六章 あるべき場所へ

罪人の代名詞

 その声が怒声よりも悲鳴に近かったのは、軍師が何度も呼びかけていたのにブレイヴがまったく反応をしなかったからだ。
 矢音がしたときには遅かった。かろうじて躱せたのは反射によるもので、しかし追撃は容赦がない。あわや落馬しそうなところでどうにか体勢を立て直す。セルジュの風の魔法がなければ間に合わなかったが、目顔で感謝を告げるよりも前にブレイヴにはやることがあった。
 雷が落ちたのは数刻前、敵の勢いは衰えるどころかこちらが押されている状況だ。ブレイヴは自身が感じていたよりもずっと焦っていたらしい。過剰な効果は期待していなかったといえば嘘になるが、その一方で老将軍を賞賛するべきか。彼らは王女レオナの存在を知っている。だとしても、アナクレオンの勅命に背くという選択肢がないのだ。
 斬撃はブレイヴを追いつづける。ひとり、ふたりと斬ったところで終わらないのは、敵の狙いがブレイヴただひとりだったからだ。王家に叛いた聖騎士など誰も騎士だと思ってはいない。ただの叛逆者。聖騎士の首を王都マイアへと持ち帰れば多額の報酬が約束されているのなら誰もが必死で、しかし騎士にとっては英雄の扱いを受ける方が意義深いのかもしれない。  
 空は変わらずの曇天でもそれ以降の落雷はなかった。混戦に持ち込んだのは正しい選択だろう。先ほどまで舞っていた粉雪もじきに止んだ。これでマイア軍の邪魔をするものもなくなった。無作為に魔力を放てば味方の兵を巻き込んでしまうのでルダの主力部隊に頼ることもできず、ルダの公女がそこから引き摺り出されようならば、それはもうルダの負けである。ブレイヴはセルジュを見る。すでにこちらの部隊は後退しつつあるなかで、軍師の口から新たな戦法などでてこなかった。ただし、セルジュの言いたいことは別にあるらしく、まずは睨みつけられた。
「どういうおつもりですか?」
 詰問しているようでその実、非難しているのだ。たしかにブレイヴは前線を任されてはいたがそれもずいぶんと前に出過ぎていたようだ。いつかのイスカのときとはちがう。死に急ぐ主に従者が怒るのも当然だ。
「勝つための戦いをする。そのために、俺はここにきた」
「しかし、これでは……」
 ルダの騎士たちはこのような劣勢であろうとも恐れを知らない。いや、これは後がないために、自身の命をルダに捧げるつもりなのだ。無駄に死なせることなどしてはならない。セルジュが言いたいのはそれだ。 
 ブレイヴに会話の隙など与えないかのように攻撃は終わらない。馬鹿正直に真正面から突っ込んできた騎士は成人したばかりなのだろう。面立ちは少年の幼さを残していたが、それは勇気とはいえない。ただの無謀だ。少年騎士の胸をブレイヴの剣が貫く。苦痛に歪んだ顔は怨嗟と怒りの両方を見せる。呪われろと、唇が動いた気がした。はじめからそのつもりだ。敵意も憎悪も厭悪も、どの声で罵られたところでブレイヴは進むことをやめない。少年騎士の身体が崩れ落ちたのを視界の端に収めると、ブレイヴは再び馬の腹を蹴った。軍師の舌打ちがした。いまの自分の姿は従者にどう映っているか、味方の兵には。おそらく、敵にもおなじように。
 右も左も、人と馬の死体だらけだった。血と鉄のにおいでとっくに鼻は麻痺している。味方も敵も、そのどちらからも声は止まずに、怒号にもしくは叫びに、恐怖に、または正義を謳う者も。
 死への恐怖は人間の精神を壊すに実に容易いもので、ブレイヴはそういう者を見てきたし、また己がそうならないという保証もなければ自信もない。聖騎士であろうともただの人間のひとりだ。ブレイヴは微笑する。次第に敵の陣が乱れてきた。サリタではお尋ね者の扱いをされたブレイヴだ。いまやイレスダート中にその顔は知れ渡っている。手柄を立てようと躍起になるのは少年騎士で、彼らよりも年上の騎士も少年たちに後れを取らぬようにと息巻いていた。慎重なのはやはりオルグレムの麾下の騎士で、老人たちは戦争に長けているのに未だ前線に出てこないのは、こちらを警戒しているためだ。その必要はないと、ブレイヴは笑む。ここに来て奇策もなければもう小細工など通用しない。あとは、そう。待つだけだ。
「公子、いけません。これ以上は、」
「まだだ。いま退けば、後衛を巻き込む。あと、もうすこしだ」
 そこから引き摺り出さなければここまで危険を冒した意味がなくなる。ブレイヴはオルグレムというひとを信じているが、軍師はそこまでの価値がないと見ているのだ。たしかに、賭けに対しての代償はあまりに大きく、耐えつづけるには時間も兵力も足りずにそのうち全滅する。そうしてここが落ちようともルダはけっして降伏を選ばない。敗北は何も残らず、何も生み出さない。夢も希望も誇りも、命も。それでも――。
「公子……!」
「大物が掛かったな」
 はたして、誘い込まれたのはどちらだったのか。一斉に向けられた剣と槍に矢の数は知れず、それは処刑台さながらに。
「待て、皆の者」
 その声に、戦場は時が止まったかのようになる。皺深い老齢の騎士に、白髯と禿頭の騎士と並ぶ。ブレイヴは視線を右へと流してゆく。やがて、目が合った。
「オルグレム将軍、ですね」
「アストレアの聖騎士だな」
 まるで、罪人《つみびと》の代名詞みたいだと、ブレイヴは思う。
 ゆっくりと近づいてくるその姿は実に堂々としていたが、たしかめるように落ちた声色には嫌悪よりも驚嘆の感情が勝っている。ブレイヴは時宜《じぎ》を逃さない。
「私がここにいるその意味を、将軍ならばおわかりかと存じます」
 揺さぶりをかけるならばそれ以上の言葉は要らない。はじめに反応をしたのが禿頭の騎士で白髯の騎士はちいさく唸り、若者たちはまだ武器を構えている。
「では、貴公は自ら認めるというのだな」
「王女がこのルダにいるという事実は、否定を致しません」
 ざわめきが起こった。ブレイヴは沈黙したままだ。彼らの目に、ブレイヴはどうあっても賊人にしか映っていないのだから、すべてを語っても無駄となる。オルグレムは斟酌《しんしゃく》するような間をしばし置いていたが、しかしここは戦場だ。それは長くはつづかなかった。
「己の命を賭けて、ここまで来たその勇気は認めよう」
 ブレイヴは微笑する。無謀を勇気と言い換えるあたりが老将らしいところだ。互いの顔は見知っていても、こうして言葉を交したことはなかった。だから、この時間を感謝するべきだろう。
「惜しむべきだろうな。イレスダートの明日はそう明るくはない」
「剣を収めて頂くことはできませんか」
 オルグレムもまた微笑んだ。
「ない。貴公も騎士ならば、剣を持って戦うべきではないのか?」
 ここまでだ、と。ブレイヴは短い息を吐く。軍師は最初から覚悟を決めていたのか、誰にも悟られないように魔力を調節している。せめて、老将軍だけでも落とす。そうすれば彼らは怒りのままに襲いかかってくるはずで、再び乱れた陣は後続の味方へと有利となる。ここから生きて逃げることができればという、あくまで可能性の話だ。
 しかし、ブレイヴはまだ声を返さずにいた。
 何を迷っているのかと、己に問う。これは最初のひとりに過ぎない。これからブレイヴがやろうとしているのは、つまりはそういうことなのだ。
 躊躇う必要がどこにあるのだろうか。正義とはほど遠く、それゆえに賊人とおなじであるというのに。
 ブレイヴはやっと軍師に目顔で促した。だがそれは、待てという合図だった。セルジュが返事をしないのはいつでも魔力をそこへと発動させるためである。これによって、ブレイヴは後の歴史に本当に罪人として名を残すにちがいない。これは、いわば騙し討ちだ。
 わずか数分の時が、両軍にとってそれは長い時間に感じられた。ブレイヴはもう一度息を吐いた。オルグレムはそれさえも待ってくれている。惜しむべき人物であるのはあちらの方だ。
「イレスダートの明日を想うのは、私たちもおなじです」
 けれどそれは、マイアのためだけではない。そこにはルダがあり、アストレアがあるからこそ、だ。
 オルグレムは片手をあげた。マイア軍はもうすこし後退をして陣形を整える。これが、さいごのときだ。ルダの騎士たちも礼節をもってこれに応える。明日は、ない。友の顔を、弟の顔を、または息子の顔を見つめる。皆が信じた光を失いたくはないし、裏切りたくもない。そして、呼吸を整えようとしたブレイヴは自分の目をまず疑った。瞬きを繰り返し、そこで息を止める。
 淡い乳白色の光は魔力でつくられた防御壁だった。そこに魔法攻撃が通らないばかりか弓や剣などの物理的な攻撃をも防ぐような代物だ。マイアの宮廷魔導師、あるいはルダの高名な魔導師であってもここまでの魔力を持つ者は限られていて、ブレイヴが知っている者もわずかだ。しかし、レオナにしてもアイリオーネにしても彼女たちはこの場におらず、その魔力の性質とは異なる気もする。ここまで防御に専念するとなれば攻撃や治癒の魔法を一切捨てなければ作れない。これほどの覚悟と信念を持った人は、ただひとりだけだ。だからこそ、彼の姿を見たときに、ブレイヴは幻でも見たのだとそう思っていた。
 護衛の騎士が数人と共にルダの公子アロイスはゆっくりと馬を進めてくる。いつも自信なさそうにうつむいていた少年の顔ではなく、怯えもない。彼は、そのひとのためだけに魔力を使う。
「叔父上……、そこにいるのですね?」
 戦場には不釣り合いな可憐な声だった。どよめきは敵からも味方からもきこえる。ルダの公子のすぐ後ろにはもうひとりがいた。フードを取り、まっすぐに老将軍を見つめるそのひとは、戦場にいてはならないひとだ。 
「伯父上……。私です。マリアベルです。どうか、みなさまも……わたくしの声をきいてください。わたくしは、ここにいます。ですから、」
 しかし、そこで声は途切れてしまう。アロイスの呼びかけに反応しないのはマリアベルが気を失ったからだ。王妃を呼ぶ声は他からもきこえて、あるいはその場で跪く者もいる。いくらか放心状態だったのかもしれない。ブレイヴよりも先に動いたのはオルグレムだった。王妃を抱きかかえる老騎士は騎士の挙止《きょし》ではなく、ただその目だけは血の繋がった姪へと向ける色をしていた。
 

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