返事をしたのにもかかわらず相手は入ってこない。レナードやノエルならば律儀に待たないし、何より彼らは先発隊のクライドに同行している。ではエディだろうか。
エリスとはあの晩以来会っていない。王女は騎士団を動かす許可を出さずに、弟であるエディにすべてを託した。少年騎士らのなかから不満の声も出たらしく、しかし騎士団長オーエンが一喝した。王女の決断に異を唱えてはならない。騎士とはそういう生きものだ。
上着を羽織るとブレイヴは部屋を出た。待っていたのはディアスだった。
「ここを発つ前に頼みがある」
「断る」
にべもなく返されてブレイヴは苦笑する。
「まだ何も言ってない」
「お前の考えそうなことくらい、きく前からわかっている」
さすがは幼なじみだ。早々と白旗をあげるブレイヴにディアスは目も合わせてくれない。
「お前はここにレオナを置いていくと思っていた」
翼塔を出て中庭を通り過ぎて行くあいだも、擦れちがうのはウルーグの人間ばかりだ。招かれざる客とまではいかなくとも、ここでイレスダート人はやはり異端なのかもしれない。出て行ってもらえて安堵していると、そういう表情をしている。
「こっちの方が危険らしい。エディがそう言うのなら、従うべきだと思った」
「俺にはまだ子どもに見えるが」
「でも彼は、ウルーグの鷹だ」
エディはいまよりももっと子どもの時分に身内を殺した。悲痛な声でそう言ったのは姉であるエリスだ。
「こんな状況で王位を簒奪しようなどと考える者でもいるのか? イレスダートでもあるまいし」
ブレイヴは失笑しそうになった。ここが白の王宮だったなら、そう考えるとぞっとする。幼なじみは拘束されて、あらぬ疑いを掛けられただろう。
「ウルーグは大丈夫だ。過去の過ちを繰り返したりしない。だからこそ、騎士団は団結しているし、官吏たちの腹の内だっておなじだ。衷心からエリスに従っている」
そういう風にブレイヴの目には見える。
「なによりもこの国には王がいる」
「会ったのか?」
「いや……、エリスでさえもほとんど会えていない。最後に会ったのは半年前、そう言っていたよ」
父が病に倒れたのは五年前です。心労もあったのでしょう。伯父と父は、仲の良い兄弟でしたから。そう、ブレイヴに話したのはエディだった。
「ここはイレスダートじゃない。だから兄弟同士の争いだって起きる」
「イレスダートでは女の王は認められない」
「そうだな。この国では長子が娘でも後に生まれたのが息子でも、嫡子ははじめから決められている」
ウルーグの王子でもエディは軍議室で末席にいる。戴冠するのはエリンシア王女、そう誰もが認めている。
「弟ならば死んでも構わない。むしろ戻ってこない方がいい」
「ディアス」
幼なじみらしくない。いや、ディアスはあえてそう務めている。フォルネの王の前でもウルーグに来てからも、ブレイヴが冷静に物事を判断できるようにと、無思慮であるかのような発言をつづけている。ここにジークがいないせいだ。ブレイヴは口のなかでつぶやく。
騎士たちの居館が見えてきた。ここから連れて行く数は約二十人。騎士団を引退した者に、わけあっていまは所属していない者など正規の騎士団とは関わりない者ばかり、その上国境近くに待機させている騎士を含めても五十人には届かない少なすぎる数だ。ブレイヴはガレリア遠征を思い出す。あのときの方がまだ戦力は整っていた。
「本気で接触できると思っているのか?」
「シュロという男と会えなければ、本当にこの国で戦争がはじまる」
そう、鍵となるのはイスカの獅子王の右腕だ。ディアスの視線はブレイヴを見ていない。夢物語だ。幼なじみの横顔がブレイヴに告げている。
「アルウェンは、どこまで見えていたのだろう」
独り言みたいなつぶやきでもきこえていたらしい。ディアスが怪訝な表情をした。
「なぜオリシス公の名が出てくる」
ブレイヴは微笑で返す。
「ずっと考えていたことがある。たぶん、最初からすべてひとつの糸に繋がっていて、手繰っていけば真実にたどり着くような気がする」
「もっとわかりやすい言葉で言ってくれ。俺は魔法使いじゃない」
そうだろうか。ディアスならばわかってくれるような気がした。でも、上手く言えない。言ってはならない。それはブレイヴが騎士だからだ。
「王都マイアが気になる。白の王宮で何が起こっているのか」
ディアスがため息を吐いた。話があちこちに飛びすぎているせいだ。
「欲張りすぎるな。どうせ考えたところでどうにもならなければ、お前はそんな器用じゃない」
「ひどいな」
冗談にしては辛辣すぎる。それでもやっとディアスらしさが戻ってきた。
「イレスダートには王の盾がいる。お前とおなじ聖騎士が」
ブレイヴは王の剣でありながらもイレスダートではないところにいる。はたして、そんな聖騎士をまだ騎士だと呼べるのだろうか。益体のないことばかりをぐるぐると考えてしまう。
「イレスダートのことは忘れろ。どうせいまは戻れない。それに、あの人の考えなんて俺たちにはわからない」
《《あの人》》とは誰のことだろう。ブレイヴは知らないふりをつづけている。
特別な約束をしていなかったためか、彼の部屋は散らかっていた。
机上に積み重なった羊皮紙の山、脱ぎ散らかされた上着、王立図書館から借りてきた本は読みかけなのだろう。栞が挟まったまま、カウチに置かれている。足の踏み場がないとはいかなくともひどい散らかりようで、慌てて片付けようとする彼をヘルムートは制する。この様子ではしばらく休暇も取っていないように見える。白騎士団騎士団長フランツ・エルマン。彼の顔は見るからに疲れていた。
イレスダートの聖騎士、あるいは王の盾。
彼一人に重圧が掛かりすぎているのではないかと、ヘルムートは思う。彼には近しい存在がいて補佐は元より、彼の身の回りのことまで面倒を見ていた者がいる。いや、いたと言うべきかもしれない。彼とおなじく聖騎士であり、白騎士団所属していた副団長は見つからないままだ。
ちょうどその話をしていたところだった。フランツの扈従が入ってきた。
「ムスタール公にお目にかかれるなど、光栄です」
成人を迎えたばかりの少年だった。しかし、腰にはしっかりと剣を佩いている。なるほど、扈従ではなくこの少年も白騎士団のようだ。円卓に香茶と焼き菓子を並べたあともその場に控えようとする少年騎士に、フランツは目顔で退出を促す。何か他に言いたいことでもあったのだろうか。少年騎士はすこし躊躇ったものの、団長室から出て行った。
「あれは、カタリナと一緒にいました」
先の話題に戻ったのだと、気がつくのがやや遅れた。
「カタリナ・ローズは任務中だときいたが?」
「ええ。巡回する騎士のなかに自分を加えるようにと。伯爵令嬢と扈従、カタリナは自らが囮となり職務に努めていました」
若い娘ばかりを狙っていたのなら、誘き寄せる役目にはうってつけだ。あの少年騎士は従者としてカタリナとともにいたのだろう。
「最後にカタリナ・ローズを見た者は他にもいたな。その元老院は何と言っている?」
フランツがまじろいだ。よくご存じで、そういう顔をしている。
「消えたのはカタリナだけではない。王都を騒がせた
うなずきで返すフランツに、ヘルムートはつづける。
「兇徒を取り逃がしたのだと、元老院は君たちを激しく責めているそうだな。だが目撃者の一人を庇う理由がわからない」
「いえ、庇っているのではなく……、卿は病で伏せっているのです」
ヘルムートがカップを置く。香茶はすこし冷めていた。
「一緒にいた従者はそのまま逃げたようで行方が知れません」
「なるほど、主人を置いて逃亡するくらいだ。よほど恐ろしいものでも見たのだろうか」
ヘルムートは目顔でフランツにも香茶を勧める。
「……それで? 彼は何と言っている?」
「異形のものを見た、と」
白騎士団団長が堅物だというのは本当のようだ。公爵の誘いかけにも応じずに、彼はまったく動かず相好すら変えない。
「人間ではなかったと、そう繰り返しています。あれはまだ若いですが正直な人間です。たちの悪い冗談など口にしません。それに……」
沈黙でつづきを促せば、フランツは肩で息を吐いてから声を紡いだ。
「老人だったと言っています。あるいは、特別な魔力を持った魔道士」
「魔道士?」
「はじめに見たのは闇だったと、そう繰り返すのです。カタリナもそれを見たのだと。そして、闇から現れた老婆は手に持っていた。その心臓を喰らったのだと」
ヘルムートは眉を顰める。
「まるで獣だな」
「はい。魔性の獣……、にわかには信じられませんが」
床に伏した元老院、主人を見捨てた従者、《《それ》》を見た人間が起こす行動としては合点がいく。少年騎士が心を病まなかったのは使命感からだろうか、あるいか副団長を失った責任感からかもしれない。
「アナクレオン陛下はこの件に関しては?」
「直接は話せていませんが、おそらくは伝わっているかと……」
ヘルムートは残っていた香茶を飲み干した。
「つまり君も陛下に会えていないというわけだ」
フランツが気まずそうに視線を逸らす。彼はヘルムートがいつ王都に来たのかを知らないのだろう。ふた月が過ぎたいまでも、いまだに王に謁見は叶わないままだ。
「実は、陛下の体調が思わしくないのです。公務はすべて執務室で行っていますし、近習を遠ざけているとも言われています」
「他に陛下のご様子を知る者は?」
フランツが首を振る。現状を歯痒く思っているのはフランツもおなじだろう。これ以上彼を詰問するのは気の毒だ。ヘルムートは深く息を吐く。他にアナクレオンに近しい者といえば王妃マリアベル、急に公から姿を消したのは王妃が懐妊したという噂が流れている。そしてもう一人は。
「では、レオナ殿下は息災だろうか?」
驚き顔をあげたフランツはすぐに困惑した表情になった。
「あそこには、我々は近寄れませんので」
我ながら意地悪な質問をしたものだとヘルムートは思う。白の王宮の外れ、その離れの別塔には王家の末姫がいる。家族や他に近しい者といえば王女の幼なじみくらいで、その他の人間には禁じられた場所だ。フランツ・エルマンは謹直な人間で嘘が吐けないし、そうする理由がない。しかし、ヘルムートに甘言を囁いた者がいる。王女は白の王宮にはいない。消えた王女を
「……公は、いつ王都においでになりましたか?」
急な問いだったのでヘルムートは二拍を置いた。
「ふた月とすこしだな」
やはり、と彼の唇が動いた。
「公の耳に届いていない理由がわかりました。ムスタールからの使者は?」
「来ていない。危急の知らせがあればすぐ戻るとは伝えてある」
「ガレリアが落ちました」
フランツを見つめるヘルムートの目が険しくなった。
「あそこにはホルスト公子と炎天騎士団がいる」
「はい。急ぎ状況を確認すべく白騎士団を向かわせました」
「それは君の独断だな?」
フランツがうなずく。王はともかく、元老院が知っていたならばけっして許可はしていなかったはずだ。
「西の居住区で火災があったと、確認できたのはそれだけです。ルドラスの支配下に置かれたような様子は見られませんでした」
「君の麾下が偽りを口にしている可能性は」
「ありえません」
やっと笑みを見せたかと思えば、苦笑いだ。ヘルムートも微笑する。
「流言に惑わされてはならないが、
「はい。我が騎士団はそこで引きあげさせましたが、他をガレリアには常駐させています」
「ガレリアが陥落したならば、次の標的となるのはランツェスとムスタールだ。しかし、そのどちらも動いてはいない、か。不可解なことばかりだな」
ヘルムートは逡巡する。いますぐに王都を離れてムスタールに戻るように、暗に促されているのではないかと彼を疑った。先の意趣返しにしてはフランツがそんなに器用な人間には見えず、すぐに思考を止める。いま、ムスタールに戻るわけにはいかない。ここで話題に出してはいないが、オリシス公暗殺の報は事実だ。
「王の盾、か。君にばかり負担を押しつけてしまうな」
「いえ……、私もカタリナもイレスダートの聖騎士のですから」
ここにいないもう一人の聖騎士の名を、彼は最後まで声に出さなかった。