四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

四葉の国

 四人の若者が額を合わせている。
 篝火を囲う若者たちは長いこと話をしている。明け透けのない物言いをする者、険悪にならないようにと間に入っている者、自分の意思を押し殺している者に、最後の一人はそこで一番若輩らしく、彼らのなかで一人だけ喚き散らしている。
 彼らの顔はいずれも似ておらず、肌や髪に目の色もそれぞれ、この場を仕切っている男はくすんだ金髪に灰褐色の瞳、その横で彼の発言を補佐している者は金糸雀カナリアのような金髪と草原を思わせる瞳が美しく、先ほどからだんまりを決め込んでいる男は彼らよりも肌の色が濃く、髪も瞳も漆黒の色だ。そして年少の彼はまだ少年で、白皙の肌に銀髪と紫の瞳を持つ。他の三人に比べると線が細いせいか弱々しく見える、実際それは事実であり、彼の発言はほとんど無視されていた。
「兄さん! 僕は納得していないよ。どうして僕が一番北なのさ」
「お前はまたそれか。すでに終わった話を蒸し返すな」
「まあまあ、そう言わずに。皆まできいてやりましょう。弟の声は貴重ですよ?」
「……弟ならば、兄の言葉には素直に従うべきだ」
 彼らの発言もまた多種多様がわかる。揉めているといったところでも、けっきょくは一番上の兄が押し切ってしまうのだから、下の二人はもう諦めているのだろう。それでも末弟は長兄に食らいつく。繊細そうな容貌とは裏腹に末っ子はひどい癇癪持ちで、自分の思いどおりにならないときにはこうしていつも喚き散らす。
「最北だなんて未開の地じゃないか。嫌だよ。僕はあんな野蛮なところになんて行きたくない」
「ほう? お前は行く前からもう匙を投げているのか。サラザル、だからお前は駄目なのだ。イスカルを見ろ。こいつは自分の力だけで荒れ地の民を制したぞ」
「フォル。それはちがう。俺は、あのひとたちを支配してるわけじゃない。ただ、拳と拳で話し合っただけだ」
「でも、それでイスカルは認めてもらえたのでしょう? でしたら誇るべき行為です。外からの人間を受け入れるなんて、なかなかできることではありません」 
 サラザルは押し黙った。上の兄たちが優れているのなんて彼が物心つく前にはわかっていた。厳しさ、優しさ、強さ。どれも自分が持っていないものだ。認めたくなくて、だからいまでも彼は兄たちに反発する。
「だったら、イスカルの土地を僕にくれたらいいじゃないか。あそこはもう落ち着いたんでしょ?」
 兄弟たちは一斉にため息を吐いた。またはじまったとでも思っているのだろう。人の物を欲しがるのは末弟の悪いくせのひとつだ。
「サラザル。我が儘を言ってはなりませんよ。イスカルの土地は……あそこの民は一筋縄ではいきません。イスカルだからこそ、今後を任せられるのです」
「でも、だって……。じゃあ、ウルの土地でもいい。草原ばかりだけど北よりはいいよ」
「お前は何もわかってないな、サラザル。いまだに馬に乗れないお前が、どうやって馬を育てるつもりだ?」
「……俺の土地が欲しいなら譲ってやる。だがフォルの言うとおりだ。あそこの黒馬はウルのところよりもずっと気性が荒い。怪我をするだけだ」
 お前では到底無理だ。兄たちはいつもサラザルが目を逸らしている現実を突きつける。
 だいたい馬に乗れないことの何が悪いのか。馬に限らずサラザルは動物が嫌いだった。臭いし不潔な生きものだと、そう思っている。ウルやイスカルは子どものうちから一人で乗馬ができていたようだが、長兄フォルなどはサラザルの歳になってようやく馬に乗れたくせに何を言う。そういう目で、サラザルは兄たちを見る。兄弟たちはサラザルを無視してもう次の話題に移っている。
 そもそものはじまりは四兄弟の父親だった。
 西の大地に土地を分け与えると、勝手に決めた男だ。サラザルたちの父はもともと西で生まれたわけでも、ずっと東の土地から来たわけでもない。海の向こうの大陸から、難破船でただ一人生き残った若者だとか。そのとき介抱してくれた女が生んだのがフォルだ。
 父親はフォルがまだややこのうちに女の元を去って、もうすこし北へと旅立つ。豊かな草原に恵まれたその地でまた別の女が身籠もる。その子がよちよち歩きをする前に今度は荒れ地の女に、そういうわけで四兄弟の母親はそれぞれちがうのだ。
 兄弟として認め合ったのもここ数年のはなし、サラザルがそうだったように他の三人だって父親の顔をろくに覚えていないくせに、遺言だけは律儀に守ろうとする。だからサラザルは面白くないのだ。一番下という理由だけで兄たちはいつもサラザルをのけ者にする。
「国の名はどうしますか?」
「良い案がある。それぞれの名から取るのだ。そうすれば後世に俺たちの名が残る」
「……ああ。親父殿もきっと喜ぶ」
「では、そうしましょう。サラザル、あなたもいいですね?」
 ここでまた癇癪を起こしたところで、兄たちはサラザルを冷たい目で見るだけだ。軽蔑、侮辱、同情。そんなものは要らない。兄たちの制止を振りきってサラザルは外に飛び出した。そうしてここにはもう二度と戻らずに、北にサラザルの国が出来て他の兄弟が訪ねてきたときだってサラザルは追い返した。






 東の居館にはいまは使われていない見張り塔がある。
 ご丁寧にいつも鍵が掛かっているのは、悪戯好きの子どもたちが忍び込まないようにするためだ。そこからすこし離れた小屋には老夫婦がいる。王族の守り役を務めた二人、こんなところに住んでいるのはただの老人と偽っているからで、けれども二人を良く知っている者がときどきここを訪れる。
 エリスが小屋の扉をたたいたとき、老女はちょっと困った顔をして、老爺は黙ってエリスの手の平に鍵を乗せてくれた。二人ともエリスを幼い頃から知っているので、どういうときに彼女がここに来るのかもわかっているのだ。
 見張り塔を守るような衛生はいなかったものの、ちょうど巡邏じゅんらしていた騎士と出くわした。仕方がない。また出直そうとエリスは踵を返そうとしたが、往年の騎士はそのまま素通りして行った。王女はこんなところになんて来ていない。どうやら見逃してくれたようだ。
 東の塔は施錠しているせいか、いつきても埃っぽいし黴臭い。
 きちんと掃除をするべきだと叱責するつもりはない。皆、それぞれ時間に追われているし、エリスがここにいることを知られてはならないのだ。螺旋階段をゆっくりと上っていく。洋灯なんて持っていなくとも、ここには太陽の光がちゃんと届いている。それでもエリスは時間を掛けて行く。最初にこの塔を登ったときは降りられずにわんわん泣いたものだがそれももう随分前のはなし、やがて頂上にたどり着いたエリスは胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
 風が届けてくれるのは草原のにおいだ。
 亜麻色の馬に乗ってあの草原を駆けたのは、いつが最後だっただろう。暑い時期に咲く橙色の花は散って、落葉樹の葉の色も変わっている。風のにおいだってちがう。なんだか泣きたい気持ちになって、エリスは下唇に歯を立てる。ここには泣きに来たわけじゃない。でも、ずっと執務室と軍議室を行き来するだけのエリスは、もうじき秋がやって来るのをいまはじめて知った。
 間に合わなかったのだ。拳が震えるのを耐える。誰も見ていなくてもエリスは王女だ。弱いところなんて見せられない。見せてしまっては、ならない。
 涙が零れてしまわないようにと空を見あげた。澄んだ空を薄雲が流れてゆく。北風がエリスの長い金髪を攫うように巻きあげていく。美しい金髪は金糸雀色、香油をたっぷり使って何度も櫛を入れるあいだ、エリスはただじっとしている。薔薇水で肌を整えて唇に薄い紅を差すときだっておなじ、まるで人形みたいだとエリスはいつも思う。
 意識して呼吸を繰り返して気持ちがすこしだけ落ち着いたら、次は城下を見おろしてみる。城門では欠伸を噛み殺している騎士がいる。ときどき、子どもたちが寄ってきては騎士に悪戯をする。若い騎士は怒ったりせずに、ポケットから牛酪バターを固めた飴を取り出して子どもらに分ける。あの子どもたちも大きくなったら若者とおなじ騎士になるのだろう。そう思うと胸の奥がすこし苦しくなる。あの子たちの未来を変えてしまうのは、私。エリスは口のなかでつぶやいた。
「姉上」
 うしろから少年の声がした。エリスはすぐに振り返らない。たぶん、彼はもっと前にここにいて、エリスに時間を与えてくれた。一人になりたいときに、エリスはこの見張り塔へとやって来る。知っているのは小屋に住む老夫婦と彼の三人だけだ。
「今日は風が強い。いつまでもここにいては」
「そうね。またあなたが熱を出したら大変だものね」
 弟ならば、もっとエリスをそっとしておいてくれたらいいのに。エリスの揶揄に彼はちょっと困ったような顔をする。良く似た面立ちだった。髪はエリスとおなじ金糸雀色、瞳の色も草原のような澄んだ色をしている。背丈だってエリスとほとんど変わらずに、それでもきっと二年もすればエリスを追い越してしまうだろう。
「いつの話をしているのですか。私はもう十七です」
「ええ。私の四つ下の」
 エリスはくすくすと笑う。そう、まだ弟は子どもなのだ。西の大国ラ・ガーディアでは成人は二十歳を越えてやっと大人だと見做される。いや、西の全域と言ってしまってはやや乱暴かもしれない。南のフォルネとこのウルーグ、しかしそれより北のイスカやサラザールでは成人の歳はもっと前だ。おなじ西の国なのに理も文化も風土もまるで異なるのは、それぞれの始祖が兄弟なのに別たれてしまったから。ここはウルが作った国、ウルーグを継ぐのは王女であるエリスだ。
「宰相が呼んでいます。他の将軍たちも……皆あなたを探していましたよ」
「ちょっとだけ、逃げ出すくらいの時間もくれないの?」
 軍議はもうはじまっている時間だったが、エリスは軍服ではなかった。ドレスを纏う気分でもなかったので、近くにいた侍女の服を借りてきた。長い金髪は無造作に巻きあげているから、顔をよく見なければエリスとは気づかれない。だからここまで抜け出して来られたというのに。
「訓練場に行けばよかったわね。弓の稽古なんてひさしぶりだもの。見逃してもらえたでしょうね」
「騎士団長にすぐ見つかるだけです。だいだい、稽古を嫌がって逃げ出したのは姉上でしょう?」
「だって、弓はあなたの方が上手いもの。やる気なんてどこかに行ってしまうわ」
「オーエンは姉上に甘いですから……でも小一時間だけですよ。見逃してもらえるなんて」
 弟は姉の前でも他人行儀な物言いをする。でも、すこしずつ昔の弟に戻ってきた。
「ちがうわよ。オーエンがお気に入りなのはあなたの方よ、エディ」
「人聞きが悪い。でも、彼もちゃんとわかっています。姉上はもう……」
「言わないで。そんなもの、言いわけに過ぎないわ」
 五つになる前には乗馬を習い、剣を持った。ウルーグは弓の名手が多いことから、同時に弓術も教え込まれる。午前中は騎士団長が付きっきりで、午餐が終われば次は勉学の時間がはじまる。専属の教師がそれぞれいて、そのなかでもエリスが一番嫌いだったのは音楽の教師だった。
 何度も逃げ出しては叱られた。弟は辛抱強いたちだから一度も教師に逆らったりしなかった。それも癪だったのだ。でも、エリスには逃げ場がない。
 乗馬も剣術も弓術も、勉学も王女としてのたしなみもある程度は身についた。もうエリスが教師たちから教わることはない。これから学ばなくてはならないのはもっと堅苦しくて息の詰まる政治の話ばかりだ。
 王とはそういう生きものなのだ。
 エリスよりも先に玉座に着いた王がそう言っていたのを覚えている。四兄弟の長兄フォルの末裔だ。フォルネと呼ばれるその国はエリスのウルーグよりも南に、それからここより北の大地にも王がいる。イスカルの末裔で獅子王と名高い王、ウルーグはこの二国に挟まれた国である。エリスは十日前に隣国の二人の王に手紙を認めたが返事は未だなかった。兄弟の絆など時間の流れとともに消えてしまったのだろうか。
「戦況を伝えなさい」
 王女の顔でエリスは言った。弟のエディがここに来た理由は二つ、姉を捜しに来たのとそれから軍議の前に伝えるべき報告があったからだ。
「壊滅しました。救援は……間に合いませんでした。私の力不足です」
「いいえ」
 想定内だったとはいえ、わずかな望みも絶たれてしまったいま、彼の謝罪など何の意味もない。
「いいえ。もとより力不足だったのです。イスカは強い。国境付近に兵を増やすのを怠った……これは私の責任です」
「姉上」
「それでも、信じていたかった。フォルネもイスカも。私たちの兄弟ですもの」
「イスカはともかく、フォルネをあまり信用すべきではありません」
「甘いと、そう言いたいのでしょう? あなたは」
 どうせ軍議室でもおなじことを言われる。鳩首する重臣たちは唾を飛ばし合い、実際に戦場に立つ将軍たちはそのうち喧嘩をはじめる。宰相は沈黙を守るだけで、誰もエリスの声などきこうとしない。そう、彼らにとってイスカは敵なのだ。
「行きます。……遅刻した理由、あなたならどう言いわけする?」
「正直に答えます」
 面白くない応えを返すものだ。でも、それでいい。エリスは弟の真面目な顔を見て、ちょっと笑った。



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