五章 蒼空を翔ける

やまない雨

「ジェラールが、しんだ……?」
 その訃報を届けたのは、行方知れずとなっていたレオンハルトの従卒たちだった。彼らがグランルーザに戻る三日前に王女セシリアは帰還し、城内は歓喜に包まれていたというのに、それを一瞬でなかったかのようにするほど、その報告は衝撃的であった。
 グランはこの時期に起こらないはずの嵐に見舞われ、激しい雨と雷は七日も続き、暴風もしばらくは収まらなかった。あの空をよく無事に戻って来たものだと、レオンハルトは妹を抱きしめる。彼女が戻って来たことで、希望の光がふたたび宿ったのだと、誰もが信じていたのだ。
 従卒たちは続ける。セシリアが完全に回復するのを待たずに、ジェラールはエルグランの王城へと単身向かったという。その夜は風が強い上にやがて嵐となり、ジェラールの側近たちもまさか主がこんな中を飛ぶとは思ってもいなかったのだろう。消えたジェラールが発見されたのは嵐が収まってから、その姿は彼であるとすぐには判別できないほどに損傷が激しく、されど彼の飛竜が主を守るように寄り添い息絶えていた。従卒たちはその時にはジェラールによって解放されていたために仄聞しただけというが、エルグラン中が悲しみに包まれているというのだから、それは限りなく真実に近い。
 そして悲しみは、怒りと憎しみへと移り変わる。
 エルグランの侵攻がはじまったと、悪い報告は続いた。国境の街がすでに落ち、そのままの勢いであれば五日もせぬうちにこの王城へとたどり着く。静まり返った軍議室で、誰一人として声を落とす者はいなかった。そこへ無遠慮に放ったのはクライドだった。
「どこかで聞いた話と、同じだと思わないか?」
 ブレイヴは顔を上げる。クライドはブレイヴだけでなく、他の者にも聞こえるような声で続けた。
「一触即発だった両国の均衡を崩したのは、何者かの力によるものだった。その魔力は人のものだとは思えず、両国を混乱へと導く。元凶となった者はすでに姿を消した後、しかし俺たちはこの目で見た」
 クライドはラ・ガーディアの動乱のことを持ち出しているのだ。たしかに、今起こっている事態と酷似している。軍師も同じことが言いたいようで、セルジュは目顔でそれを訴えていた。ブレイヴは短い溜息を吐いた。
「ここでも、関わっているというのか」
 今ここに、幼なじみがいなくてよかったと、ブレイヴは思う。レオナには聞かせたくはない話だ。それが、いずれは彼女の耳に届くことだとしても。
「何の話をしている? 俺にも分かるように説明しろ」
 当然の主張だ。ブレイヴはレオンハルトに事のあらましを伝えたはいたものの、仔細を事細やかに話していたわけではなかった。ブレイヴはレオンハルトを見る。
「彼が、ジェラールが死んだのは、不慮の事故なんかではない。殺されたんだ」
 みなまで続けるところで止まった。レオンハルトは今にも胸倉を掴み掛かる勢いでブレイヴに詰め寄る。嘘偽りも、それから懇切も含ませるなと言いたいのだ。その間にセルジュが割り込むように身体をすべらし、二人を引き離す。ここで険悪になったところで話は進まないと釘を刺した。
「竜族が関与している。イレスダートもラ・ガーディアも、そしてグランも。国を乱す首魁となっているのは、ユノ・ジュールという竜人だ」
「ドラグナーだと……?」
 無論、レオンハルトは知っているはずだ。だが、ブレイヴはそれが幼なじみへと結びつく前についだ。
「そうだ。おそらく、エルグランの王の傍に彼がいる。ジェラールがなぜ、彼にとって邪魔になったのかは分からない。けれど、すべての元凶は……」
 そしてその目的は、どうあってもグランルーザとエルグランを争わせたいのだろう。










 灰色の雲はいまだに雨を降らせ続けている。
 グランの空には似合わない色、春の季節にはこれほどに雨が続くのはめずらしい。誰かが泣いているみたいだと、セシリアは空を見つめる。されどグランルーザの者にとっては、この雨を歓迎したい気持ちもあるのかもしれない。それだけ、エルグランの侵攻を遅らせているのだ。
「あまり長くいるのは、身体に良くないわ」
 髪も頬も、肩も腰も、何もかもずぶ濡れだ。けれど、セシリアは厚意とも忠告とも取れる声にすぐに反応しなかった。
 自暴自棄になっているわけではなくとも、そうしてしまいたいほどの気持ちはあった。できなかったのは体面を保ちたかっただけ、けっきょくは自分が一番大事なのだ。セシリアはあの時、泣くことさえしなかった。
「セシリア」
 名を呼ばれても、振り返ることをまだしない。でも、これでは意地を張っている子どものようだ。こうした癇性を剥き出しにしてしまえるのも、気の置けない人であるから。セシリアは抱きしめられていた。
「姉さま、だめです。風邪をひいてしまいます」
「それは私の台詞よ。傷は完治していても、体力までは完全に戻っていないでしょう?」
 見抜かれている。たしかにセシリアは瀕死の状態だった。助かったのは奇跡が起きたからではなく、誰かがセシリアを死の淵から引き戻したからだ。その後も手厚い看病を受けた。それが敵国であるにもかかわらず、だ。
 グランの女性はいずれも背が高く、セシリアも兄ほどとはいかなくとも長身だった。セシリアの胸に顔を埋めている人はとてもちいさい。イレスダートの女性がみなこんなにもちいさいものだと、思ってしまうほどだ。ちいさくて、うつくしくて、かわいらしいひと。兄の大事な大事な人。
 兄のレオンハルトはああいう気質な人であるから、ある日突然に恋人をグランに連れ帰って、そうして婚約者として迎え入れたことにセシリアは驚かなかった。士官学校の在学中に偶然に出会い、それは兄の一目惚れであったという。
 アイリオーネはイレスダートの北にあるルダの公女だ。身分としては申し分のない人だとしても、無理に連れ去ったとなれば国際問題にもなりかねない。ところが、父王は息子を叱るどころか笑い飛ばし、アイリオーネを歓迎した。彼女はたおやかな外見ではあるもの、気丈な人でもあった。父王が気に入らないわけがなく、セシリアもすぐにアイリオーネに好意を持った。何より、二人は本当に愛し合っていたのだ。
 大事な人だ。だから、こんな風に心配を掛けたくはない。
 セシリアは己の不甲斐なさを恥じ、表情を作り変えてから、義理姉から身を離そうとする。けれど、背に回された腕はしっかりとセシリアを抱きすくめている。この華奢な腕など少し力を入れてしまえば簡単に振り解けるというのに、セシリアはそれができなかった。気持ちを裏切ってしまうような気がして、こわかったからかもしれない。それならば、兄も同じだ。
 レオンハルトはセシリアが謝罪の言葉を出すより早く妹を抱きしめた。苦しいほどの強い力で、声を震わせながらに兄はつぶやく。泣いているのかと思ったくらいに、感情が伝わってきた。そういう人だから、人の目を気にすることなくありのままを曝け出して、そうした自分を嫌悪しない人だ。セシリアとは反対の、だからセシリアはいつだって兄のためならば力を惜しまない。
 けれど……、と。セシリアは心の中にいるもうひとりに問いかける。
 大事な人は他にもいる。病に伏せている父に、従者たち、愛してやまないのは民もそうで、それから新しくできた友がイレスダートの人間であっても変わらない。その中で誰が一番であるかなど、決める必要はなかったはずだ。それは貪婪であったのか。
「私は、間違っていたのでしょうか?」
 雨に、消えてしまいそうなほどの声でもアイリオーネは聞き逃さない。
「……いいえ」
 一度零れてしまえば、もう止めることはできなかった。
「でも、私は、失くしてしまったのです」
「いいえ、あなたは、」
「私が、ひとつを選べなかったがために。私が、正直な声を彼に届けなかったがために」
「いいえ、ちがうわ。セシリア」
 堰を切って流れ出したのは悔恨だったのか。醜く、浅ましい、稚拙な情など捨ててしまえばよかったのだ。その、愚かさにセシリアは笑んでいた。
「どうして、大事な人は、ひとりではなかったの……?」
 ジェラールだけを選んでいたのならば、彼を失わずに済んだのかもしれない。そんなことばかりを考えてしまう自分が憎くてたまらなくなる。
「彼が、私を愛してはくれなくても、それでも傍にいられるのなら、それでよかったのに……」
 選べなかったのは、声が届かなかったからではない。ジェラールを信じきれなかったからだ。アイリオーネの顔がすぐ近くにある。義理の姉は泣いているようでもあり、微笑んでいるようにも見えた。
「あいしていたのよ。ほんとうの心で。あなたも、ジェラールも。だから、そんな風に自分を責めないで。これはさだめなどではないのよ。なにか別の、本来あるはずの流れを無理に捻じ曲げてしまうような、強い力が、あなたから彼を奪ってしまった」
 帰ってこなければよかった。一度でも、そう思ってしまったセシリアを、アイリオーネは責めないのだ。セシリアの縋るような手もしっかりと握って、凛とした眼差しで彼女は言う。
「あなたが、帰って来てくれてうれしいの。レオンも、同じよ。だから……」
 止まない雨の下でセシリアは慟哭する。アイリオーネはただ、ただセシリアを抱きしめていた。


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