六章 あるべき場所へ

ルーファスの裏切り

 五回目の鐘がきこえても、コンスタンツの足は大聖堂へと向かってはいなかった。
 敬虔なヴァルハルワ教徒の家に生まれて実父が枢機卿の立場とあれば、コンスタンツもまた神の教えを疑ったことはない。本来ならば鐘の音がはじまるその前には席に着いているはずだった。とはいえ、それは義務などではなく習慣である。神は尊い存在として崇めていたとしても、心のすべてを預けるには遠すぎるのだ。
 やがて、鐘の音が途切れた。
 ムスタールの城の構造は複雑で、居館から別塔へと移動するだけでもかなりの時間を要する。敷地内にある広い庭園とそこを抜ければ騎士たちのための兵舎が見えてくる。普段はコンスタンツの寄りつかない場所だ。少年騎士がコンスタンツを見て気遣いの声をした。公爵夫人と声を交わすなどいまを置いて他にはないもので、反応もまた初々しい。コンスタンツは作った笑みを唇に乗せる。見習いからさして時の経っていない騎士だった。今日のことを忘れずに胸へと仕舞っていてもそれは彼だけの思い出となり、すくなくとも騒ぎ立てたり上官へと報告などしないはずだ。
 先を急ぐコンスタンツは扈従こじゅうも侍女も伴わずにひとりだった。
 コンスタンツに最初に報告を来た侍女は嗚咽するだけでまともに話ができずに、扈従はいとまを与えたばかり、他の者を頼るのもいいがそれでは大事になってしまう。コンスタンツはそんなことを望まない。端から端までを捜すには途方もない時間が必要だったとしても、選ばなかったのにも理由がある。行き着くところの目星は付いていたのだ。
 とはいえ、それなりに心は急いていたのかもしれない。
 焦慮や短気など滅多に他人に見せないコンスタンツもやはり人の親だった。良家の娘として厳しく躾けられ、公爵夫人としての表情を崩さないコンスタンツはいま、額から流れる汗を拭いもせずにいる。結い上げた黒髪は乱れているし、仕立てたばかりのライラック色のドレスの裾もすでに汚れていた。なんてはしたないのだろう。粗雑で品性のない行いをコンスタンツは嫌っていた。それでも、構わない。責を負うのは私だ。
 十歳になるコンスタンツの息子が突然いなくなった。
 午前は勉強の時間で昼食のあとは剣や馬術を教わるのが息子の一日の予定だ。教育係は公子としてふさわしい人間に息子を育てる。そこに甘さは一切ない。公子が母親と過ごせるのは夕食時と夜の数時間だけだ。コンスタンツは息子を誇りに思い、従者たちも公子を嘉賞かしょうする。やや細身ではあるものの背が高く、父親とよく似た成長の仕方だと、公爵家に長く仕えてきた者たちも目を細める。目鼻立ちなどはコンスタンツ寄りで性格も母親に近い。両親はおろか教育係に反抗したことなど、一度もなかった。子どもらしい表情を見せると言えば五つ下の弟の前くらいか。けれどそこでも年長者らしい振る舞いをして、兄弟の喧嘩など数えるほどだ。 
 息子とささいな口論となったのは、五日前のことだった。
 ヘルムートは実に半年以上もムスタールを離れていた。ようやく帰ったきた父親を前に息子が交わした声といえば父子おやこの関係を匂わせない余所行きの会話だけで、子どもながらに寂しい思いをしていたのだろう。それからも、ヘルムートは公務に追われる日々を送っている。夕食の時間なのに父親の席はいつも空いていて、家族の時間を持てないままだった。子どもたちの気持ちをコンスタンツは理解しているつもりだ。しかし、十歳の子どもに悟らせるにはまだ幼く、そうした機微をコンスタンツは見逃していたようだ。
 もともと熱心なヴァルハルワ教徒ではないヘルムートが祭儀に関わるのは職分にすぎず、そこに公務が被されば当然後者を優先する。だから聖体祭のあと、午後のすこしの時間だけがヘルムートに許されていたというのに、それさえなくなってしまった。幼子にとっては裏切られた気持ちになったのかもしれない。父親の前でこそ涙は見せなかったものの、公子の機嫌はなかなか戻らずにコンスタンツは息子を叱りつけた。悔やむならばこのときの自分だ。コンスタンツはそう思う。
 やがて、コンスタンツの足は止まった。あまく、しかしどこかもの悲しく匂い立つのはそこらに群生している青い花の香りだ。外壁に補修の跡は見られず施錠もしていないここには、かつてムスタールの公女がいた。つまりヘルムートの母親が晩年を過ごしていた場所で、コンスタンツがそこへと足を踏み入れたのは実に一、二回ほどである。誰かに閉じ込められたのではない。公女自身がここを選んだのだ。理由はついぞ明かされずに、義理の娘であるコンスタンツにも笑みさえ見せなかったその人は、うつくしい時分のまま逝ってしまった。爾来じらい、別塔は捨て置かれている。
 コンスタンツはこの花が好きではなかった。肌へと纏わり付く違和は嫌悪というよりも不快感に近い。青い花は義理母あのひとのために植えられたというから、余計にそう感じてしまうのだ。拒絶のつもりだろうか。公女が亡くなってもまだ青い花は塔の周りに咲く。コンスタンツは迷いなく踏みしだいた。
 塔の内部には最低限の施設だけでも公女は不自由しなかったという。調理場に浴室などもそのまま残っていて、他には本を好んでいた公女のために書物庫が用意されていた。たしかに、何年もそこに閉じ籠もっていても退屈しないだけの書籍がここにはある。そうした気性は息子のヘルムートにも、それからその息子にも受け継がれていたようで、会話の端からここの存在を拾った公子はこの場所へと行きたがっていた。ヘルムートはもとよりコンスタンツも子どものちょっとした好奇心だと受け流していたが、息子は本気だったのだろう。
 コンスタンツは最上階へとつづく階段を上ってゆく。たどり着いたそこは公女の寝室だ。豪奢な刺繍が施されている絨毯の上にはふたりがいる。息子は本に夢中な様子で靴音を響かせながらここまで来た母親にも気がつかなかった。すこし離れた場所には教育係が公子を見守っている。微笑ましい光景に見えてそうではない。コンスタンツは安堵よりも失望と怒りを抱いていた。双眸は息子よりも先に教育係を貫く。目が、合った。教育係は相好を崩さずに、遅かったですね、と。そういう目顔をする。やがて、母親の存在を認めた公子は後ろめたそうにうつむいた。叱られるのをおそれたようで、同時にこれまでになかった殺気を感じ取ったらしい。息子は聡い子どもだ。怯えて泣くのは簡単でも、それでは母親をもっと困らせる。だから、何もしないという選択を取ったのだ。
「ここで、何をしているのです?」
 あえて、コンスタンツは問うた。どういう声が返ってくるだろう。どうせ、期待するような応えはなくとも、その主張だけはきくつもりであった。教育係は黙したままだ。内心の苛立ちを抑えつつも、コンスタンツは待つ。
 公子の教育係に新しく付けたのはイリアという女だった。
 濃い青髪は王都の生まれにおおく、身なりからもはっきりと上流貴族と見て取れた。大聖堂の一室で出会ったときこそ女は声を乱していたものの、しかし物腰の落ち着きようや優婉な所作からしてただの貴人とはちがうと、コンスタンツは読んでいた。推測は当たる。女はクレイン家を名乗り、コンスタンツはかの侯爵家に覚えがあった。そう。王女の傍付きだ。
 たしかに、騎士の挙止きょしはそれだった。なぜここに軟禁されているのか、イリアは仔細を語らずに、けれどもコンスタンツは女をそこから救い出す。気まぐれでなければ、同情でも憐憫ともちがった。コンスタンツは切り札を一枚手に入れただけだ。
「お前の言い分をきいてやっているのですよ、イリア」
 寛容を込めた声音はどこまで届いているかどうか。ただし、三度目はない。これは赦免ではなく警告であるからだ。
 普段は大人しい公子の癇性に付き合ったというのなら、教育係としては失格だろう。そんな些事さじなどどうでもいい。目的が何であるか、どこにあるのか。重要なのはそこだ。
「ムスタール公に、目通りを願いたい」
 まったくの想定外ではなかったが、コンスタンツは意外そうな目をした。もとよりイリアの目的はそれだ。失念していたのはイリアが公子の教育係として分相応の働きを見せたためだった。ムスタール公爵家に生涯を尽くす所存だと、そういう目をする。騙されていたのだろうか。コンスタンツはそう思わない。たしかに、イリアにとってコンスタンツは恩人である。忠節を誓うのは正当な理由だ。ただし、この女には本来の主が別にいる。いま見せている忠誠心など偽りにすぎず、完全に見抜けなかったコンスタンツが短慮だっただけだ。
 そして、コンスタンツはイリアの意図を知った。
 侍女の一人も同行させなかったのは失敗だったようだ。この女は本気で公子を人質にするつもりだ。ならば、じきにコンスタンツもそうなる。イリア・ルーファス・クレインは王女の騎士である。
「公は多忙な身です。お前に時間を割いているときではないのです」
 このような道理が通る相手ではなくとも、やはり牽制はしておくべきか。早鐘を打ちはじめた心臓の音が耳の底で響いている。動揺を悟られてはこちらの負けだ。しかし、いつそれが知られたのだろうか。ムスタールはたしかに戦いの準備に急いでいるが敵がどこであるかは伏せられていた。それが北の敵国ルドラスであるならばまだしも、イレスダートのおなじ公国同士の内乱とあっては民はひどく動揺する。そこにルダ、ならびにアストレアの公子などの要人が関わっているのならばなおのこと、イレスダートの情勢も大きく変わり、だからヘルムートは麾下きかの騎士以外には直前まで秘匿ひとくに努めていたはずだ。耳聡くこれを手に入れたというのか。なんてしたたかな女なのだろう。
 コンスタンツは失笑する。勝算は、ない。だというのに騎士を、教育係を、この女を哀れに感じていた。だいたい、公爵に会ったところでどうなるというのか。広言を吐くのはいいが、そこに含まれた意趣いしゅなどにヘルムートは応えはしない。コンスタンツは逡巡する。均衡を破ったのは階下からの声だった。
 それは、イリアが望んだ通りの結果であり、しかしながらコンスタンツにとっては不本意なものであった。どうしてここに来てしまったのか。コンスタンツの視線など、夫は気づきもしなかった。従卒たちの手は腰に佩いた剣へと伸びている。これ以上の刺激を与えればこの女は何をするかわからないというのに。
「ムスタール公爵、ですね……?」
「そうだ。お前は何だ?」
 説明を求める声色はコンスタンツにも向けられていたものの、ここにいる役者を見て瞬時に把握できない愚者ならば、コンスタンツの心はとっくに夫から離れている。これはあくまで意思の確認だ。
「私はイリア・ルーファス・クレイン。率爾そつじながら、ヘルムート公にはお話ししておかねばならないことがあります」
「きこう。だが、先に私の息子を返してほしい。子どもには関わりのない話だ」
 イリアは直接公子を抱いていたわけではなかったが、そこでやっと解放をする。はじめはうまく足が動かなかった公子も一、二歩と進んだところで一気にコンスタンツの腕へと飛び込んだ。しっかと抱きしめた息子の身体は震えていて、それを受け止めるコンスタンツもはじめて母親の表情をした。ずっと堪えていた涙はコンスタンツの胸を濡らして、しかし公子を従卒に託したコンスタンツはまだここに留まる。この女をムスタール公爵家に関わらせたのはコンスタンツだ。その責任は、取らねばならない。
 階下へと消えた足音のあと、しばしの空白があった。もう一人の従卒が促しているのだ。とはいえ、ヘルムートの実直さを知る人間ならば、それを選ばないこともわかっている。殺してしまうのは実にたやすい。イリアが王女の騎士でなかったならば。
「公はルダとの戦いの準備をしていると伺いましたが、それに間違いはございませんか?」
「事実だ」
「では、ルダとともにあるのがアストレアの公子だということも、ご存じなのですね?」
「無論だ。しかし、君が問いたいのはそれではないだろう?」
 淡々と、何の感情ものぞかせない会話はつづく。
「おっしゃるとおりです。……それでは、レオナ殿下のことも」
「君が何を言いたいのか私にはわかりかねるが、私にはそう時間がない。これは王命なのだ。レオナ殿下ならびにマリアベル殿下、それから王太子殿下の保護を第一とせよ。君が正したいものはどこにある?」
 行方知れずとなっている王女はもとより、そこに王妃や生まれて間もない王子までもが関わっているなどさすがに寝耳に水だったようでイリアは瞠目をしたもの、コンスタンツはさして驚かなかった。むしろ想定内だとすら感じている。マイアの敵はルダとアストレアの聖騎士だ。王女や王妃の存在など演出にすぎない。
「……いいえ」
 それでも、イリアは否定の声をする。
「公は思い違いをされているようだ。アナクレオン陛下の意思は別にあるということを。アストレアの聖騎士を討つという、その意味がおわかりか? 彼は、」
「オリシスのアルウェン公を暗殺しただけでなく、マイアの騎士に剣を向けた。造反の意思がなければそうはならない。これ以上の理由がまだ必要か?」
「それこそ、誤りです。なにより、国王陛下はそれを望んではおられない!」
 ヘルムートの嘆息がきこえた。堂々巡りだ。しかし、コンスタンツはそこにほんのわずかな違和を摘み取る。ヘルムートの物言いも声音にも、何の揺らぎもない。目には一点の曇りもない。だからこそ、妙なのだ。
 ムスタールを空けていた夫の仔細をコンスタンツは知らずにいる。王都に囚われていただとか、君主に剣を向けたなどといった噂はきいていたが、それをヘルムートに問いただしたりもしなかった。ただ、夫の身に何かが起きていた。それだけはたしかだ。コンスタンツはその横顔を見る。落ちくぼんだ眼窩も痩せた頬も、急に何年もの時を過ぎたかのようだ。目だけがちがう。何ひとつとして疑わない。妄信ぼうしんとでもいうべきか。いまのヘルムートは王を神のように見ている。 
 話が平行線をたどる一方でまた別の従卒が現れた。肩で息を整える間もなく主へと耳打ちをし、ヘルムートの顔に緊張が走る。火急の知らせだろうか。コンスタンツがその詮索をする前にヘルムートは片手をあげた。はじめから交渉などではなかった。諫言かんげんなどこの女が勝手に用意しただけの声だ。飛び出そうとした女の前にコンスタンツは立つ。
「控えなさい、イリア。お前はもう、ただの女なのですよ」
 この女はもはや騎士でも教育係でもなかった。公子に剣を向けたそのときから、結末は決まっていたのだ。
 ヘルムートの従卒たちがイリアを羽交い締めにする。剣を取られ、騎士の証を奪われた女はまだ抗議と罵る声をつづけていたが、それ以上ヘルムートへ届くことはなかった。  
 

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