五章 蒼空を翔ける

あいしていた未来に

 意識はずっと闇の底に沈んでいるかのようだった。
 繰り返し見る映像はいつだって同じ、そこには幼いセシリアがいて、兄のレオンハルトがいて、母はあたたかな眼差しで兄妹を見守っている。そう、だからこれは夢の中だ。
 それが幾日続いたのか分からないほどに身体は衰弱していたのだろう。目蓋を開けることも叶わず、肩や足に力を入れたところで大した意味はなく、やっと動かせたのは指先くらいだ。夢と現実の区別がつかないせかいをくりかえし、くりかえし、それでもセシリアは人の気配を感じ取る。あたたかなぬくもりは、誰かがずっと手を握っていてくれているからだ。
 セシリアは、それが母の手であるのだと思っていた。己の魂はもうこのせかいには留まっておらず、幼少の頃に亡くした母が迎えに来てくれたのだと。けれど、セシリアの耳に届いた音は、たしかに彼のものだった。
 生きているのだ。安堵と、喜びと、慙愧と。はたして、どれが正解だったのか。上手く働かない頭でいくら考えたところで無駄なことを悟り、セシリアは再び眠りについた。
 




 髪に、額に、頬に。そうして、最後に絡ませた指は、冷たかった。だからセシリアは、やはりあれが夢であったのだと、そう思った。
「気分はどう?」
 正直な言葉を言うべきか。落ちた声はおだやかでやさしくとも、身体はいまだに重たいまま、上体を起こそうとしたところで止められたがセシリアは逆らった。
「今は……いつ、なのですか?」
 セシリアは彼の目を見ないままに言う。溜息が落ちた。呆れをいくらか孕んだ時のように、彼はそのまましばしの時を置く。
「それくらいの訊く権利はあるでしょう?」
 セシリアは怒りをそのままに乗せる。自身が今どういう状況にあるのか、分かっているつもりだ。
 敵の刃に貫かれたベロニカとともに、セシリアは落ちた。助かるはずのない高さだった。それでも、こうして生きているのはベロニカがセシリアを庇ってくれたから、敵であるはずの彼らがセシリアを保護し手厚い治療を施してくれたからだ。
 感謝はしている。でも、それだけだ。自分の命が惜しくないといえば嘘にはなるが、これでは人質が入れ替わっただけ、己を恥じるのが先に出てくる。セシリアは兄のことを想う。今頃はグランルーザの大地を踏みしめ、臣下たちに喜びのままに迎えられ、義理姉アイリオーネもやっと安心できただろう。これは、喜ばしいことだ。勝手な判断の後に招いた結果、誰も心を痛めなくてもいい。
「君の竜は大人しいものだね。どこぞの野蛮な竜とは違う」
 彼はセシリアの知りたがっていたものとは違うことを言う。そこではじめて、セシリアはジェラールを見た。
 疲労は声色から伝わってはきているもの、火傷の跡はこの時に気がついた。どの程度、負傷していたのかセシリアは知る由もない。さぞかし優秀な治癒術の使い手がここにいるのか。探るような目をするセシリアにジェラールは目を眇める。
「君は、そんなに僕と敵でありたいのか」
 セシリアは彼を睨みつける。寂寥の溶けた微笑みはそのまま、恩情のつもりならば、それは侮辱と同じだ。
 ジェラールがセシリアを愛することはない。彼は、敬虔なヴァルハルワ信者であり、神の教えでは恋愛による結婚は認められてはいなかった。ひとりを愛することは許されないのだ。ゆえに、二人が結ばれたとして、それは形だけの儀式でしかならない。そもそも政略による結婚に心は要らなかった。汎愛の情を持つこと、彼はそれができる人だ。
 けれど、セシリアは否定する。彼と敵同士になりたくはなかった。それなのに、つぐべき言葉を持たなかった。兄は無事だ。ならば、交わした声もまた、ジェラールには届かなかったのだ。
「私は、グランルーザに帰ります」
 今度は目を逸らさなかった。彼はとてもやさしい人だから。いつくしみ、憐情を惜しまず、それがどんな身分の者でもあろうとも、または敵と敵であろうとも。これは慈悲であると、セシリアは思い込もうとする。そうでなければ説明がつかない苦しさだ。
「帰すわけにはいかない。君はここで、」
「あなたの妻となり、そして祖国が滅ぼされるさまを、黙って見ていろと、そう命じられるのですね」
 こんな風に真正面から彼を非難するのははじめてだった。やさしい、とてもやさしい人。かなしみを遠ざけて、醜いものを見せないようにとしてくれているのだ。セシリアは笑む。かなしかったのだ。分かり合えないことがではなく、もう彼の隣にいることができないその事実が。せめて涙は零すまいと、セシリアは下唇に歯を立てる。意地のように見えただろうか。それでもよかった。
「あなたは、そんな人ではなかったのに」
 どれだけ過去を愛おしんでも、二人に同じだけの時間は戻らない。
「人が、生きていく上で、たしかに信仰は必要なものだと思います。けれど、神は尊い存在であっても、絶対の存在ではないはずです。王もまた同じ。本当は、分かっているのでしょう? これは、過ちであると……」
 声は掠れて出てくる。けれど、思いを乗せた言葉は、届けばいい。
「エルグランの民が生きるためには他の方法がない。君は、分かってくれるものだと思っていた」
「そのために、グランルーザを、私たちの民を……犠牲にするのですね。それが、正しいことだとでも?」
 ジェラールは応えなかった。あぁ、まただ。彼は、そうやっていつも一人で抱え込もうとする。この身体が万全であったなら、拳を振るうことができたのなら、セシリアは力任せにその頬を張っていただろう。それで彼の矜持が傷ついたとしても構わない。どうせ、もう戻れないのだ。
 セシリアはジェラールを見つめる。赤みがかかった茶の髪に、濃褐色の瞳、肌の色にしてもグランルーザとエルグランの人間ではさほどの変わりはなく、同じ国の人間だ。それなのに、まだ何が足りないというのか。
「たしかに、グランの国は争いを起こし、二つの国へと分かれてしまいました。けれど、それは無理な力で押さえつけようとしたから、信仰心を抱かぬ者に、いくら教えを説いたところで何の意味もないでしょう。抑圧された中で、人は生きていくことなどできません。新たなかなしみを生むだけです。だから、王も」
 セシリアは呼吸のための間を置く。目覚めたばかりの身体はまだ万全な状態とはほど遠く、気を抜けばそのまま倒れ込んでしまいそうだ。ジェラールの唇はまだ閉じたままだった。
「あなたの叔父上も、ずっと迷っていたのではないですか? 怨嗟も甘言の声も、これまでずっと聞かされてきたのにかかわらず、躊躇っていたのはなぜでしょう? それは、認めていないからです」
 その正しさを持って、見極める目を持っていたのならば。
「ジェラール、聞いてください。ここ数年の凶荒も、猖獗している病にしても、神の怒りによるものではありません。グランルーザは援助を惜しみません。そうして助け合うべきです。一つの国に戻らなくとも……」
 セシリアの声はそこで遮られる。哄笑はしばらく響き渡り、そうしてジェラールは否定の意味を込めてかぶりを振った。
「君たち兄妹はよく似ている。それは、豊かな者だけが口にできる言葉だ」
 そうかもしれない。北のエルグランと南のグランルーザの気候はほぼ同じであっても、沃土が違う。エルグランがグランルーザを欲しがっているのもそのためだ。
「王も、あなたも、唆されている」
 セシリアはついにその言葉を口にする。すっと、ジェラールの目が細くなった。
「もういい。これ以上は、身体に触る」
 傷の痛みはない。あとは体力さえ戻ればいいはず、話を終わらせるための方便であるのが分かる。肩に触れたジェラールの手をセシリアは振り解く。しかし、宙に浮いていたその手は、再びセシリアへと伸ばされる。髪に、耳元に、触れた指先の温度は――。
「どうして、髪を切ってしまったの?」
 セシリアは、忘れたことはなかった。甘さを含んだ声も、彼のにおいも、熱も、ぜんぶ覚えている。
「私はもう、髪を伸ばすことはないわ」
 けれど、それは拒絶だった。最後に求めてくれた手を、セシリアは離すことを選んだのだ。
 頬を撫ぜる手が愛おしくとも、離れていくぬくもりが恋しくとも。セシリアは微笑んだ。ジェラールの唇がゆっくりと動き、されど音はないままに。やがて、遠くなっていく彼の背を、セシリアはただ見つめるだけだった。











「よろしいのですか?」
 声に、ジェラールは気がつかないふりをしようとし、しかしふた拍を空けてから相手の顔を見る。白の御子は艶美な笑みをしていた。
 彼女は、グランルーザへと帰してやった。これを人質にでもしようものならば、舌を噛み切って自害しかねないような人だ。別たれた道はいつからだったのか。ジェラールは薄く笑う。レオンハルトならば、セシリアならば、分かってくれるであろうと、根拠のない確信の結果がこれだ。
「君には感謝をしている」
 ジェラールはあえてその話題を避けた。白の御子がこの場にいなければ、二人とも生きてはいなかっただろう。その直撃を避けたとはいえ、飛竜の吐く炎は人間の身体などたやすく溶かすほどの威力を持つ。また愛竜に庇われたとはいえ、身体の至るところの骨は折れ、出血の量が多かった彼女が助かったのも、白の御子の力によるものだ。さすがはヴァルハルワ教の要人である。だが、ジェラールはふと、違和を摘み取った。己の意識がなかったとはいえど、瀕死の状態にあった人間を傷一つ残さず、あるいは後遺症も何事もなく癒し、短時間で体力までも回復させることが、ふつうの人間に可能であるか。
 答えは否だ。少なくともグランの人間でそんな芸当ができる者などいない。イレスダートの人間であっても、だ。
 ジェラールは密かに白の御子の素性を調べてさせていたが、まだ臣下からの報告は届いてはいなかった。きっかけとなったのはイレスダートの聖騎士の声だった。イレスダートに伝わる竜の伝説はグランにも同様に、竜と共存しているだけあって、グランの方が精通しているといってもいい。イレスダートの王家の者が竜の血を受け継ぐ一族であることをおとぎ話などで留めず、崇拝する者もいるくらいだ。聖騎士とともにイレスダートを離れた姫君はその力を持っているという。今、ジェラールの目の前にいる白の御子が同じ存在であるならば――。
「君は、何者だ?」
 頭の中で考えを消そうとしても、もう口がその声を発していた。白の御子はその微笑みを絶やさぬまま、やや驚いた目をする。
「お可哀想に。ひどい怪我であったために、記憶が曖昧になったのでしょう。じきに戻ります」
 その涼しげな声も不快ではない。されど、雪花石膏の肌、同じ色の長い髪、薄い唇、群青の瞳も、彼を造る色はうつくしく、それが人間ではないもののようにも見えるのだ。完璧すぎるうつくしさに惑わされてはならない。ジェラールはこれまで気づかぬふりをしてきただけだ。敬愛する叔父が心を預けている相手に対して向けてはならない疑念を、包み隠すことなく抱いたのは、なぜだろう。
 失ってからはじめて知ったのだ。彼女の声はいつだって、ジェラールを引き戻すためだけにあったことを。真摯な眼差しはセシリアがジェラールを愛していたからだ。ジェラールは、深い息を吐く。それは悔恨であったのかもしれないし、断念であったのかもしれない。ヴァルハルワ教徒としての自覚がジェラールにはある。早くに亡くした父母に、それ以降ジェラールを育ててくれた叔父王に、身の回りの世話を努めてくれる侍従に臣下に民に、幼なじみに、それぞれに感じていた愛は、すべて平等であったはずだ。誰かが教えてくれたのではない。今、やっと分かったのだ。ジェラールはセシリアを愛している。だから、彼女を手離したくはなかったのだ。
「僕は王城へと戻る」
 時刻はすでに深夜を回っている。今宵の空は雲が多く視界が悪いだけではなく、風も強い。こんな中を飛ぶなど自殺行為であると、周囲はジェラールを止めるだろう。それでも、一刻も早く、王の元へと馳せ参じ、この声を届けなくてはならない。王がまだ決断を迷っているというのなら。エルグランとグランルーザが共に歩めるというのならば――。
 ジェラールは、ユノ・ジュールの返事を待たずに回廊を進んでいく。だから、白の御子が落とした声は届いてはいなかった。
「時はすでに遅いというのに。運命は、あなたを必要とはしていない。この流れを止めるというのなら、あなたには……」




 その夜、ジェラールは闇を見た。
 そこには幾千の星の輝きなど見えず、漆黒と藍を混ぜ溶かしたような夜の色だ。ジェラールが見ていた色は突然に濃くなり、そこにはもう闇しかなくなった。行く手を阻む厭わしい風の力は徐々に強まっていく。だが、グランの空をよく知るジェラールは臆することはなかったはず、それが凶暴で攻撃的なものへと変わった瞬間、彼の運命はそこで止まった。人の子など簡単に壊してしまうほどの風は、やがて嵐となり、グランの地に七日間にわたって季節外れの大雨を降らせた。

 

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