四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

親子の誓い、兄弟の誓い

 晴天の日が三日もつづいた。
 溜まっていた洗濯物が一気に片付くと母親たちは喜んでいたものの、それが数日となればなにか良くないことの前触れではないかと人々は不安がる。サラザールはそういう国だ。
 西から東まで街を歩いていれば、白い長衣を着た集団に何度か出会った。東の聖王国イレスダート。ヴァルハルワ教会の教皇、並びに名だたる枢機卿などが居住するムスタール公国には教徒たちが聖地と崇める大聖堂がある。すなわちヴァルハルワ教徒がもっとも多い国がムスタールで、しかしこのサラザールもかの公国に次ぐ教徒の多さで知られていた。
 まあ、たしかに神様にでも祈りたくはなるよな。
 サラザールはもうずいぶんと前からひどい状況だった。父親の父親、いや祖父の代よりももっと前からそうだったのかもしれない。華美な暮らしを好んだ王族たちはサラザールの民の生活など顧みずに、上流貴族から下流貴族まで貢賦に務めてきた。もちろん、中流家庭や貧困に喘ぐ者たちも一緒だ。
 それがようやく解放された。
 たのしそうにお喋りをする若い娘たちは露天商を見て回るのだろう。広場では長らく禁じられていた市場が開かれているようで、そこに群がる人の多さにちょっとのぞいてみる気にもなれない。午餐のあとの散歩をたのしむ老爺たちも、元気いっぱいに外を駆け回る子どもたちも、巡回する騎士の目に怯える必要もなくなった。酒場も遅くまで開いているので、酔っぱらいたちが家にたどり着くなり妻女にこっぴどく叱られている。
 貧困窟からは子どもの姿が減ったような気もする。金と暴力と裏切りと、そういったものが日常だった世界がすこしずつ変わろうとしているのだろうか。良い傾向だと、たしかにそう思う。あんなところで生きた子どもは真面な大人になんてなれやしないのだから。
 特に目的もないままに隅から隅まで街を彷徨ったところで、腹の虫がぐうと鳴った。そういえば今日はまだなにも食べていないことを思い出す。着古した外套のポケットには銀貨が一枚と銅貨が三枚、手の平でじゃらじゃらやりながらひもじい思いばかりだった子どもの時分を回顧しかけて、デューイは露天商へと声を掛ける。なんと銅貨二枚のところを今日は一枚でいいらしい。サラザールが自由になったおかげか、ずいぶんと気前がいいなあ。そんな風に思ったデューイは一口食べてみて納得した。なるほど、金を払ったのが馬鹿らしくなるくらいに不味かった。
 固くて酸っぱい黒パンに挟まっているレタスとチーズ、申し訳程度に味付けられたのは塩だけ、よく見ると黒パンにはうっすら黴が生えている。とはいえ、銅貨一枚を払ってしまったのだ。味は二の次、まずは腹を満たすことに専念したところで、上からサンドイッチを奪われた。
「おっ、上手そうなもん食べてるな」
 おい、やめろ。食べられる前に止めようとして遅かった。ガゼルはそのでかい口で半分を囓った。しばらく咀嚼して、それからじろっとデューイを見る。いやいや、あんたが勝手に食べたんだ。
「国を作り替えるなら、まずは食からどうにかしてくれ」
「そいつは俺の専門外だが、まあ気には留めておく」
 サンドイッチを突き返されたデューイは残りをちゃんと胃の腑に収めた。たとえそれが腐っていても残さず食べる。そうして生きてきたからこそ、デューイはこんな国でも子どもから大人へと成長できた。
 それにしてもいまや国の中心人物だというのに、どうしてこんなところを彷徨いているのか。ガゼルみたいな大男と並んで歩くのはちょっと恥ずかしい。ちゃんとした大人になったはずなのに、自分がまだ子どもみたいに見えるからだ。
「怪我はもう良いみたいだな」
 解放軍と王国軍の戦いのあと、デューイは医療室に七日間閉じ込められた。
 最初の二日はオリシスの少女とイレスダートの王女が交代で看てくれたらしく、けれど意識のなかったデューイはあんまり覚えていない。四日目以降に顔を見せに来たのはレナードとノエル、それにアステアだ。他にも誰か来てくれたような気がするものの、アストレアの騎士二人が王女の傍付きに怒られていたことしか記憶になかった。そういえば、シャルロットとレオナには礼を伝えたけれど、ルテキアには言っていなかった。物言いはちょっとばかりきつくとも、王女の傍付きはあれでやさしいところがあるのだ。
 あんたは見舞いに来なかったけどな。デューイは口のなかで言う。恨み言を吐くつもりはなかったのは、ガゼルはもうデューイの《《父親》》ではなかったからだ。
「ブレイヴたちは明日ここを経つそうだ」
 たしかにアストレアの公子がいつまでもサラザールに長居する理由もなく、そもそも彼らの目的はここじゃない。一度ウルーグへと戻り、旅支度を十分に調えてからあの険しいモンタネール山脈に挑むのだろう。その先はグラン王国だ。
 すでに別れの挨拶は済ませたあとらしい。それをわざわざ伝えに来るということはお節介のはじまりだ。
「お前はいいのか?」
「前金はきっちり貰ってるし、別れの挨拶なんて俺らしくないからな」
「そうじゃない。お前は大事なことを忘れている」
 ガゼルに目顔で誘導されて、そこではじめて気がついた。いつのまに来ていたのだろう。オリシスの少女がガゼルのうしろからひょっこり顔をのぞかせた。
「お嬢ちゃんがはなしがあるそうだ」
 デューイは頭に巻いたカーチフがずれるのもお構いなしに頭を掻く。あのとき、自分は死んだ。身体を引き摺りながら仲間のところに行ったとしても、とても助からないそんな傷だった。空から降ってくる雫。鈴を鳴らしたような可憐な声。天使が迎えに来てくれたのだと、デューイはそう思った。夢でも幻想でもなく、あのときデューイを死の淵から引き戻してくれたのはシャルロットだ。
「すっかり世話になっちまったな。そうだ、なにか買ってやろうか? 露天商も再開してめずらしいものが見つかるかもしれない」
「……そんなの、いい」
 少女はかぶりを振る。痛みを堪えるときのように唇を引き結んで、それから首から提げた琥珀《オパール》の飾りを握りしめている。デューイもおなじ首飾りを持っている。年季が入っているせいか金具が緩んでよく外れていたところ、アステアが直してくれた。魔道士の少年は手先が器用らしい。
「じゃあ、なんか食べにでも行くか?」
 ついさっき不味いサンドイッチを食べたばかりだが、あんなものは腹の足しにもならなかった。
「いらない」
 もともとが食の細い少女だから、食べものに対しての興味も薄いのかもしれない。デューイは困ってしまう。自由都市サリタで最初に出会ったときもそうだった。食事を持って行ったはいいものの、少女は手を付けようともしなかった。孤児院にはいつも腹ぺこの子どもらがいて、そいつらの分を彼女に与えていたから余計に腹が立って説教をした。泣く少女を前に、ああこれは嫌われてしまったなあと、反省しつつもそれ以降はどうにも目が離せなくなった。自分とおなじ琥珀の首飾りを少女が付けていると知ったのも、単なる偶然だ。
「なんだよ。じゃあ、なにが欲しいんだよ」
「ほしいものを言ったら、くれるの?」
 そう返されるとは思わなかったので、デューイはまじろぐ。シャルロットの藍色の瞳がまっすぐデューイを捉えている。
「行かないでって、そう言ったら……、かなえてくれるの?」
「行くなって言われても、ここが俺の、」
「いっしょに、きて」
 なにを言っているのだろう。デューイは正直にそう思った。
 この少女はオリシスのアルウェン公の養女だ。イレスダートの聖騎士たちとともにあるのはいわゆる訳ありで、しかしオリシスの少女が帰るところは決まっている。そこにデューイの場所なんてない。
「私……、自分がほんとうは何なのかなんて、考えたことなかった」
 贖罪をするみたいに少女はぽつりぽつりと語り出す。
「母さまがサラザールから逃げてきたって、そう言ったときも他人事みたいに思ってた。オリシスは安全で、やっと母さまとふたりで暮らせるってそう信じてたの。知らない国なんてこわかったし、行きたいなんてそんな気持ちになれなかった」
「まあ、そうだよな……」
 急に居心地の悪さを感じてデューイはつぶやく。少女が王の落胤だとしても、彼女には関係がないのだ。ガゼルやリンデルの手前、誰も口に出さないが、シャルロットを玉座にと考える者も少なからずいただろう。そんなことにはならない。デューイはそう思う。この子はオリシスの少女だ。サラザールには関わりのない少女、あるべきところに戻るのが正解だ。
 それなのに、どうしてここで自分が出てくるのか。デューイは本当に困ってしまった。少女は感情を抑えきれないようで、涙が次から次へと零れている。
「話したいこと、話していないこと、たくさん……あるの。母さまのこと、オリシスのこと、他にもたくさん」
 きいてほしいのだと、そう言って少女は泣く。そのとき、肩を思いっきりたたかれた。ガゼルは力加減というものを知らない。
「よし、俺は決めたぞ。お前は勘当だ」
「はあ? なに言って」
「妹をこんなに泣かせるやつはな、家には入れん!」
 そう言われると弱い。デューイはこの少女を泣かせてばかりだった。もとよりガゼルはとっくに成人した息子にも、くどくど説教を垂れるような《《父親》》だ。
「行ってこい。そしてお嬢ちゃんを守ってやれ。ぜんぶ終わったら戻ってくればいいし、戻りたくなければ俺はそれでも構わん。いいな? 親父との約束だ」
「……勝手に決めつけんなっての」
 口答えしようとしてガゼルの太腕に捕まった。まったくこの《《親父》》は力加減を知らない。じゃれ合いのように見えたのか、シャルロットがくすくす笑っている。やっと、笑った。この笑顔を見るためなら、少女の願いを叶えてもいい。










 杯を持って声を交わす。それは、兄弟の誓い。
 ここに集えなかった兄弟を彼らはけっして忘れはしない。末弟サラザルはいつも遅れてやって来た。長兄フォルがサラザルに説教をして、あいだを取り持つのがウルの役目、イスカルはむっつりと兄弟たちのやり取りを見守っている。そうした逸話も、また新しいものへと塗り替えられていくのだろう。 
「ラ・ガーディアはひとつの国。我ら四兄弟は未来永劫守りつづけると、約束しよう」
 最初に口上を述べたのはフォルネの王、ルイナスだ。
「私たちは二度と違えません。ともに支え合い、守り合う。その誓いは親から子へと、子から孫へと受け継がれてゆくことを」
 美しいソプラノの声はウルーグの王女、エリンシア。次はイスカのスオウだ。
「我らは忘れない。過ちは一度限り、と。互いを尊重し、認め合い、そうして我らが兄弟が困難に立ち向かうときこそ、惜しみない力を貸すと」
「ああ。それこそ、いまがまさにそうだ」
 ルイナスがふたたび声を受け継いで締める。彼らは果実酒の入ったグラスを掲げて乾杯する。王たちを見守っていた者も、これでようやく安堵しただろう。しかし、ここに集いし者たちはけっして忘れない。兄弟同士の争いは止められず、ラ・ガーディアの大地に血が流れた。無辜の民の不安と悲しみはいかほどだっただろうか。推し量ることのできないその罪は、王たちをずっと縛り付ける。贖罪はこれからもつづく。己の未熟さ、弱さ、愚かさ。彼らはこれからも自国の民と向き合わなければならない。
「なによりもまずはサラザールだ。……ガゼルという男はなかなか面白いやつだな」
 ルイナスがくつくつ笑っている。書状を受け渡したエディは肩を竦めた。
「償いというなら、我らの末弟に関わるべきだな。されど、民にはもうすこし耐え忍んでもらうことになるが」
「それが私たちの役目です。この動乱で作られた傷は深い。途中で投げ出すわけにもいきません」
 そうだな、とシオンはエディに微笑む。母親さながらの顔を見せるシオンにエリスもくすっと笑う。
「なにを笑ってる? エリス、お前もそろそろ弟ばなれをするときがきたぞ」
 はじめは意味がよくわからなかったのだろう。きょとんとするエリスにシオンはにやっとする。
「まずは戴冠式からだが、そのあとは縁組みだ。お前の器量ならば不自由しないだろうが、女王に相応しい相手となると難儀しそうだな。そこで、エディ。お前の出番だ。お前も姉離れをしろよ」
 みるみるうちにエリスの頬は赤く染まり、それから流れ弾に当たったエディの眉間には深い皺が刻まれた。
「シオン様、お言葉ですが私は」
「様はいらん。私たちは兄弟の誓いを交わしたばかりだぞ?」
「し、シオン様! なにもかもが早すぎます! だ、だいたい我が父上はまだ存命ですし、結婚なんて私にはまだ……」
「ほう、いいのか? そんな悠長なことを言うと私のように行き遅れるぞ? なあ、スオウ」
 いきなり水を向けられたスオウも渋い顔をしている。一人勝手に果実酒のお代わりをたのしんでいたルイナスだけが関係ない表情をする。
「なにを他人事のようにきいている。ルイナス、そもそもお前が一番に嫁を貰わんでどうする?」
 姉、というよりも母親だ。会えば口煩い母親に子たちはとても太刀打ちできないとばかりにそれぞれ果実酒へと逃げた。彼らからすこし離れたところで皆まで見ていたブレイヴは、ついに限界を迎えて吹き出した。
「おや? 我らが友、聖騎士殿に笑われてしまったぞ」
 さっそくシオンに見つかってしまった。悪いと思いつつも、抑えきれずにブレイヴはまだ笑っている。
「そもそもお前だって他人事じゃないだろうに」
「まったくです」
「ええ、もう。ほんとうに。……いいですか? 三日後に花祭りがはじまります。七日間つづきますが、初日が肝心です。ちゃんと幼なじみを誘って来るのですよ? もう一人の幼なじみに負けてはなりません。夜になると丘の向こうでダンスがはじまります。輪のなかに入って、幼なじみの手を取るのです」
 ルイナスとエディには冷笑を浴びせられて、エリスには早口で捲し立てられた。 
 長らく居座っていた白の季節も終わりを迎えて、ウルーグの大地に青々とした緑が戻ってきた。草木は太陽を目指し、風とともに目覚めのうたを謳う。待ち遠しい時間が来る前に、人々は豊穣の願いを込めた祭りを行うという。王女エリンシアは花祭りの準備に追われて、忙しい日々を送っている。各国の要人を招いたのも、この日に合わせてのことだった。
 グラン王国への出立を遅らせたのは雪解けを待つだけではなく、兄弟たちの誓いを見届けたかったからだ。しかし、まさかそこに呼ばれるとは思わなかった。ラ・ガーディアの四兄弟、部外者である自分が同席しても良いものかと、悩んでいるところでルイナスに見つかり、スオウに腕を掴まれては逃げるのはもう不可能だった。
「そうだ。これを返さなければならない」
「いい。貸しといてやるから、お前は早くイレスダートを取り戻せ」
 突き返されたのはイスカの剣だ。シオンとスオウの友人だったシュロが使っていた剣、最初は扱いにくかったもののいまはブレイヴの手にしっくりきている。それにしても、イレスダートを奪還しろとはずいぶんと言葉が悪い。思わず苦笑で返したブレイヴにスオウが神妙な顔でつぶやく。
「されど、サラザールを裏から操っていた者たちの行方は知れないのだろう? イレスダートに戻ったのかあるいは」
「たしかに、奴らの狙いはわからん。ただサラザールを混乱させるためだけには見えなかったな」
 言ってルイナスはしばし思考に時間を置く。沈黙の間にブレイヴも頭のなかを整理する。ラ・ガーディアが欲しければ、他にいくらでもやり方はあったはずだ。少年王ミハイルは殺されたし、サラザールが解放されたいま、変調も特に見られずラ・ガーディアの諸国は落ち着いている。となれば、白の少年を含めた魔道士たちはすでにラ・ガーディアから消えたとみるべきだ。
「私たちのことは心配要りません。これからは、自分のことだけを考えて」
「旅の無事をお祈りいたします。そして、一刻も早くイレスダートに戻れるようによ」
「ありがとう。エリス、エディ。きみたちも、元気で」
 ウルーグの姉弟と順番に握手を交わす。その次にはルイナスの灰褐色の瞳が待っていた。
「すっかり巻き込まれたと、聖騎士殿はそう思っているかもしれないな。だが、我々は友への感謝はけっして忘れない」
 ルイナスと最初に会ったのは酒場だった。市井に紛れてルイと名乗っていた彼の本当の姿はどっちだろう。きっと、そのどちらでも友にはなれたとブレイヴは思う。
「イスカの戦士は友への恩義を忘れない。力が必要なときには申せ。友の窮地には必ず駆けつける」
 スオウとシオンを見て、ブレイヴは大きくうなずいた。心強い友ばかりだ。これは善意なんてものじゃない。以前、幼なじみの前でブレイヴはそう言った。ラ・ガーディアの動乱に関わったのは、自分がイレスダートへと戻るための恩を売っただけ、それはたしかに本音だった。でも、と。ブレイヴは思う。彼らはブレイヴの行いをぜんぶ見た上で、それでも友だと言ってくれる。
 いつか祖国へと帰るために望んだ力。彼らの声を素直に受け取り、必要とするときに頼るべきだ。ブレイヴはこのラ・ガーディアで過ごした半年を無駄であるとは思わない。


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