六章 あるべき場所へ

想望

 ルダには東西にそれぞれ砦が存在するもの、そのひとつである東の砦はすでにオルグレム将軍によって落とされていた。しかし、住民たちはおろか騎士たちも捕虜の扱いを受けずに拘束すらされていない。老将軍は監視役として騎士を数名残しただけ、彼らはそれまでと変わらぬ生活を送っていた。
 彼らはルダの旗とマイアの旗を同時に見る。
 そこらで遊んでいた子どもたちはきょとんとし、女たちは抱き合って涙を流した。老人たちは、ルダの騎士たちにもマイアの騎士たちにもおなじくらい深々と頭をさげる。彼らの視線の先にはブレイヴがいて、オルグレムがいた。
 両者が剣を収めたのならば忙しくなるのは後衛部隊だ。けれども本隊への到着にはまだ遅れそうで、こうなれば東の砦を頼るしかない。治癒魔法の使い手が足りないのを見て女たちも動き出す。重傷者は聖堂へ、軽傷ならば広場にまず集める。自分の足で歩ける者たちはなおざりでも致し方なく、そしてそこではもうルダもマイアも関係がなかった。
 小一時間ほど前までは命のやり取りをしていた相手と協力しながら負傷者を運んでゆく。仲間を、友を、親を子を。目の前で殺された者もそこにはいるだろう。しかし、騎士たちは敵と味方という言葉を心で殺す。あの行動を見て、その勇気を目の当たりにして何も感じないというのなら、それはもう人間ではなく人形とおなじである。だから、騎士たちは感情を声にしない。道義心、それだけが騎士たちを突き動かしている。
 戦場に突如姿を現したのは王妃マリアベルだった。
 フードを取ったそのひとを見た者は誰しもが自分の目を疑っただろう。あるいは、見てしまうのが禁忌であるかのように、思ったかもしれない。マリアベルは王妃としての声を伝えるためにここに来た。それにどれほどの負担が掛かっていたことか。言葉すべてを紡がないまま倒れてしまったマリアベルの意識は、まだ戻っていなかった。
「あの弱かった娘が、随分と頑張ったようだ」
 姪を気遣うその横顔は好々爺そのもので、かの名将もまた人の親である。ブレイヴはうなずきだけで返す。けれども王妃の助力を求めたのは他でもないブレイヴだ。無理強いをしたわけではなくとも結果的にそうなってしまっては、責任と後悔がついてくる。
「あれは幼い頃から我が儘ひとつ言わなかった娘だ。はじめてだろうな。自分の意思だけで物を言ったのは。さて、どうやって傍付きたちを説得したのか……。皆はさぞかし驚いただろう」
 老将軍の声はブレイヴを慰撫いぶするようでもある。やはり、先ほどまで見せていた騎士の顔とはちがう。砦の一室にて両者は再び言葉を交わしている。ブレイヴはセルジュを、オルグレムは扈従こじゅうを伴わなかった。けれど、ブレイヴは聖騎士として老将軍と向かい合う。何からどう話すべきだろう。また、どう切り出すのが正解か。沈黙がつづけばそれだけ居心地が悪くなるばかりだ。己の潔白を訴えるだけならば簡単で、しかしそうではない。信用と信頼。そのどちらも必要なのにどちらもいまのブレイヴにはなかった。
 しばし悩んでから、けっきょくそのままを話すことにした。はじまりは王都マイアの軍議会議、城塞都市ガレリアからアストレアにオリシス、西のラ・ガーディアやグランに、そうしてこのルダに至るまでの仔細を語ってゆく。それは何も己の身の潔白を証明するだけではなく、だからそこに異端な存在が関わっていることもブレイヴは隠さなかった。オルグレムはただ黙って耳を傾け、時に唸ることもあった。
「しかし、あれはたしかに陛下の声だったのだ」
 ブレイヴは顔をあげる。そうして、これが現実であるのだとやっと悟った。誰かが用意した脚本だったはずだ。奴らの、元老院が演出した舞台の上でアストレアもルダも踊らされているだけで、そこに王は関わっていないのだと、そう信じていた。だとすれば、なんてひどい裏切りなのだろう。ブレイヴはオルグレムの目の動きを注意深く見ていたが偽りとなる証は見て取れず、そもそも老将軍が偽りを声にする意味がどこにもない。悲しみよりも怒りよりも、いまブレイヴが感じているのは失望だ。
「貴公も騎士ならば受け入れなければならない」
  睨みつけたくなる衝動をブレイヴは抑える。オルグレムは相好を崩さず、双眸は憐憫の色をしていた。騎士は王に対して声を持ってはならない。老将軍が言いたいのは、つまりはそれだ。以前のブレイヴならばそうしていたのかもしれない。ブレイヴがオルグレムの立場であれば疑いを持たずに、そのまま騎士でありつづけた。でも、いまはちがう。なによりもブレイヴはアストレアを奪われた側だ。そして、ルダもまた。
「陛下は、アストレアもルダも、信じてくださらなかったのでしょうか?」
「貴公はまだ、それが白の王宮の……いや、元老院が関わっていると考えているのだな?」
「わかりません。ですが、そうでなければ辻褄が合わないのです。アナクレオン陛下は私に彼女を託しました。それは、」
 妹姫レオナの身を案じたがため、そしてルダも同様に王妃マリアベルを王都から遠ざけた。逼迫する北のルドラスとの戦争に彼女たちを巻き込まないようにと、ブレイヴはそう疑わなかった。そのアナクレオンがアストレアやルダに虚偽をかけることなど、どうあっても違和が残る。
「白の王宮でなにが起こっていたとしても……それでも陛下のなさりようは、目に余ります」
「貴公は陛下が乱心したと言うのか」
 一番たどり着いてはならない答えだ。ブレイヴは唇を閉じる。
「たしかに、それがもっとも正解に近いようにも思えるな。ルドラスとの戦争を終わらせるためには犠牲が必要となろう」
 それこそ、かの元老院が裏で画策していたのだと、ブレイヴは考えていた。そして、その次に何があるか。アストレアやルダを手に入れたその使い道は――。
「……私には信じられません。陛下は常に和平を望んでおられました」
「貴公はまだ若い。見えぬものもある」
 そうだろうか。それだけではなく、もっと他の、なにか重大なものを見逃しているような気がしてならない。慧眼に優れたアナクレオンだからこそ、こうなることくらい視えていたはずだ。内乱がはじまれば国が弱る。アストレアやルダ、それにオリシスを手に入れて、どれほどの利点がそこにのこるだろうか。武力を得て北のルドラスとの戦争に使うのに、こんな回りくどい方法を選ばなくともいくらでも道はある。あるいは、もうひとつ。半年ほど前に王都にて起こったその事件を知る者はそうおおくはなく、しかし白の王宮では密かな噂が立っていた。アナクレオン陛下はルドラスをおそれたがためにイレスダートを蛮族に渡そうとした。王女と王妃の行く先は公にされず、そうして近親者のみを隠したのならば、王とはいえど売国奴とおなじだ。一度、烙印を押された者などもう王ではない。ブレイヴはかぶりを振る。そのとき、王へと剣を向けたのはムスタールのヘルムート公だが、彼はいま王都にはいない。それが、なによりの証明だ。
 ブレイヴはそこで思考を止めた。頭がひどく混乱している。当たり前だ。イレスダートの王アナクレオンはそんな人ではない。王はそんなものを求めたりはしないし、ブレイヴの知るアナクレオンはそれを望んだりもしない。怯懦などもっとも遠く、ましてや逃げるなど考えられないのだ。では、己の知らないアナクレオンだったならば――。
 ブレイヴの耳にきこえたのはアルウェンの声だ。王の言葉がすべてただしいとは限らず、王もまた人間であると、あのときオリシスでアルウェンはたしかにそう言った。
「彼は、アルウェンは気がついていたのかもしれません。だから、彼は……、」
 ほとんど独り言のような声は途中で消えた。確証がない。ただの憶測だ。唇を湿らせながらブレイヴは次の言葉を考える。
「今は、こたえを出すべき時ではないかもしれんな」
 そのとおりかもしれない。ブレイヴを待っていた老将軍の目は疲れているようにも見えた。
「どちらにしても、貴公は進むのであろう? それから我らを道連れにするつもりだ」
 ブレイヴは笑む。わざわざ悪い言葉を使っていても、老将軍の声はブレイヴを責めたりはしなかった。後には引き返せない。ブレイヴもオルグレムも。
「儂はいい。だが、他の者はそうにはいかん。マイアにはそれぞれ家族がいる」
 オルグレムは試している。ブレイヴに問いかけているのだ。それらの者たちをすべてをも背負えるのか、と。
「覚悟はあります。そのために、私はイレスダートに戻ってきました」
 嘘も偽りも一切なく、また真摯に向き合ったところでどこまでが伝わるだろう。道を共にするというのは口で言うほどやさしくはない。オルグレムはブレイヴの倍は生きているのだから、すぐには生き方も信念も変えられるものではないはずで、その老将がこれまでとはまったく別の道を行くというのだ。君主へと捧げる剣はもうない。ならば、誇りもそこで失われる。
「それでも、戻らなければならないのです。王都マイアに」
 オルグレムは薄く笑むだけだった。










 護衛の者たちはルダの公子アロイスを含めた数名だけで、彼女はここまで来た。彼女の声に誰もが耳を疑って、それから反対をしたはずだ。マリアベルというひとは身体の丈夫なひとではなかったので、傍付きも侍女たちも皆が彼女を過保護にしてきた。それは、当然の声だったと思う。けれどもマリアベルの意志は固く、おそらくこれは彼女の最初で最後の我が儘だろう。
 義理姉が目を覚ますまでの間、レオナはずっと自分自身を責めていた。
 たしかにルダとマイアのたたかいは終わった。だとしても、その代償がこれだというのなら、やはり自分は間違っていたのかもしれないと、何度も何度も繰り返してしまう。疲労と精神的負担のためで、それほど心配することはないと軍医は言う。でも、彼女をここに連れてきてしまったのはレオナだ。見なくてもいいものを見せてしまった。あれは、見せてはならないものだった。レオナは拳を固く作る。そこにレオナはもう立っていて、けれども傷つくのも苦しむのも、痛みを覚えるのも償うのも、ぜんぶレオナがすればいいことだ。
 アロイスがルダの城に王子を迎えに行ったのは夜明け前、レオナのねえさまはまだ眠ったままだ。軍医とルテキアが入れ違いに入ってきては、すこし休むようにと言うけれど、レオナは首を縦には振らない。そうして、彼女がようやく目覚めたのは倒れてから一日半が過ぎてから、話すことが可能になったのはさらにそこから二日がたった頃だ。レオナは最初に出す言葉を迷っていた。どの声も無責任な気がしたからだ。あるいは、自分をまもるための声で、罪悪感から逃げているみたいだった。マリアベルは義理の妹を見て、まず微笑んだ。疲労と安堵と両方が見える。そうして、マリアベルは言ったのだ。ありがとう、と。
 レオナは目を瞬く。それこそ、自分が言うべき声だった。罵られるくらいの覚悟はあったのに、どうしてその言葉がでたのだろう。戸惑うレオナとは反対に、マリアベルの表情もすこしだけ豊かになる。 
「その顔は、好きなひとには見せられないわね」
 レオナはとっさに両手で頬を隠した。くすっと、悪戯好きな少女のする笑みが見えたのはそのときだ。
「うふふ。ごめんなさいね。でも……、疲れているのでしょう?」
 そんなの、なんてことない。レオナは下唇を噛む。
「だいじょうぶです、わたしは。ねえさまのお傍にいたいのです」
 それは強がりみたいに見えたのかもしれない。マリアベルの笑みがすっとなくなり、急に真顔になった。 
「いいえ、だめです。ひどい隈ができているし、唇だって頬だって、とっても乾燥しているわ。まるで、おばあさんみたい」
「……そんなに?」
「ええ、そんなに」
 冗談なんて抜きにした本気の声だったので、レオナは赤く染まった頬を大袈裟なくらい強く擦った。鏡があればのぞきたいけれどその前に顔をちゃんと洗う方が先だ。そうした一連の動作に耐えきれずに、先に声をあげて笑ってしまったのはマリアベルだった。 
「もう、ねえさまったらひどい」
 義理姉がこんな笑い方をするのははじめてだったので、レオナも一緒になって笑ってしまった。部屋の外まできこえても構わない。驚いて軍医と侍女たちが入ってきて、そのあと怒られてしまっても。
「すこしだけ、羨ましかったのかもしれません」
「ねえさま……?」
「わたくしはもうずっと、自分ひとりの足で立っていないような気がします。なにをするにも、誰かの支えがないと、歩むこともできなかった。でも、そんなわたくしでも、未来が欲しいと望んだのです」
 それはきっと、過去の自分だと、レオナは思った。
 白の王宮にいたままなら知ることのなかったせかいだ。まもられるためにそこから引き離されたのだとしても、兄を憎く感じることさえあった。けれど、自身の目でみて耳できいたときに、心で感じ取ってはじめて知ったのだ。使命感や責任、レオナやマリアベルに力を与えてくれたのも、己の感情だけではなく、そこには大切なひとがいたからだ。 
「わたくしは、イレスダートの王妃です。まだ、遅くはないでしょうか?」
 不安も恐れも見えずに、マリアベルの目には明日へのひかりだけが宿っている。遅くなんてない。兄はわたしたちを待っているはずだ。レオナは彼女の手を強く握り返した。  
 

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