四章 ラ・ガーディア−四葉の国−

サラザール解放 2

 開かれた王の間にて、玉座のその人以外には他に誰の姿もなかった。
 城内では解放軍と王国軍の戦いがつづいている。リンデル将軍の救出は間に合っただろうか。解放軍を止めるのはガゼルしかいなかったが、反対に王国軍を止めるのもリンデル将軍だけだ。
 時間はそう多く残されていない。地下水脈を通って地上へと出る。待ち構えていたのは王国の騎士で、しかしガゼルに剣を向けたりはしなかった。急いでくださいと、騎士が言う。騎士はリンデル将軍の配下であり、ガゼルのことも知っていたようだ。
 城内へと侵入し、少年王ミハイルの元へと急ぐあいだに手向かってくる騎士の姿はほとんどいなかった。王を置いてとっくに逃げ出した王族たちに諸侯たち、他にも王を守護するはずの騎士が見当たらないのは妙だが、ミハイルが命じていたのかもしれない。まもなくサラザールは落ちる。少年王は最後まで抗うつもりか、それとも――。
 玉座の王は叛乱軍を認めても、身じろぎさえしなかった。
 一斉に突入したブレイヴたちは、しかし途中でその足を止める。なぜ、と。最初に声を落としたのはガゼルだった。
 少年の身体は玉座に縫い止められている。無数の氷の刃は少年から生を奪ってもなおも消えず、滴り落ちる血が生々しい。幻惑かなにかだろうか。首をもたげた不安はガゼルの呻き声によって消された。
 それは慟哭だった。ミハイルへと縋りつこうとしたガゼルを、麾下の二人が慌てて引き離した。解放軍古参の二人でも、こんなにも平静さを失ったガゼルを見るのははじめてだったのかもしれない。王殺し。それは解放軍の指導者として皆から望まれていたことだ。それでもと、ブレイヴは思う。ガゼルが求めていたのはたしかにサラザールの解放だったものの、ミハイルの死をガゼルは望んでなどいなかったし、王の間にて交わされるのは対話だったはずだ。
 なにが、起こったのだろうか。
 自身の身体に魔力を宿さないブレイヴは、他者の魔力の残滓を感じ取るなど不可能だ。この場に魔道士の少年、あるいは幼なじみがいれば王の他に《《誰が》》いたのかを見極められただろうか。老王の愛妾だった魔女と呼ばれる女、それから招かれた処刑人たち。考えられるのはそのくらいだが、王の傍らにいた彼女たちにそんな利点があったかどうか、ブレイヴは不審に思う。それに、いまはなによりガゼルだ。
 身体をくの字に曲げて子どものように泣いているガゼルに、掛ける言葉のひとつも見つからなかった。子どものいないガゼルだったが、デューイや他にも孤児の少年など、ガゼルを養父と慕う者をブレイヴは見てきた。親を亡くした子どもを見つめるガゼルの目はやさしく、そうした元凶にあるのがサラザール王家だと理解していたはずだ。それなのにガゼルはいま、まるで自分の子を亡くしたように泣いて悲しんでいる。
 騎士という生きものは王を裏切れない。そういう風にできているんだ。
 ガゼルの声が蘇る。老王の落胤の存在が明らかになったとき、解放軍のとある噂が持ちあがっていた。少年王を排除したあと、王家の血を引くその少女を玉座に据える。ガゼルはそのつもりでいるから王殺しを厭わないと、そんな声が届いてもガゼルは否定も肯定もしなかった。
 サラザールに来てからふた月とすこし、短いあいだでもガゼルという人間を見てきたブレイヴは反吐が出るような思いだった。ガゼルはシャルロットをミハイルの代わりになんかしないし、サラザールを解放したその先も考えていなかった。勝手に英雄に祭りあげられたのだとしたら同情を禁じ得ない。いや、それもちがうのかもしれない。確固たる信念があったからこそ、ガゼルはここまで来たのだ。
 城内ではまだ血が流れつづけている。王の死、それから解放軍の勝利をガゼルは自分の口で皆に伝えなければならない。戦いはもう終わりだ。
「赤い悪魔」
 解放軍の少年がつぶやいた。ブレイヴも振り返った。
「いつまでそうしている?」
 幼なじみの姿を認めてブレイヴはまじろぐ。ディアスにはレオナの救出を頼んだはずで、しかし幼なじみがここにいるのなら彼女たちは無事なのだろう。
「リンデル将軍が王国軍と解放軍に呼びかけている」
「それでもまだ、止まらないと?」
「ああ。ガゼルの声も必要だ」
 蹲って啜り泣くガゼルにディアスは視線を投げたものの、ガゼルにはこの声も届いていない。
「早い方がいい。怪我人が多すぎる」
「わかった」
 解放軍の少年と、顔に傷のある男がガゼルを立ちあがらせる。王の死骸にも、血で穢れた菫色の絨毯にも触れてはならない。すべてが終わったそのあとで、聖職者たちが穢れを落としてくれる。
「ディアス。お前は、見たか?」
「……いいや」
 皆まで問わなくとも幼なじみは意図を読み取っている。消えた魔女と処刑人。ブレイヴは白の少年と関連する人物を追ってここまで来た。オリシスのアルウェンを殺してイスカの戦士たちを屠った危険な者たち、脅威となる力の持ち主がここにいないのなら追うだけ無駄だろう。ただ、目撃者がいたかどうかは別だ。
「俺はお前たちのあとからここに来た」
 幼なじみはそれだけ言うとガゼルたちのあとを追った。ブレイヴもつづこうとして、しかし一度だけ振り返った。玉座で事切れている少年王の瞳は、最後に何を映していたのだろう。










 春の訪れにはまだすこし遠くとも、ひさしぶりの晴れ日だった。
 どの家の窓からも洗濯物がのぞいているからか、街中が石鹸に包まれているみたいだ。母親たちは水仕事をするのに忙しく、男たちは邪魔になるので家を追い出されている。子どもたちはこぞって外へと遊びに出掛けて、見守る老爺たちの目には涙が浮かんでいた。特別な光景ではないと、ブレイヴは思う。けれども、抑圧されつづけてきたサラザールの人々が望んでいたのは、こうしたちいさな幸せだったのかもしれない。
「俺は外させてもらう」
 それは想定内の声だった。集いし者たちはガゼルの性格をよく知っていたが、それでも落胆の表情は隠せなかった。声を潜めて囁き合っているのは内乱時に真っ先に逃げ出した官吏たちだ。片手をあげて制したのはリンデル将軍、捕縛されたのち処刑場へと引き摺られた将軍は疲れ切っていたものの、あれから七日が過ぎている。
 軍議室に並ぶ顔ぶれはそれぞれで、ここにはサラザール人ではない者も混じっていた。
 たとえばブレイヴがそうだ。なぜ、自分がここに呼ばれているのか。場違いだと訴えようとしたところでガゼルに捕まった。彼ももういつものガゼルに戻っている。あのとき見せた顔を知っているのは、ごくわずかな人間だけだ。
「言っただろう? 俺はミハイルに成り代わりたかったわけじゃない。解放軍なんてものを率いた時点で重罪だ。おまけに王殺しとまであっては、ここに居ちゃいけない人間なんだよ」
「ガゼル、でもそれは」
「俺は簒奪者だ。許されるような罪じゃない」
 眼鏡の細男もここに呼ばれている。ガゼルの側近として動いていた男は自分の素性を明かさなかったが、ガゼル同様に元々は王家に仕えていた人間なのだろう。ブレイヴはガゼルをじっと見つめる。簒奪者。たしかにそうかもしれない。解放軍と称してこの国で叛乱を起こしたガゼルはサラザールを奪ったともいえる。国を変えるために戦った英雄か、それとも彼の言うように簒奪者として後世に名を残すのか。いや、この国が生まれ変わるのはこれからだ。
「陛下を見捨てて逃げた者たちも戻ってきている」
 リンデル将軍だ。白々しくもここに顔を連ねている官吏たちは居心地がわるそうに視線を逸らした。
「王位継承権を持つ者は破棄すると訴えてきているが、どうするつもりだ?」
「捨てる意味なんてない。ただ、これまでとおなじ生活というわけにはいかないから、少々窮屈な思いをしてもらうことにはなるが」
 それを自分に決めさせるなとばかりに、ガゼルはリンデルを睨む。爵位を剥奪した上流貴族たちもいるものの、王族からそれを奪うのは間違っていると言いたいらしい。奢侈を極めていた王家の人間を憎む者もいるだろう。そのせいでサラザール民は重税に喘いできたのは事実であり、とはいえ王家の人間にはサラザルの血を残すという使命がある。少年王には子がいなければ他の兄弟もいなかった。
「断頭台に送れと言う声もあるようだが、それに関して首を縦に振れるほど俺は偉くないからな」
 ガゼルの麾下だった者たちも王国の騎士も、声をあげようとしてガゼルの目顔で諭された。
「ともかくだ。あとはお偉いさんたちで上手くやってくれ。俺はもう疲れた。残りの余生は好きにさせてもらう」
 軍議室を出ようとしたガゼルの前にリンデルが立ちはだかる。眼帯の大男と痩躯の将軍はしばしそのまま睨み合った。
「それは逃げるための口実か?」
「なんだって?」
 親子喧嘩でもはじまるなら止めなければならないが、そうしなかった。余生と言うにはさすがに早すぎる。ブレイヴもリンデルの声に賛成だ。
「そなたは自分のやっていることはただの復讐だと、そう言ったな。それならば、最後までやり通すのが筋であろう?」
「なに言ってる。……ミハイルはもう死んだだろうが」
「そうではない。陛下や他の王族たちではないのだ。そなたが復讐心を向けるべきなのは王ではなく、サラザールというこの国だ」
 官吏たちは二人に気圧されたのか黙りこくっている。ガゼルの麾下も王国の騎士もおなじく、ブレイヴは視線を感じて隣を見た。ここにはブレイヴの他にもサラザール人ではない人間がいて、ウルーグの鷹がその一人だった。殴り合いがはじまる前に止めた方が良い。目顔で訴えられてブレイヴは微笑する。
「サラザールは民の手に渡った。王政から離れて、しかし導く者がいなければ前よりももっと早くに崩壊しかねない。それを見捨てるというなら、たしかに無責任だな」
「おいおい、人聞きの悪いことを言わないでくれ。王がいなくとも上手くやっている国はあるだろ」
「カナーン地方のサリタを俺は見た。でも、あの街はすこし特殊だったから、参考になるかどうかわからない」
「聖騎士殿は存外薄情な人間なんだな」
 ガゼルの揶揄にもブレイヴは微笑みで返す。
「この国は赤子のようなものだと思う。それを放り出すというなら、それこそ白状者のすることじゃないのか?」
「そこのじいさんがいる。王のいない国に騎士なんて者は不要かもしれないが、それじゃあ皆が食いっぱぐれるからな」
 じいさんと呼ばれた本人は無言で首を横に振った。裏切り者。リンデルは少年王ミハイルにそう思われている。ミハイル亡きあと、身の潔白を明かしたところで汚名は後世まで残る。リンデルは分を弁えているからこそ、自身は裏からこの国を支えるつもりだ。ただし、リンデルという人は民の目にはどう映っているのだろうか。事実はどうであれ、最後までミハイルに仕えた騎士だ。王国側にいた人間がそこに残りこれからも関わることに、いくらかの不安を感じているのが本音だとブレイヴにはそう見える。
 だからこそ、ガゼルはそこに必要な人間だというのに早々に船をおりようとしている。これでは出航前に船は沈みかねない。
「白薔薇の君でしたら、どう言うのでしょうね?」
 皆の視線が金髪碧眼の少年へと向いた。
「まったく、油断のならない坊やだな。……誰にきいたんだ?」
 ウルーグの鷹――エディはちょっと小首を傾げてからブレイヴを見る。いきなり共犯扱いされてしまって、ブレイヴの笑みが引き攣った。
「きっとあなたを叱りつけたんじゃないかな? その人は」
「やめてくれ。今夜にでも枕元に現れそうだ」
 眼帯の大男でも亡霊といった存在はこわいらしく、ガゼルの麾下たちがくすくす笑っている。
「ともかく、あなたがいまでも奥方を愛しているのなら……、引き受けないという選択肢は出てきません。ガゼル、あなたは自分が叛乱軍という組織を作ったのはただの復讐心だとおっしゃいましたね? 奥方の存在が心から消えないからそこに至った。ですがサラザールという国が開放されたいま、白薔薇の君はまだあなたの心のなかにいるはずです」
「おいおい。話がおかしな方へと行ってないか? そんな哲学的なことを述べられても俺にはさっぱりわからん」
「それはあなたがちゃんと考えようとしていないからです。あるべきところへと考えを向けないからです。サラザールを壊したのはたしかにあなたです。壊したものをそのままにしておくのは、いただけませんね」
 拍手喝采が起こりそうな演説だったが、ガゼルからしてみれば年少者に頭ごなしに説教をされただけなのかもしれない。頭を掻きながらちいさく唸るガゼルをやさしい眼で見つめるのはリンデルだ。幼い子どもでもあるまい。目顔でそう諭されたガゼルは大きくため息を吐いた。 
「……だがよ、俺が舵を取る船なんてすぐ沈んじまうぞ」
「私は船を見たことはありませんが、そんなに簡単に沈むとは思えません。海を渡るような代物でしょう?」
「たしかにそうだが」
 ここにいる誰一人として船を見たことはないと、そう思ったがブレイヴは黙っておく。
「心配は要りません。姉――ウルーグのエリンシアはもちろんのこと、イスカのスオウもフォルネのルイナスもいます」
「ああ。手紙は読んだ。……ミハイルにも見せてやりたかったんだがな」
「遅くなんてありません。サラザールは、我らの兄弟国です」
 とうとう押し負けたと言ってしまえば、悪い言い方になってしまうかもしれない。固く閉ざされた城門は、はるばる訪ねてきたサラザルの兄弟たちを追い返した。それがいま、雪解けを待たずに開かれようとしている。


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