九つの鐘のあとに祭儀がはじまる。大聖堂には敬虔なる教徒たちが着席し、大司教の声を静かに待つ。騎士も大貴族も商人も、神の前では身分など関係がない。彼らは等しく人であり、そうして祈りの時間を大事にする。
神聖なる時が終われば教徒たちは聖イシュタニア像の前で膝を折る。贖罪こそが信仰の証だと彼らは信じて疑わずに、憤怒、嫉妬、強欲に色欲といったあらゆる罪を神の前で告白する。長い列が途切れるのは午餐の頃、それからまた街は日常へと戻っていく。
イレスダートとおなじだ。レオナは口のなかで、そうつぶやいた。
レオナの前に並んでいたのは家族連れで、背の曲がった老爺と小肥りの中年の男、それから母親と思われる女がちいさな子どもの手を引いていた。祈りの時間がはじまればそれぞれが胸元からロザリオを取り出して、まだ幼い坊やもちゃんと静かにしている。
うしろにつづいているのがイレスダート人だと、彼らは認めていたはずだ。けれどもこちらの顔をちらと見るだけ、敬虔なヴァルハルワ教徒同士は人種による差別をしないようだ。
では、これがイレスダートと敵対しているルドラス人ならばどうだろうか。
レオナは途中で思考を止める。そんなものを考えても意味はない。ここは、イレスダートではないのだから。
傍付きの呼ぶ声がする。聖イシュタニアの前で跪いていたレオナはやおら立ちあがった。後を待っていたのは金髪の少年で、レオナを見てぎこちない笑みを浮かべていた。
「ごめんなさい。すこし……考えごとをしてしまって」
「いえ……、謝罪すべきは私の方です。急かしてしまい、申しわけありませんでした」
気にすることなんてないのに。そう言ったところで、きっとルテキアは退かないのをレオナはもう知っている。
「行きましょうか。ロッテが待っているわ」
ルテキアは敬虔なヴァルハルワ教徒ではなかったし、レオナだっておなじようなものだ。兄のアナクレオンは教会嫌いだから家族で大聖堂に足を運んだ覚えはなく、祈りを唱えるときもレオナはいつも一人だった。それでいえばここにいない少女が一番それに近しい。オリシス公爵の養女として迎えられる前に、シャルロットは教会で世話になっていたと、そうきいた。少女の母親が教徒だったのだろう。時間が許す限りではあるものの、シャルロットは祈りの時間を大事にする。本当は、ここに来たかったのは彼女だ。
シャルロットは三日前から熱で寝込んでいる。
フォルネに着いてすぐに少女は倒れてしまった。よく持った方かもしれないと。レオナはそう思う。カナーン地方から西のラ・ガーディアにたどり着くまでも少女はたびたび体調を崩していた。魔道士の少年に解熱の薬草をわけてもらって誤魔化しながらここまで来たものの、シャルロットの体力は限界だったのだろう。
宿屋で眠る少女の傍にはデューイが付いてくれている。こういうときはな、出会ったばかりの他人の方がいいんだよ。レオナは傍付きをちらと見る。たしかにそうかもしれない。ルテキアは真面目で責任感の強い人だから、シャルロットを一人にしておかないけれど、でも少女だって一人になりたいときもある。
赤髪の青年を快く思っていないルテキアはむずかしい顔でいたが、けっきょくデューイの声に従った。シャルロットのこともあるけれど、もしかしたらわたしたちを気遣ってくれたのかも。こんな風に自由に出歩くのもずいぶんひさしぶりな気がする。
「フォルネの司祭さま、ちゃんとわたしたちのはなし、きいてくれるかしら……」
「心配要りません。ヴァルハルワ教徒は皆、平等です。たとえ生まれた国がちがっても」
ノックのあとに扉が開いた。レオナは思わず驚いた顔をしてしまった。
「お待たせして申しわけありません」
「あなた……クリス?」
はい、と。彼はそう返事する。まばたきを繰り返すレオナに白皙の聖職者はにっこりした。
隣でルテキアが気色ばんでいるのがわかる。レオナは目顔で傍付きを制して、まずカウチに腰掛けるように伝える。
「フォルネは信仰深い教徒が多いのです。そう、イレスダートのように」
「それであなたは、彼らの声をきいてあげていたのね」
笑みは肯定の意味だろう。でも、彼もイレスダート人だ。その彼がどうしてフォルネの大聖堂で重用されているのか。
「……クリス。お茶が冷めちゃう」
「ああ、そうでした。この焼き菓子はフレイア様の好物でしたね」
彼のうしろにはもう一人が、この金髪の少女にも覚えがある。波打つ蒲公英色の髪に卵形の輪郭、
反対側のカウチにちょこんと座ったフレイアはもう焼き菓子に手を伸ばしている。こどもみたいに見えるものの、彼女の挙措は貴人のそれだ。フォルネの要人なのかもしれない。幼なじみはそう言っていた。
「さあ、どうぞ。冷めないうちに」
ルテキアが先に動いて、レオナもそれにつづいた。口に含んだ途端、果実の甘さと爽やかな香りが広がる。おいしい。そうつぶやいたレオナにクリスはずっとにこにこしている。
「こちらの焼き菓子もぜひ召しあがってくださいね。マカロンというのです。めずらしいでしょう?」
「マカロン?」
「はい。卵と砂糖とアーモンドを使ったお菓子です。女性にとても人気の品なのですよ」
まるっとした形、それから生地のあいだにはジャムが挟まっていて彩りも綺麗で可愛らしいお菓子だ。レオナが頂いたマカロンはバニラの味がして美味しかった。若い娘たちに人気なのもわかる気がする。
「あの、よかったらすこしわけて頂けないかしら?」
「はい、もちろんですよ。お連れだったお嬢さんのお土産にされるのでしょう? 今日は一緒ではないみたいですが」
「シャルロットは……」
レオナはかいつまんで事の次第を伝えた。白皙の聖職者は気の毒そうな表情をしている。たしかに少女の不調は旅の疲れもあるだろう。けれどもそれ以上に疲弊しているのは、シャルロットの心だ。
「それはおかわいそうに。大変でしたね」
目の前で養父を殺されたとは言わなかったが、大切な人を失ってしまった意味ではおなじだ。少女だけではない。幼なじみも、他の皆だってきっとまだ傷は癒えていない。
「お力になってくださいますか?」
「私などでよければ」
クリスは空になったフレイアのカップに香茶を注ぐ。彼女はこの話に無関心なのか、ずっとマカロンを頬張っている。
「そういうわけです、フレイア様。すこし傍を離れることをお許しくださいね」
「いいよ。でも、どうせこのひとたち、あとでお城に来るんでしょ?」
それはどういう意味なのだろうか。きょとんとするレオナをちらっと見ただけで、フレイアの視線はまた焼き菓子に戻ってしまった。
「ええ、そのとおりですよ。サリタのお礼は返さなければなりませんからね」
「サリタ……?」
胸がざわざわする。浅くなってしまった呼吸を落ち着かせるように、レオナは心臓の辺りを抑える。クリスのアルトの声音は心地が良い。気をつけていたつもりなのに、人々の告解をきく聖職者の前では嘘は吐けず、本当のことを何もかも話してしまいそうになる。
「そんな顔をなさらないでくださいね。サリタで助けられたのは事実です。急にイレスダートの騎士たちがサリタを専横するものですから、街から出られずに困っていたのです。それをあなた方が」
「お前は、何者だ?」
遮ったのはルテキアだ。ここが大聖堂の敷地内でなければ、傍付きは剣を抜いていた。
「ほんとうだよ。私たち、フォルネに帰りたかったから困ってた」
「ええ、そのとおりです。フレイア様、お母上の命日に間に合わなくなるところでしたね」
「そんなことはきいていない。なにが目的かをきいている」
「まって、ルテキア」
身を乗り出しかけている傍付きの腕を押さえると、レオナはクリスとフレイアを見た。嘘は言っていないし、そうする理由が彼らに見当たらない。
「このひとは、信頼できるわ」
「信頼とか信用とか、そんなのどうだっていい」
ずっと微笑みを崩さないクリスとは対照的に、フレイアは無表情のままだ。彼女はこちらの事情なんて関係ない。それでもこうつづける。レオナたちの素性などぜんぶ知っているかのように。
「兄様が聖騎士に会いたがってる。あなたたちはおまけだけど、でもクリスがいいって言うなら貸してあげてもいい」
石畳の道を西へと進んで行く。
擦れちがう人たちは皆反対へと向かっている。祭儀の帰りなのかもしれない。大聖堂の鐘の音がきこえたのは一時間ほど前、幼なじみたちも宿へと戻っているだろう。
西のラ・ガーディアで最初の街であるからか、ここではブレイヴたちのような旅人も多い。旅行者や巡礼者、しかしフォルネに入る前に衛士に誰何されることもなかった。ただ一目で他国の人間だとわかるのは髪の色がちがうから、イレスダートでも金髪の人間はいるものの、このフォルネは特に多いときく。
ブレイヴはふとラ・ガーディアへと向かう途中で出会った二人組を思い出した。
自由都市サリタから街道を外れた山道へと入り、そうして山小屋で一泊した。金髪の少女と白皙の聖職者。あの二人もフォルネに着いた頃だろうか。
「何をぼうっとしている?」
顔をあげてみれば、怪訝そうに見つめる幼なじみが待っていた。そんなに長いあいだ考え込んでいたつもりではなかったが、考えごとをしているときはどうもそう見えるらしい。ブレイヴは笑む。
「いや、べつに。ここでも足止めを食らってしまったなって」
ともすればディアスのため息がきこえてきそうだ。だが、あのときとはちがう。こんなところにまでマイアの追っ手は届かない。
「もうすこし情報がほしいところだな」
ブレイヴはうなずく。フォルネに入って三日、休息するには十分な時間が過ぎている。ブレイヴたちはそのまま次のウルーグへと向かうつもりだった。ここから先の国境が閉ざされていなければ。
「ラ・ガーディアの情勢が危ういとはきいていない。イレスダートでもカナーン地方でも。なにより、この国の人々からそういった危機感が見られないのはどうしてだろう」
「あるいは、この国の王が慎重なだけか」
フォルネで何かが起こっているのだとしたら、用心深い人間ならばたしかにそうする。しかし、それにしては妙だ。カナーン地方からこの国には簡単に入れた。
「なんらかの有事が起きていたとして、民にはまだ知らされていない。あるいは、」
「この国ではなく、隣国にも関係しているのかもしれない」
幼なじみの声をブレイヴが引き継ぐ。たぶん考えていることは一緒だ。
「と言っても、ここまで緊張感が伝わってこないのもふしぎだな。城勤めの騎士だっているはずだし、そこから家族へと簡単に伝わる」
「漏洩したそのときには家族ともども厳罰が下される。慎重な男ならばそうする」
イレスダートの王アナクレオンのことを言っているのだろうか。その逆だと、ブレイヴは思う。わかっていてディアスはわざと言っている。
「なんだか王の像が掴めないな。近しい要人でも捕まえられたら……」
「それこそお前の仕事だろう」
ブレイヴは苦笑する。クライドといいディアスといい、自分にそれができると思っている。過大評価だよ。ブレイヴは微笑みでそう返す。
「合流地点は噴水広場だったな。急ごう。皆も、もう戻っているかもしれない」
レナードとノエルが東通りを、クライドは北を。レオナとルテキアは大聖堂へ行って、アステアとデューイは宿で留守番だ。
「……あの子は、やはり連れてくるべきではなかったのでは?」
ブレイヴはまじろぐ。誰のはなしなのかすぐにはわからなかった。ディアスはシャルロットのことを知らないし、幼なじみに皆まで仔細を伝えてはいない。それでも、ディアスには妹がいる。自分の妹と歳の近い少女のことまで、ちゃんと幼なじみはみていたのかもしれない。
「うん。……でも、サリタに置いていくなんてできなかった」
お別れをするために、レオナはサリタの孤児院をふたたび訪れた。それなのに戻ってきたとき、幼なじみの隣にはオリシスの少女がいた。レオナは泣きそうな顔をして、反対にシャルロットは決意に満ちた表情だった。
「声はまだ戻らないままだし、体調も万全じゃない。それでも、」
レオナはシャルロットの手を離すことを望まなかった。自分だったらどうしていただろう。おなじことをしていたと、そう思う。
商業区である西通りには露天も連なっている。
花や果実を売る荷車に、異国の香草を売る店もどこも繁盛しているようだ。幼なじみたちはまっすぐ宿へと帰るだろう。手土産に季節の果物でもと考えていたものの、ちょうどお昼時と重なって近づけそうもない。
「噴水広場といえば、三人で林檎を食べたな」
ディアスの眉間に皺が寄った。覚えていないのか、それとも無理に話題を変えたせいか。ブレイヴはずっと昔を思い出す。王都マイア。あれはレオナが十歳の誕生日を迎えたそのあとだった。
「商業区をゆっくり巡って、レオナに好きなものを買ってあげたかったな」
そうすれば《《あんなこと》》だって起こらなかったはずだ。人通りの多いところに行って迷子の三人は大騒ぎする。そのうち白騎士団に見つかって、白の王宮に連れ戻された姫君と騎士二人は大人たちにたっぷり説教される。それで、よかったんだ。
たぶん、あのときの自分は道を見誤っていた。守れると、そう思い込んでいた。いまだって何ひとつ、幼なじみを守れてなどいないのに。
「待て、勝手に過去を塗り替えるな。林檎を食べたのは俺だけだ」
突然ディアスがそう言い出した。ブレイヴは首を捻る。
「あれ? そうだった、かな?」
「そうだ。毒味をさせたのはお前だろう。忘れたのか?」
「でも、レオナに先に食べさせるわけにはいかないだろ?」
「そう言って俺に食べさせたんだ」
どっちだっていいじゃないか。案外根に持つ奴なんだな、だなんて返せばディアスはもっと怒る。ブレイヴは次の話題を振ろうと視線を幼なじみから逸らした。ちょうど向こう側から来たクライドと目が合った。
「ごめん、クライド。待たせてしまったようだ」
「いや、俺があんたを探していたんだ」
「レナードとノエルは?」
「あいつらもまだだ。だが、あんたに先に話しておく」
クライドの声から緊張が伝わる。良い報告なのかそれとも悪い報告なのか。クライドはもうすこし声を潜めた。
「……イレスダートの聖騎士に会いたがっている奴がいる。だが、警戒心の強い男で、酒場で落ち合うのは俺とあんたの二人だけだ。どうする?」
ディアスやレナードたちの同行が許されないとなれば、彼らは反対するだろう。幼なじみはもうそんな顔をしている。
「行くよ。ここで素性を知られているのなら、隠れていても無駄だ。行って話がきく方が早い」
「あんたはそう言うと思った」
ひさしぶりにクライドの笑みを見た。ブレイヴも笑む。
「それじゃあ、行こう。ディアスはレナードたちと合流して、話を伝えてもらえると助かる。……どうした?」
歩き出そうとしたブレイヴに対して、クライドもディアスも直立したままだ。二人ともどこか呆れたような表情でいるのは気のせいだろうか。
「動くのは夜になってからだ。言っただろう? 酒場は夜にならないと開かない」