たとえばいまがまさにそれで、独り言がおおくなればそれは不機嫌な証拠だ。あるいは余裕が見えないときにはもっとたちが悪い。普段よりも二割増しの早口で喋りつづけ、ともすれば舌打ちがきこえてきそうな勢いである。これ以上の刺激を与えればなかなか面白そうなことになりそうでも、被害を被るのはブレイヴ自身であるから相槌には気を付けていた。とはいえ、こちらもそのうちに疲れてきて、つい生返事をしてしまった。軍師の冷えた眼差しがブレイヴを射貫いている。
「公子。きいておられますか?」
こうなればもう取り繕えない。しかし、作り笑顔は逆効果だったようだ。セルジュの眉間の皺はもっと深くなっていた。
「わかってる。それから、後戻りはできないことも」
それが軍師の求めていた声かどうか。ブレイヴはひとつ息を吐いた。抱えている問題は山積みであるものの、ここで二人そろって頭を悩ませたくらいで解決できないこともわかっている。かといって 人数を増やしたところでおなじだろう。ここには信頼できる者ばかりでも、やたらと広めてしまえばそれだけ軍の士気を下げることになりかねない。オルグレム将軍をこちら側に付けたというのに、その意味すらなくなってしまう。
「前者はともかく、後者ならば当てがあります」
迷いのない声で言った軍師をブレイヴは疑わない。
武器の調達に糧食の確保、季節は夏へと向かっていても朝晩には防寒具は欠かせず、それから丈夫な馬を用意するのも莫大な金が動く。戦争とはそういうものであると理解はしている。ただし、これまではブレイヴが他国の争いの介入していただけ、ここからはちがう。なによりラ・ガーディアのウルーグもグランにも裕福な国であったために、軍資金の心配が要らなかった。だからといって、ふたつの国にこれ以上の援助は頼めないのは、ブレイヴがすでに借りを作っているからだ。ここまでに必要な金銭はすべてウルーグとグランからの支援に他ならず、しかしこれはあくまでブレイヴ個人が借りているので、国と国との財政のやり取りではなかった。
となれば、やはりセルジュを信用するしかないだろう。いや、ブレイヴが軍師に対して持っているのは信頼という感情で、その軍師がここまではっきりと物を言うのだから素直に認めなければならない。すこし懸念するなら商人がそこまでの金を容易く動かしてくれるかどうか。金貸しは聡い。勝てない戦争に金を差し出すほど愚かではないし、なによりもブレイヴは叛乱を起こす側だ。相応の覚悟をしてもらえるものなのだろうかという心配はある。
ブレイヴはセルジュの目をまっすぐに見た。
軍師は物言いたげな双眸でこちらを見つめ、そうして次の声を待っている。セルジュの言ったことを忘れてはいなかった。軍師は勝てない戦争はしない。そのとおりだと思う。だとすれば次にいるのは兵力だ。それも、わかっている。
ルダに着いたときなどたった十人にも満たない人数だった。グランから共にきてくれた竜騎士たちはわずかなもので、ルダの兵力を合わせても寄せ集めであることは誰の目にも明らかだ。ここにオルグレム将軍の部隊を加えたとしてもマイアの軍勢には遠く及ばない。そして、敵となるのはマイアだけではなかった。ブレイヴもセルジュも次に懸念しているのはムスタールだ。公爵であるヘルムートが戻ったのならば彼は王都からの要請に即座に応えるはずで、またその東のランツェスも忘れてはならない。ランツェスの長兄は独断で北のルドラスとの同盟を結んだというが、しかし白の王宮は兵を出すように命じるだろう。それにアストレアやオリシス。ため息を吐くかわりにブレイヴは眉間を揉む。物音がしたのはそれとほぼ同時だった。
それがあまりに控えめであったがために、さいしょはブレイヴもセルジュも気がつかなかった。二回目もまたゆっくりと。耳には届いても気のせいであると感じたくらいだった。
ブレイヴは扉へと向けた視線をまた軍師へと戻した。セルジュがやや疑心を孕んだような、そんな目をするのも当然かもしれない。こうしてブレイヴと軍師が話し合っているときに他の者はまず介入しないからだ。
さすがに三回それがつづけば、ブレイヴもセルジュも思い過ごしであるとは考えなかった。声を返すべきかと迷うブレイヴよりも先に、扉の向こうから声はきこえてくる。
「入っても、よろしいかしら?」
鈴を鳴らしたような可憐な声色にブレイヴはまじろぐ。しかし、席を立つ間もなく扉は開かれて、そのひとはもう部屋へと入っていた。ブレイヴが我に返ったのはふた呼吸後だ。セルジュの反応もまた鈍かったのだがこれはブレイヴとはちがう理由からで、つまり他者の介入をよく思っていないのだ。やっと動いたブレイヴにそのひとは微笑みながらも断る
「大事なお話中にお許しくださいね。ですがどうしても、わたくしの話をきいて頂きたかったのです」
詫びるべきなのはこちらの方だ。いや、詫びどころではすまされないかもしれない。王妃に椅子すら用意せずにそのまま立ち話をさせるなど、それなりの処罰を覚悟するところだ。
「わたくしに、協力させては頂けませんか?」
声が返ってこないのは同意と受け取ったのかもしれない。マリアベルの声は控えめではあるものの、表情はさきほどよりもずっと真剣だった。王妃はそれを胸元から外してもうすこしブレイヴへと見えるようにする。銀の鎖は精巧な造りであるのがここからでもわかる。何世代も前の時代より受け継がれてきた技術の結晶ともいえるものだ。本来ならば宝物庫に収められているものだが、王妃は肌身離さず持っていたらしい。マリアベルは微笑するがブレイヴの表情は硬い。
「受け取っては、くださいませんか?」
「いただけません。これは」
受け取られるはずがない。この国宝と引き換えに他の国が買えるほどの代物だ。マリアベルというひとはこれが持つ意味をちゃんとわかっている。わかっていて、ブレイヴに託そうとしている。
イレスダートの王の伴侶となるべき女性はそれにふさわしい教養を身に付けているものの、政治はおろか軍事のことなど何ひとつ知らずに、むしろもっとも遠いところに置かれる。王に影響を与える
ブレイヴはマリアベルという人を、けっして軽んじはいなかった。けれども、どこかでそういう目で見ていたのかもしれないのだと、認めるべきだろう。王妃はたしかに情勢に明るくはなかったとしても、いま自身が置かれている状況をちゃんと理解している。戦争というものも、これから向かうべきものも、すべてを。
「戦いたいのです、わたくしも。何の力もありませんが、ともにゆくことはできるでしょう?」
それはまもりたいのだと、言っているようにもきこえた。何が王妃をここまで強くしたのか。ブレイヴには幼なじみが見えた。いつまでも受け取らないブレイヴよりもマリアベルの方がずっと勇ましい。強引に渡された首飾りはブレイヴの手のひらへと収まった。これでもう、突き返せないでしょう? と。少女のような悪戯っぽい顔をマリアベルはする。
「それに、あの方はきっと笑ってくださるとおもいますわ」
どこかなつかしそうに、そういう目をしてマリアベルは笑んでいた。まるで、その人がそこにいるかのように。本当にそうかもしれないと、おなじ笑みはできなくともブレイヴはそう思った。
目が合ったのにすぐに逃げ出そうとする姿はなかなか滑稽で、ブレイヴは思わず笑ってしまっていた。しかし前にあるのは行き止まりだけで袋の鼠さながらといったところか、彼は観念していきなり頭をさげた。
「あ、あの……、どんな処罰でも受ける覚悟は、できています……」
言葉と反対に、声は気の毒なくらいに震えている。ブレイヴは作っていた笑みを消した。
「わかった。だけど、ここで立ち話というわけにもいかない」
「は、はい……」
それが余計に彼を怖がらせていることも、ブレイヴはちゃんと知っている。さて、どこまで演じきれるだろう。もっとも、彼にはそれを見破る能力もなければその余裕もないらしい。いまにも泣きそうなくらいだ。
ブレイヴはもうすこしだけ彼との距離を詰めようとしたが、そこで呼ぶ声がきこえた。年の離れた弟のことを案じているからこそ、いまのブレイヴはルダの姉弟にとっての敵となるだろう。普段は大人しいひとがブレイヴを睨みつける目をしていた。
「同席することは許されるでしょう?」
反論はきかないといった声音だったので、ブレイヴはうなずきだけで返した。アイリオーネがアロイスを庇う気持ちも理由もよくわかる。ただ、彼に対して何の咎めもなしというわけにはいかないのだ。ルダの姉弟を招き入れた部屋には侍女は控えておらず、それは長居をするつもりがなかったからだ。だから、アイリオーネも動かずにいる。カウチに腰掛けたふたりを見守るだけ、あくまで自分は傍観者だと言いたいのだろう。実際のところ、ブレイヴは彼に対して怒りを感じるわけでも失望したわけではなかった。けれどもやはり、彼には何らかの処罰を下さなければ他に示しがつかなくなる。結果論はこの際捨て置く。王妃を危険な場所まで連れてきたのは間違いなく彼だ。
ブレイヴは口のなかで話の順番を整理する。そうするあいだもアロイスは自信のなさそうな目をして、アイリオーネも物言いたげな視線を遠慮なく送ってくる。たしかにこの一件にはさまざまな意見が飛び交っていたが、そのほとんどが彼を擁護するものばかり、本当は皆もわかっているのだ。アロイスの勇気ある行動がなければルダは敗北していた。賞賛されるべきはルダの公子だけでなく、マリアベル王妃そのひとだということも。
「きみを、バルト王子の傍付きに推薦したい」
「へあっ……!?」
けっきょく、結論から先に述べることにした。それが彼にとっては脈絡のない言葉だったのだろう。回りくどさは必要なくとも、あまりに端折りすぎたのかもしれない。
「あ、す……すみません。びっくりしてしまって。えっと、なんですって……?」
ブレイヴは失笑する。この顔を作っているのもそろそろ限界だった。
「どういう意図かは説明して頂けるのでしょう?」
次の声はアイリオーネだ。唇は笑みを描いていても目はまるで笑っていない。なにかひとつでも冗談を落とそうものならば叱責が飛んできそうだ。さすがにそれは悪ふざけが過ぎる。ブレイヴは、はじめからこの対話を穏便に進めるつもりだった。
「言葉どおりの意味だよ。アロイスがもっともそれにふさわしい。彼の防御魔法は一級の魔道士にも劣らないのは皆も周知であるし、少なくとも私は他に知らない」
「……っ! そういうことではなくて!」
「私は本気だよ。それに、マリアベル殿下にも直々にお願いをされたのだから断る道理はないだろう?」
我ながらずるいやり方だと思った。王妃の名を出してしまえばそれ以上は黙するしかなくなる。アイリオーネは開きかけた唇を閉じて、それからゆるくかぶりを振った。それはほんのふた呼吸のあいだでも、しかし弟を案じる姉の葛藤の現れだ。
「それで、アロイスをこれからも巻き込むというわけね」
「そう受け取ってもらってもかまわない」
とはいえ、彼らに誤解を与える気もない。これはあくまで懲罰だ。そもそもアロイスにこれを拒否する権利などはじめから存在してなかった。だからアイリオーネは怒っている。ブレイヴはこのようなやり方を好まなかったが他に彼を救う手立てはなかったのもまた事実、これによってルダはアストレアと――いや、ブレイヴたちと一蓮托生となる。つまり跡継ぎであるルダの公子をいつ失ってもおかしくないところへと関わらせるのだ。
「あの……、僕の意見を言ってもいいですか?」
静かな対話をしていたつもりがそこそこに過熱していたようだ。置き去りにされたとばかりに当の本人は困ったような顔をする。
「えっと、その、意見というよりもぼくの考えなんですけれど……。ブレイヴさまのお考えも王妃さまの声も、軍師殿の判断も、ぼくは全部わかってます」
物言いこそ頼りなくとも、もうすこし前のアロイスにはなかった意志の強さが見える。そもそもこの少年は聡い。覚悟ならばルダを出たそのときにすでにしていたのかもしれない。
「ルダはもとよりそのつもりです。最後までともにすることを決めていたのですから。でも、これは
あの軍議のときに緊張のあまりに震えていた少年が、いまは戦う男の目をしている。だとしたら、彼の思いに応えるべきだ。ブレイヴはちらと彼の姉を見る。
「アロイスが決めたのなら、私はもう何も言いません。でも、アイリスがなんて言うか」
「それなら心配ない。最初に申し出たのはアイリスだから」
あれは弁解や庇い立てをするような声ではなかった。なにしろ、アロイスの行動を一番怒っていたのはアイリスだ。命を賭けて守り通そうとした弟がその危険な場所へと自ら飛び込もうというなら、それは裏切りの行為に近い。けれどもブレイヴに申言したアイリスの潔さは心地いいくらいだった。
「過保護は卒業するって、そう言っていたよ」
最後にそう告げたブレイヴに、アロイスはようやく少年らしい笑みを見せた。