五章 蒼空を翔ける

いとしさは唇へと

 七日が過ぎ、十日が過ぎてもその雨は止まなかった。
 回廊は冷雨の影響で身体を芯から冷やすほどに寒く、また慌ただしく行き交う騎士たちでいっぱいだ。レオナは邪魔にならないようにと、ひたすらに端を選んで歩いていた。
 エルグランの軍勢はもう二日もしないうちにこの王城へと着くという。そうなる前に彼らは出立するのだろう。まだ幼さを残した相貌の少年であっても騎士は騎士だ。入念に武具の手入れをし、新たに渡された槍としっかりと握っている。そこには女の騎士の姿もあり、いずれもセシリアのように短く刈った短髪で、その瞳も男たちに負けない強さが宿っている。老齢の騎士たちも若者には負けてはいない。熟練の腕で竜を駆る老騎士たちも貴重な戦力である。
 回廊は雑兵たちでごったがえしであるもの、主だった者たちは連日軍議を繰り返している。五日ほど前に尖兵を送ったが未だに連絡がないというのだから、おそらくは殲滅したのだろう。今さら倉皇となったところで何の意味も持たないというのに、保守的な者たちは未だにこちらから討って出ることを躊躇っているのだ。繰り返される無駄な時間に辟易したのか、幼なじみの軍師は彼らに向かって辛辣な声を放ち、そこでなお揉めているという。
 慎重派の意見も分からなくはないところで、それだけエルグランの勢いはすさまじいのだ。ただ、一人の騎士を失った。されど、ジェラールの死はその引き金となり、エルグランの騎士たちの士気を上げる。甥であったジェラールを盲愛していたエルグランの王の怒りと嘆きは、いかほどのものか。もはや正しい判断もできないほどに王は騎士たちに勅命を与える。グランルーザを落とせ、と。
 グランルーザとエルグランの戦力はさほどなくとも、あちらには勢いがある。それこそグランルーザの民を根絶やしにしかねないほどの凶暴性、むやみに突っ込むのは自殺行為に等しい。だが、すでに国境は落ち、飛ぶ鳥を落とす勢いのエルグランに黙っていられないのが若兵たちだ。救援を求める街に駆けつけたところで間に合わず、仲間を失うばかりのこの状況に見境のない行動を起こしかねない。レオンハルトが何とか抑えてはいるもの、同じ気持ちでいるのだろう、機が傾けば誰よりも先に飛竜に跨りかねなかった。
 重厚な扉の向こうで繰り広げられている軍議の内容を、レオナはみなまで知らない。けれど、その緊張は嫌というほどに感じ取ることはできる。またある時にはセルジュから直接に、余計な魔力は使用しないようにと釘を刺された。あてにされているのはたしかなことで、それも攻撃のためではなく守りのためだ。
 グランの国では魔力を持って生まれる者など稀で、こと重宝される。治癒術を扱える者ならばなおのこと、決して傷ついてはならないのだと後方に回され、レオナも力の限りを尽くすつもりでいた。
 このところのレオナは居住区にほとんど身を置いている。女や子どもなど、戦えない者たちはここで男たちの無事を祈るしかない。遊びたい盛りの子どもたちでも、さすがに戦争の空気を感じ取ったのか、どの子も不安そうな表情をし、一人が泣き出せばまた一人が、そうして伝染していってしまう。母親たちの疲労も溜まるばかりで、レオナはシャルロット、またクリスとともに、まずは子どもたちを宥めることに努めた。
 レオナが歌ったおとぎうたは、ここの子どもたちも耳にしたことがあったようだ。はじめは泣いてばかりだった子どもも、次第にレオナと一緒に歌うようになる。それは、レオナの姉ソニアがよく口遊んでいたもので、竜に縁のあるグランルーザの民ならば耳にしたことのある歌だったのだ。
 子どもたちの気鬱を誤魔化すことはできても、大人たちになるとまた別、母親たちの会話もレオナは自然と耳にしてしまう。グランルーザは劣勢であるために攻撃に打って出ないこと、はじめからエルグランに屈するつもりだということ、あるいは老齢で病床の身であるカミロ王の寿命もすぐそこで、その首を差し出すつもりなのだと、根の葉もない噂ばかりにレオナの心は痛んだ。それも否定の声を紡いではならないのだと、クリスは言う。たしかに、母親たちにはああいった吐き出し口が必要だ。
 この日、耳にしたのはいよいよレオンハルト王子たちが出陣するという噂だ。それは予め伝え聞いていたので動揺はしなかったが、レオナは幼なじみから直接聞いたわけではなかった。ブレイヴと最後に話したのはいつだっただろう。そして、このまま声を交わすことのないままに別れて、もしも彼が戻って来なかったなら――。
 悪い考えばかりをしてしまう自分が嫌になった。レオナは断りを入れてから居住区を離れ、幼なじみたちのいる方へと向かう。そんなことを一度だって考えたことはなかったのにと、レオナは知らずのうちに拳を作っていた。
 ジェラールという人のことを、レオナはよく知らない。
 敵国の公子で、次期国王、それからセシリアの婚約者であると、それだけだ。そのたった少しの情報しか持っていなかったレオナでも、セシリアの深いかなしみとレオンハルトのいかりを見れば、それがどういうことなのかは理解ができる。これは、戦争なのだからと。自らの心の奥に封じ込めてはみても、大事な人を失うということに、レオナは耐えられそうもなかった。そう、せめて、会いたかった。会って、声を届けたかった。
 レオナは以前、オリシスのテレーゼの想いを聞いたことがある。戦争は嫌いと。あのやさしい人が言ったのだ。レオナも同じことをおもう。でも、レオナはもう奪う側の人間だ。何よりもおそろしいのが大切な人を失うこと。まもるためならば、その力を使うことをいとわない。けれど、それは今ではないのかもしれない。今は、信じて待つしかないのだ。彼が帰ってこれるようにと、祈るしかできなくとも、それが力となるのなら。テレーゼがアルウェンにずっとそうしてきたように、アイリオーネがレオンハルトをあいしているように。
 気色ばむ騎士たちは自分のことだけで精一杯だ。その刺激にならないように、その中を掻き分けていく勇気がレオナにはなかった。レオナは必死に幼なじみを捜す。グランの土と同じ色をした茶の色に、もう少し黒を足した焦げ茶、赤い茶色に、グランの人はこの色が多い。時に黒や金などの違う色を見えるもの、レオナが探しているのは青の色だけだ。そして、一瞬だけ、見えた気がした。
「ブレイヴ!」
 あっという間に喧騒に紛れてしまった声は、届くこともなく。
「ブレイヴ、まって……!」
 レオナは騎士たちを押しのけるようにして、必死に前へと進もうとする。けれど、騎士たちの鍛え上げられた肉体の前でレオナの華奢な身体などすぐに弾き返されてしまう。衝撃に倒れ込むも、誰もレオナには目をくれなかった。ただ、ひとりをのぞいて。
「……レオナ?」
 差しのべられた手を見た時、レオナの目に涙が浮かんだ。まだ顔を見ずとも、その声を聞き間違えるはずがない。その手を間違えるはずもなかった。見つけてくれたのだ。幼なじみはレオナの声を逃さなかったのだ。レオナは立ち上がろうとして、足に力が入らないことに気がついた。倒れ込んでしまった時に捻ってしまったのかもしれない。ブレイヴに支えてもらって、レオナはやっと身を起こす。整わない呼吸がレオナの声を奪う。ふたりの時間は限られているのだから、紡がなくてはならない。こえを、おもいを、あいを。
「……ねがい」
 息が、声が、続かない。
「おねがい。かえって、きて」
 無理やりに笑おうとして、涙がひとつ零れた。そうじゃない。伝えたいのは、せつなさでもかなしさでもなくて、ほんとうの、こころ。
「帰って、きてね。おねがいだから。わたしの、ところに……」
 それだけ言うのがやっとだった。次から次に、流れてくる厭わしい涙をそのままに、レオナはもう少し幼なじみへと身体を預ける。ほんの少し踵を上げて、彼の腕をしっかりと掴んで、それから唇を重ねた。ほんとうは、行ってほしくはなかった。傍にいてほしかった。それが叶わないのなら、せめて一緒にいきたかった。わがままであると、思わない。はじめて、ほしいと思った。この心が、伝わればいいのだと、レオナは願ったのだ。
「話したいことがたくさん、あるの。まだ、言ってないこともたくさん。だから、お願い。帰って、きて」
 今度は、もう少し自然に笑えた。その、ぎこちない微笑みでも、幼なじみはことさらやさしく笑む。レオナを無理に引き離すこともせず、ふたりの今の距離を保ったまま、幼なじみはレオナが一番好きな顔で言った。
「だいじょうぶだよ。レオナ」
 それは、幼なじみがレオナにいつだって与えてくれた声だ。
「俺は、帰ってくるから。……俺だけじゃない。レオンハルトも、レナードもクライドも。みんな一緒に帰ってくる」
 いっしょに、と。レオナは繰り返し、ブレイヴはうなずいた。
「そう。だから、レオナも約束して?」
「やくそく?」
「絶対に、無理はしないって。誰かを守るためであっても、その力は、無理に開放しないって。でないと、俺は」
「だいじょうぶ」
 幼なじみが何を言いたいのかが分かる。彼は、笑んでいるけれど、本当は苦しんでいるのだ。レオナは繋いだ手のぬくもりをたしかめる。視線もそのまま、涙はまだ止まらないけれど、彼を安心させるために微笑み続けた。
「無理はしない。だから、心配しないで。たたかうことになったとしても、彼が、わたしの前に現れたとしても。わたしは、負けない」
 きっと、幼なじみはそれが一番かなしいのかもしれない。くるしませたくはない。それなのに、どうしても、そこへと導かれてしまうのは、どうしてだろう。










 ふと、物音に気がついて、アイリオーネは目蓋を開けた。
 隣にいるはずの夫の姿はどこにもなく、アイリオーネはしばし視線を彷徨わせる。愛されたばかりの身体にはまだ熱が残っているのでややけだるく、時間を掛けて上体を起こした。目覚めたばかりの瞳は月と星のあかりだけでは足りなかったものの、そこでやっと夫の姿を捉える。わずかな寝間着だけを身に着け、ソファーに腰掛ける夫の手には羊皮紙が重ねられていた。出陣前の最後の確認をしているのだろう。
 出立は明朝だ。睡眠は充分に取るようにと軍師たちに促されたもの、レオンハルトはアイリオーネを求めた。アイリオーネに拒む理由はなく、自身が夫のやすらぎになれるならば、それでいいと思った。けれど、いつの間に起きたのだろう。気づけなかったことを歯痒く思う。
 衣擦れの音でやっとアイリオーネに気がついたようだ。レオンハルトは一瞬だけ言い訳をするような目をし、けれども次には苦笑に変えた。
 季節外れの長雨はやっと上がったとはいえ、天候は安定していなかった。少なくとも天はグランルーザとエルグランのどちらかを贔屓するつもりはないようだ。霧が出れば両者とも分が悪くなる。そんな中で夫は飛ぶのだ。もちろん、竜騎士であるレオンハルトの武勇をアイリオーネはよく知っている。彼を前に落ちなかった敵はいない。されど、これほどに大きな争いはもう何百年となかったこと、両国を安定に保っていた不可侵条約が戦争を許さなかったのだ。
「レオン」
 アイリオーネはいとしいひとの名をつぶやく。彼が声を落とすより前に、その頬へと口付けた。夫は少しだけ物足りないような顔をする。
「おまじない、よ」
 レオンハルトはアイリオーネを自らの太腿へと招いたが、彼の唇がたどり着く前に人差し指で塞いでみせた。情欲のままに睦み合ってしまえば満たされたとしても、それは夫が無事に帰って来てからでいい。アイリオーネは夫の胸に顔を埋める。友人の前では強くいられたけれど、本当はいつだって不安だったのだ。夫には気づかれている。でも、そうではないふりを続けているべきだ。
「セシリアのことを頼む。あれは、向こう見ずなところがある」
「ええ。あなたといっしょね」
 くすくすと、笑みを零せばレオンハルトは短く息を吐いた。
「それから、父上のことも」
「ええ。任せてください。命に代えても、守ります」
 レオンハルトの腕の力が強くなる。いつもは壊れ物を扱うようにアイリオーネに触れる夫が、このときばかりは別だったのだろう。
「その言い方は好きではないな」
「ふふ。あなたが私に与えてくれた言葉よ? 忘れたわけではないでしょう?」
 マイアの士官学校に通っていたレオンハルトと、修道院に身を寄せていたアイリオーネと、逢瀬は数えるほどしかない。しかし、レオンハルトは卒業する数日前に声を残していた。アイリオーネは本気にしていなかったのだが、その一年後、アイリオーネは祖国であるルダへと戻り、半年もしないうちにレオンハルトは単身ルダへと来たのだ。
 彼はその時に今の言葉をアイリオーネに贈った。明け透けない言動をするレオンハルトはアイリオーネの好みとはほど遠かったのが本音ではあるが、彼と会えない日が続くのがさびしかったのもまた事実、こうなれば二人を邪魔する者はいなかった。アイリオーネが一つだけ気掛かりだったのは、三つ下の妹と、さらに年が離れた弟のこと。最後は妹がレオンハルトを焚き付けて、なかば攫われるようにアイリオーネはグランルーザの花嫁となった。
「忘れるはずがないさ」
 レオンハルトの声色がやわらかくなる。
「だいじょうぶです。私が父上のお傍にいます。でも、もしも父上がそう判断したのならば、私はそれに従います。……そして、そうならないことを祈っています」
 カミロ王は賢明な王だ。侵略ともよべるエルグランに下ることはない。されど万が一、本陣が壊滅し、この王城が落ちた時には、正しい判断を口にするだろう。
「ならば、俺の無事も祈っていてくれ」
 応える代わりに、アイリオーネは今度は唇へと口付けを落とした。
 

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