いるその人を民は英雄のように扱う。いや、ムスタールだけではない。数年前にルドラスの侵攻を許してしまったイレスダートは、危機に瀕していた。黒騎士ヘルムートが先頭に立ち、北の蛮族をこの地から追い出したのだと人々は信じ切っている。それが事実ではあるものの、ムスタールに留まらずにイレスダートの民は彼に畏敬の念を抱く。たしかに、ヘルムートは騎士としても、公爵としても申し分のない人物だろう。そう、コンスタンツは思う。けれども、どこか違和を感じるのはなぜだろうか。
 兵舎から出てきた騎士たちが庭園を急ぎ足で抜けている。背丈も大人に届かない少年騎士たちは、これが初陣とはならなかったようで、しかし日々の鍛錬は怠らない。少年たちはムスタールが誇る黒騎士団の一人だからだ。 
 しばらく窓の外を見つめていたコンスタンツを侍女が呼ぶ。どうにも愁いに沈んだ顔をしていたらしい。侍女のうしろに隠れていた息子がコンスタンツに抱きついた。
「だいじょうぶですよ、ははうえ」
 下の息子はもうすぐ五歳になる。兄に比べて成長が遅くて背も低い。最近ようやく剣を習いはじめたが、思いどおりにならないとすぐに放り出して泣いてしまう。そのうちに癇癪を起こして、教育係や侍女たちを困らせるのは日常だった。けれど、人の機微に聡いやさしい子だと、コンスタンツは思う。 
「あにうえも言ってました。ちちうえは、すぐに帰ってくるのだって。わるものたちを、たくさんやっつけるのでしょう?」
 コンスタンツは微笑する。まるで、おとぎ話に出てくる勇者が怪物を退治するみたいに言う。子どもらは父親の勝利を信じて疑わないし、なにより周囲の者がそうさせる。戦う相手がどこであるのか、そんなものは子どもには関係がない。癖のある黒髪を撫でてやれば、息子はくすぐったそうに笑った。黒髪はムスタールの男子の証だ。この子も成長すれば父親のような騎士になるのだろう。
「ええ。父上は騎士です。母は何も案じてはいませんよ」
「ほんとうに?」
「もちろんです。さあ、兄上のところに行きなさい。そろそろ勉強の時間も終わる頃です」
「はい。ははうえ」
 昼食の前に子どもたちだけで遊ばせる。その時間を作ったのはコンスタンツだ。下の子はともかくとして、長男はムスタールの嫡子である。この兄弟は本当に仲がいい。父親がムスタールを空けることが多いので淋しさを埋めているのだ。
 侍女に手を引かれて出て行く公子の背中を見つめていたコンスタンツはため息を吐いた。下の息子は大丈夫だろう。心配なのは、兄の方だ。
 公子の教育係はいま、地下牢にいる。だが、あの女――イリア・ルーファス・クレインは王女の傍付きだ。殺すわけにはいかなくとも、野放しにはできない。あの女は危険だ。しかし、ヘルムートは妻の失態を責める声をしなかった。単純にそれだけの時間を持てなかったのもあるが、そもそもヘルムートはイリアの言葉を鵜呑みするような男ではない。ヘルムートの信ずる先は王だけだ。
 騒動を起こした公子は前にも増して大人しくなった。
 子どもながらに責任を感じているのかもしれない。そしられるならば、わたくしだ。そうだ。コンスタンツがイリアを拾わなければ、こうならなかった。あの女は王女の傍付きである。となれば、アストレアやルダのように、いずれムスタールも疑われるのではないか。コンスタンツの不安はそこだ。
 次に扉をたたいたのは扈従だった。戦いはすでにはじまっている。戦況を耳にして、いち早く届けにきたらしい。コンスタンツよりも若い扈従の表情は、抑えきれない歓喜に満ちている。
「お喜びください。王都のオルグレム将軍が侯爵に合流しました。これで、叛乱軍を左右から落とせます」
「オルグレム将軍……」
「はい。叛乱軍に与していた情報は、偽りだったようです」 
 国境に築かれた砦を守る侯爵はヘルムートの従兄弟である。非凡な人物であるがその兵力からして、叛乱軍など敵ではない。そこにオルグレムという老将軍が加わったのならば、ムスタールの勝利は確実だろう。けれど、コンスタンツは相好を崩さずにいる。
「では、公には届かなかったのですね?」
 ヘルムートがここを発ったのは小一時間前だ。叱責と受け取り、深謝する扈従をコンスタンツは下がらせる。これは吉報のはずだ。それなのに、コンスタンツの呼吸は無意識に速まっていた。
 胸騒ぎがしてならない。そのとき、コンスタンツは自身の肩が震えていることに気がついた。前の晩から急に冷えていたために、暖炉には赤が灯っている。イレスダートはまもなく夏を迎えるというのに、異常ともいえる気象だった。けれども、この震えは寒さのせいではないのだろう。
 コンスタンツは己を叱咤する。幼子をも不安にさせてしまった。自身が毅然としていないでどうするのか。
 もう一度、窓の向こうを見つめれば、晴天が広がっていた。しかし、これより三日後、ムスタールの大地に神の怒りが落ちる。
  
 












 大群同士が真正面からぶつかるのは平野のみではない。
 雨上がりの土はたっぷりと水分を含んでいるので馬の足を奪い、白兵戦であればなおさらだ。これが慣れない状況下であっても、やはり直接身体に覚えさせるしかないのだろう。レナードはいつだってそうしてきたのだ。
 なかでも一番苦労をしたのがグランの空中戦だ。凶暴な獣を操るのは歴戦の竜騎士たちでも、背中に縋りつくだけにはいかなかった。とはいえ、馬とちがって竜は大きくなによりも荒っぽい。背中に乗っているレナードなんかお構いなしの動きをするし、その舞台も地上とは遠い空の上だ。慣れるまではそれはもう苦労をした。自由のきかない重力に翻弄されること数時間、吐き気や眩暈はすぐに治まらなかった。グランの竜騎士たちはレナードを励ます一方で、諦めるように促した。けれども頑固なレナードはそれらの声をきかずに、空を舞う一団に加わったのだ。
 それから、雪上での戦闘はまだ記憶に新しい。あれもなかなかに難儀をしたものだと、レナードは思う。ルダは魔道士の国ではあるものの、魔の才能に恵まれずに剣を取った者もいる。雪の多い国で育った彼らは雪上でのたたかいをよく知っていて、レナードもそれに倣った。脚や腰の使い方、腕の振り方まで。きっと、経験はすべて役立っているだろう。
 そして、いま。
 レナードがいるのは湖の上だ。といっても、もちろん水の上などではない。固体化されたそれはたしかに凍っていても、この分厚い氷がどこまでと考えればぞっとする。いや、大丈夫だ。レナードは口のなかで言う。ルダの魔道士たちは優秀だ。しかるべき時が来るまで充分に時間は稼げるはずである。
 レナードは二人を相手にしていたが、それほど苦戦を強いられてはいなかった。氷上でのたたかいがはじめてなのは敵も一緒だ。いや、レナードの動きの方が若干滑らかでもある。悪条件は同様と言いたいところでも、実はそうではない。レナードの半長靴ブーツは、それに適応したルダ特性のものだった。
 おそらく、アストレア湖に追い込むまでは予測の範疇だっただろう。しかし、その湖が凍るなど予想だにしなかったはずだ。温暖な気候に恵まれたアストレアに降雪など稀で、そもそもいまの季節は初夏である。
 やっぱり、あの方はすごい人だ。口のなかで主君を称えて、レナードは笑む。それでも、勇敢なるムスタールの騎士たちは、怖れを知らないのかもしれない。敬虔な教徒は死を恐れないので、戦場では特に強いことをきいていたがそれにしてもだ。
 レナードは騎士になる前は農家の息子だった。だから、騎士の矜持や名誉に興味がなければ、神様だって信じていない。その汚れた魂が戦場にて救われるなど、はっきり言って理解不能なのだ。敵であるから殺す。騎士が戦場でできるのはそれだけだ。おなじイレスダートの人間などと、考えていてはならない。
 雑念を振り払うようにレナードはかぶりを振る。そうだ。いまは、目の前の相手に集中しなければ。口喧しい女騎士に叱られるし、怪我をして戻れば親友の呆れた顔が容易に思い浮かぶ。姫様はすごく心配するだろう。レナードの主はそれが自分の責任だと、また抱え込むにちがいない。それに、いまレナードがやらなければならないのは、自分のことだけではない。レナードのすぐ傍には、守るべきものがいる。
「ちょっと待て。前、出過ぎだって! 庇えなくなるだろ!」
 やっと追いついた。レナードは肩で息を整える。首根っこを掴めば、彼はその反動で尻餅を付いた。
「あうっ。す、すみません……」
 それでも片手剣だけは離さないところは、立派だと褒めるべきか。
 こういうのは向いていないと、レナードは思う。付け焼き刃で身に付けた剣技など格好の的で、レナードは魔道士の少年を庇いながら戦っている。当然、消耗もそれだけ激しい。愚痴のひとつでも言いたくなるものの、いまはともかくその時間が来るまで耐えるだけだ。
 とはいえ、敵の数は減るどころか増える一方である。レナードたちはムスタールの騎士たちを上手く誘い込めた。アストレアの森にはすでに複数の敵が潜んでいて、湖まで退却したこちらを逃がさなかった。黒騎士団はどこまでも執拗に追ってくる。
「レナードさんっ!」
 呼ぶ声がなければ反応は遅れていただろう。右が甘いと叱られたのはいつだったか。そして、誰の声だったか。
「レナードさん、だいじょうぶです。僕、自分のことくらいは、ちゃんと守れますから」
 なんだか怒られている気分になる。右の死角から来た敵を斬ったのはアステアの剣だった。意表を突かれた相手だが、さすがにアステアの攻撃だけでは致命傷とはならない。左腕をやられても利き手さえあれば襲ってくる。次は、もう迷わなかった。
 一人を殺してもまだ何人も残っている。ここは、そういう場所だ。限界が近いことは自分がよくわかっているし、他の仲間たちもおなじだろう。ところが、急に敵の攻撃が止んだ。
「見てください……っ!」
 アステアは空を指す。稲妻が雲を縫って走るのが見えた。すこし遅れてきこえた雷鳴はまだ遠く、けれどもムスタールの騎士たちはその場に跪き、祈りを唱えはじめた。
 軍師の言ったとおりだ。敬虔な教徒は雷をおそれる。あれが、聖者の怒りだと信じているからだ。
「アステア、頼む」
「はい! 任せてください」
 レナードはこのときを待っていたのだ。あの聖なる白い力こそ、彼女の魔力だ。そして、これは合図。いますぐにここから離れろという意味だ。一陣の風が吹き抜ける。アステアの作ったちいさな竜巻は空へと放たれた。レナードは固唾を呑む。以前、魔道士の少年は魔法発動のための詠唱を必要としていた。いつから彼はその時間を必要としなくなったのだろう。アステアが努力家なのは皆が認めている。だからこそ、この役は他にいなかったのだ。
 熱い、と。レナードは思わず額を拭っていた。アステアの両手から放たれるのは炎だ。あれをまともに食らったならば火傷どころでは済まない。業火にのたうち回ったそのあとには、人間の身体など灰となってしまうほどの魔力。しかし、それは敵を殲滅させるためではなく、氷上へと落とされる。ルダの名だたる魔道士たちが何日もかけて用意した魔力の結晶だ。自然に溶けるまではまだ何時間と要るそれを、解除するには魔力しかない。
「レナードさん、にげて、ください」
 己の魔力のすべてをなげうったアステアは立ちあがれずにいる。
「そんなの、できるわけないだろっ!」
 レナードはアステアの腕を無理やりに取った。嫌な音がきこえる。すぐにここから離れなければならないのに、まだ敵はたくさん残っている。レナードは舌打ちした。さすがは黒騎士団だ。先ほどまで雷鳴に怯えていたくせに、もう自分を取り戻している。敗北が許されないのならば、道連れにするつもりなのだ。
 レナードはアステアを抱えて走った。最初に巻き込まれたのはムスタールの騎士だった。自分は泳げるので落ちたとしても助かる。けれども、魔力も体力も使い果たしたアステアはきっと持たない。敵が、迫ってくる。足場は、もう残されていない。そしてついにレナードの足は止まってしまった。いや、動けなかったというべきだろう。強風に耐えたレナードの眼前には、凶暴な獣の眸が待っている。 
 竜だ。レナードは口のなかでつぶやいた。そのときにはもうレナードたちは地上にはいなかった。この奇妙な浮遊感には覚えがある。
「まったく、誰がこんなことを言いだしたのですか?」
 竜を駆るその人は、グランの王女セシリアだった。間に合ったということは、助かったということだ。レナードとアステアは同時に笑った。  
 

Copyright(C)2014 asakura All rights reserved.designed by flower&clover
inserted by FC2 system