六章 あるべき場所へ

湖を渡る

 その報告を受けたのは夕方がはじまるよりすこし前だった。
 ブレイヴは即座に要人たちを一堂に集めて状況の確認をする。軍師の声はいたって冷静であるもの、長机に並ぶものたち表情はやはり硬く、しかしこれも覚悟や決意の表れだ。
 ムスタールに動きがある。
 斥候部隊からの知らせはブレイヴを驚かせはせずに、他の者にしても同様だった。むしろ遅いくらいでもある。マイア軍がルダに侵攻した情報がとっくに入っているはずで、そこに聖騎士が介入していることも、王女レオナがルダにいることもムスタールには届いていると考えるべきだ。公爵であるヘルムートはおそらくルダを監視していただろうし、旅商人や巡礼者などを通じて伝わっていてもおかしくはない。
 攻め込まれる前に迎え撃つのがやはり正しいやり方であっても、そうなればムスタールとまともにぶつかるのは避けられない。声高にそれを訴える者も不可能であることを承知の上で物を言う。同時に複数のため息が落ちれば口論がはじまり、それを諫める者だったりあるいは同調する者だったりとさまざまで、先ほどからそれの繰り返しだ。とはいえ、ブレイヴもこれにまったくの反対をしているわけではなかった。
 机上に広げられたイレスダートの地図を皆がのぞき込んでいる。
 その横に並べられた複数の羊皮紙にはあちらの兵力や主要な砦、または近隣の街や村の人口などが仔細に書かれている。特にムスタールの気候に関して、これも重要な資料であるから見落とせない。いまのイレスダートは雨の時期にあり、この一年前などは大きな災害が起こったほどだ。となれば、地形も変わっていると考えなければならないところ、主な街道は修復した後でもそこに馬が通れるとは限らずに、これもブレイヴたちの頭を悩ませているひとつだ。
「どうでもいいけど、湖を迂回しているそのあいだに、ムスタールはアストレアを落とすわよ」
 アイリスの容赦のない声は、しかし正論であるから誰も否定を返せない。
皆の視線はルダの公女に一旦は向いたもの、またすぐに机上へと戻った。ムスタールとアストレアを遮るのは湖と森、この豊かな自然はアストレアの宝ともいえる。
 いまブレイヴたちが身を置いているのはルダの端で、ここから南下するにはムスタールの領域を跨がなければならない。当然、そこにはムスタールの陣がすでに張られているから戦闘は避けられず、そうするうちにあちらの本体が合流する。真正面から戦っても勝機が薄いのはそのためだ。となれば、時間稼ぎの策がどうしても要る。けっしておおくはない、いわば寄せ集めの部隊をそれでも複数に分けるのは必須で、とはいうものアストレアの自然を味方に付けるにはなかなかむずかしそうだ。
「なによ。言いたいことがあるんなら、ちゃんと言いなさいよ」
「いや……、きみの言うとおりだと思う」
 それは意外な返しだったらしく、アイリスは片眉をあげた。ブレイヴはここで喧嘩を買うつもりもなければ本当にそのとおりだと思っている。ここにはかのムスタールの公爵を知っている者が何人かいて、彼の性格を知っていれば言い返すこともできるだろう。ただ、それがいまのヘルムートであればどうか。
 王都マイアではなにかが起こっていた。関わっていたのはヘルムートであっても、ブレイヴはそれを真実であるとは認めていなかった。だが、もしもそれが本当であったならば――。
「アストレアは諦めようと思う」
 そこに感情は乗せなかった。なんでもないことのように言ったブレイヴに、最初に反応したのはやはり軍師だった。
「公子、何をおっしゃっているのですか?」
 当然詰問はされるだろう。声色や物言いこそ穏やかなようにきこえてもセルジュの表情がすべてを語っている。正気の沙汰とは思えない。そう言わんばかりだ。ブレイヴは微笑する。
「皆も誤解しないでほしい。私は何もアストレアを捨てると言ったわけではない」
「おなじです。優先すべきはそこでしょう。あなたは何のためにここまで、」
「いまはまだ無理だと、そう判断した。それに……すでにアストレアはマイアの手にある。ヘルムート公はそこに介入はしない。あくまで目的は我々だから」
 そう。これは確認にすぎない。起こったことを声にしても変わらない事実で、ここでの抗論は悪戯に時間を潰す。だからこそ、アイリスの指摘もセルジュの忠告も受け止めるべきだ。それも、わかっている。
「母上やみんなには、もうしばらく頑張ってもらうしかない」
 ほんのちいさな希望というひかりに縋っている。いつだってそうだった。あまりにつたなくて脆い。ともすれば切れてなくなってしまいそうなほどの糸を手繰り寄せているだけの。
「挟み撃ちとなれば、我らはそれこそ全滅します」
「うん。だから、頑張ってもらうしかないんだ」
 ブレイヴはもうすこし後方を見た。ここにはレナードやノエルも同席している。アストレアから共にしてきた従者たち――いや、仲間たちだ。ブレイヴのこの発言は彼らの信頼を裏切ってしまいかねない危うさと、それに軍師は別の可能性を危惧している。人質。おそらくブレイヴの母エレノアは軟禁状態にある。アストレアの騎士団はマイアの、いや元老院の声に従うはずで、騎士団長トリスタンならばそうする。トリスタンはエレノアの騎士だ。
「話を戻そう。やはり、要となるのはこのアストレア湖だと思う。ここを利用できないか、どうにか渡ることができれば」
「船の数はとても足りませんね。いまから用意するとなれば、それこそ何年かかっても皆はたどりつけません」
 セルジュの返しにブレイヴは苦笑する。人だけではなく馬をも乗せる船となればそれだけの大きさが必要となってくるし、そんなものをこれから造船しようものなら戦争はとっくに終わっている。
「そうじゃない。文字通り渡るんだ。湖の上を。むかし、何かの文献で見たことがある。あれは氷上だった」
「湖が凍ってるってわけぇ? すっごいこと言うじゃない」
「アストレア湖が凍ったことなど、これまでの歴史に一度だって記載されていませんが?」
「だからこそだ。誰も考えない」
 ブレイヴはもう一度、机上の地図を指す。アストレアは小国だ。いまでこそイレスダートという大国のひとつにあるが、公爵家として認められるようになる前などは、侵略や統合などの危機と常に闘ってきた。武力ではたしかに劣るこの国の先人たちが屈しなかったのはその心の強さも先ず以て、しかしそれだけではなかったはずだ。アストレアは森と湖の国。守り手となるなら、これほど心強いものはない。
「なるほど……つまり、ルダにやってもらうということですね」
さすが理解が早い。軍師はそういう口吻をするが、しかしその先までをちゃんと読んでいるようだ。
「言ってくれるじゃない! ずいぶんと低く見られたものね」
「逆だよ。ルダを頼りにしてる」
 気色ばむアイリスだが、まんざらでもなさそうな笑みをする。あの風雪を長い間持たせていたルダの者ならばそれをきっと可能にすると、ブレイヴには確信があった。焚き付けたといった方が正解で、そうすれば余計な声はもう必要がないだろう。もっと説明を求める他の者のためにもブレイヴは説明をつづけてゆく。森を抜けるものたちはふたつの部隊から、湖をこえる部隊もまたおなじく、斥候も伏兵も追撃隊にいずれも危険な役割だというのに、役目を任されたものたちは相好を崩さない。頼もしい仲間たちだと、ブレイヴは思う。彼らと一緒でなければここまではとても来られなかった。そして、これからも――。
 そのとき、軍事がはじまってから緘黙《かんもく》していた老将がやっと声を発した。皆の視線はいっせいにそこへと向かう。オルグレムはこのなかで年長であり、歴戦の騎士であるのは皆が認める事実、だから彼の言葉に誰もが真剣になる。これだけでは足りない。それは誡告《かいこく》に近かった。
「なにかお考えがあるのですね?」
 再び重い唇が閉じてしまった老将に、ブレイヴは先を促す。そのとおりだ。若い力だけで勝てる戦いならばイレスダートはここまで荒れてはいない。
「策を弄するには軍師殿に協力してもらわなければなるまい。協力、というにはやや乱暴なやり方にはなるが」
「構いません。言ってください」
 ブレイヴはセルジュの訴えるような目を無視する。ふた呼吸ほど空いてから、オルグレムはつづけた。老いた将軍の目には微笑みの影は見えなかった。
 








 戦いが終わっても皆はまだ忙しくしている。
 ルダとマイアのたたかいのあと、半月が過ぎてもやるべきことはおおい。むしろ、これからが大変なときだ。
 レオナは医療室とマリアベルのところを行ったり来たりしている。重傷者はもうほとんどおらず、駆け込んでくるのは合同訓練で怪我を負った者ばかりだ。レナードやノエルなど、レオナにとってはなじみの深い者たちもそこにはいて、ときどきルテキアがふたりを叱ったりする。レオナは、自分にできることをするだけだ。
 騎士たちが次のたたかいに備えている傍らで、レオナもまた頼りとされているはずだ。けれどもやはり、必要以上の魔力を使うことを幼なじみは望んでいないのかもしれない。今朝、ルダの精鋭魔道士たちはアストレア方面へと向かっていった。そのなかにはルダの公女アイリスもいた。彼女たちの役目をレオナは知っているから動向を申し出たというのに、アイリスにははっきりと断られてしまったし、幼なじみに訴えても彼はすこし困った顔をするだけだった。
 先行隊は昨夜のうちに出立をして、物資の調達も大詰めといったところ、皆の行動は早い。きっと、この日のために動いていたのだろう。
 回廊を行き交う騎士たちの姿はおおいものの、そこまで殺伐とした雰囲気は見られずに、笑顔で会話する者だっている。オルグレム将軍の加入によって兵力もそこそこに増えたようで、レオナはちゃんと背を伸ばしてそのなかを歩いて行く。王女の顔を皆が知っているからうつむいてなどいられないのだ。軍師に言われたからではなく、レオナ自身がそうしなければならないと思っている。けれども、王女の存在が彼らの士気を高めるというのは本当だろうか。たしかに、イレスダートの王女としてそうあるべきなのかもしれない。それからバルト王子がともにいるということもまた皆を勇気づけている。まだ幼い甥っ子はともかくとして、レオナがここでできることといえば限られているというのに。
 もっと、わたしもみんなの役に立ちたい。
 ここまでは幼なじみにまもられて、そうして付いていくだけだった。いまは、ちがう。レオナにはその力がある。皆をまもるために。ちゃんと自分の足で進んでいけるその力が。
 呼ぶ声に気がついたのは、回廊をずっとまっすぐに歩いて、それから左へと曲がったそのときだった。 
「……ロッテ?」
たしかめるように問うた声は少女を笑顔にはさせなかった。それどころか、ちょっと怒っているような、そういう目をする。
「ずっと呼んでいたのに、ぜんぜん振り向いてくれないんだもの」
 そうしてシャルロットはレオナの腕を掴む。そんなことをしなくても逃げたりはしないのにと、レオナは言葉を落とすかわりに微笑んでみせる。少女の手が震えているのに気がついたのはそのあとだ。
「こわいのね……? でも、だいじょうぶ。おそろしいことは起こらない」
 まるで自分へと言いきかせているみたいだと、レオナは思う。少女はゆるりと首を振った。
「ちがうの。レオナも、行ってしまったのかとおもって」
「ううん、わたしは……」
 置いて行かれてしまったの。ほんとうはルダの人たちと一緒に行くつもりだった。アストレアの自然の力を借りる。季節はもうすぐに夏で、上級の魔道士たちがいかにそろっていたとしてもけっして容易くはない。けれども、ルダの名だたる魔道士たちは己が使命を果たす。それこそ、己の魔力の限界まで惜しむことをせずに。
 自分の力はきっとこういうときのためにあるのだと、レオナは考えていた。だからこそ、人選を外されたことも理解しなければならない。そう。彼らをまもるのはレオナだ。
「だいじょうぶ。わたしは、だいじょうぶだから」
「でも、レオナもたたかうのでしょう?」
 シャルロットはまっすぐにレオナを見つめている。嘘は言えない。そうすれば、このやさしい少女をふかく傷つけてしまう。ただ、何を声にすればいいのかわからなかった。レオナの決意は変わることはない。この手はもうずっと前に汚れているから、いまさらおそろしいなんて思わない。だとしても、幼なじみをかなしませている。いま、ここにいる少女のことも。
「まもるために、行くの」
 レオナはシャルロットを抱きしめる。すこし背が伸びた少女は表情もまた少女から大人の顔をするようになっていた。思い返せばずいぶん長く旅をしてきた。サリタ、ラ・ガーディアにグラン。いろんなものを見てきたと思う。治癒魔法の使い手はいつも必要とされているから、レオナもシャルロットも必死だった。救えなかった命は数えきれずに、それでも少女は逃げたりなんてしなかった。義務や使命感だけではなくて、自分たちがそうあるべきだと感じていたからだ。
「かえってくる。わたし、ちゃんとここに帰ってくるから」
 声にしている言葉は嘘ではないのにどこか矛盾している。レオナがシャルロットの声にちゃんと応えていないからだ。まもるためのその力は、そうではない者の命を簡単に奪う。きっと、わたしも罪人なのだろう。  
 

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