三章 微笑みと、約束と、笑顔と

ひとつだけの勇気があれば

 呼吸をもっと整えなければと、レオナは自分自身に言いきかせる。
 そう。もっと落ち着いて、こういう時こそ冷静でいなければならない。きっと、幼なじみならばそうする。
「たぶん、街のなかはイレスダートの騎士たちでいっぱいだ。それなら、逆にあんたはここにいた方が……って、おい! どこに行くんだよ」
 掴まれた腕をレオナは振りほどく。
「戻るの、ブレイヴのところに。はやく知らせないと」
「とっくに気がついてるんじゃないかな? イレスダートの聖騎士、なんだろ?」
「なんでも知っているのね、あなたは」
 揶揄を込めたレオナの声にデューイは肩をすくめる。
「いいや、知らない。何をやらかしただなんて知らないし、関係がない。でも……、サリタの奴らはそうじゃない。王都の騎士が公子を探してる理由なんて、どうだっていいんだ」
 じゃあ、どうして。レオナはそれ以上問わなかった。どんな声をされたところで、幼なじみに危険が迫っていることには変わりがない。デューイは事がもう起こっている前提で話をしているのだ。
 心臓が嫌な速さで動いている。だいじょうぶ。幼なじみには麾下《きか》のジークが傍にいるし、レナードやノエルも一緒だ。それにクライドがきっとブレイヴを導いてくれる。幼なじみを危険のない安全な場所へと。だから、大丈夫。レオナは口のなかで繰り返す。
 うしろでため息がしたような気がする。デューイにはレオナを止める理由がないから、きっともうこれ以上は言わない。
 ルテキアを呼びに行こう。レオナがキリルの眠る部屋へと戻ろうとした、そのときだった。
「デューイ! きてっ! ルロイが……!」
 年長の女の子が廊下の端から叫んでいる。みんなの姉さん役だから、どんなときだって泣かない女の子なのに、その声は必死だった。デューイは一度レオナを見たものの、すぐ行ってしまった。あとを追うレオナは、しかしルテキアに止められた。
「いまのうちに、ここを出ましょう」
「なに、を……」
 さっきまでの会話をぜんぶきいていたのだろうか。傍付きは緊張した顔つきでいる。他の子どもたちがマザーのところへと駆け込んできた。みんな泣いていたり混乱していたりと、ともかく取り乱している。子どもらをなだめながらマザーは聖堂へと向かう。子どもたちが喧嘩をしたとき、知らない大人がここに来たとき、子どもたちは大急ぎでマザーを呼びに来る。でも、いまはそうじゃない。
「さあ、早く」
 最後に部屋から出てきたのは魔道士の少年だった。この少年は聡い。なにが起こっているのかちゃんと理解しているから、そういう目顔でレオナを見ている。でも、と。レオナはつぶやく。幼なじみのところへ行きたいのはレオナだっておなじだ。それでも、子どもたちのあんな顔を見てしまったら、ルロイに何かあったのだと思うと、すぐには動けない。
「だめよ、行けない」
 たしかめても遅くはない。レオナは子どもたちが向かった方へと走る。台所では木苺のジャムの甘ずっぱいにおいが残っていた。おやつの時間は毎日ではないので、子どもたちはこの時間をずっとたのしみにしていた。明日はもっと美味しくなっていますよ。それまで、ほんのすこしの我慢です。マザーがやさしい笑みをする。子どもたちはみんな素直にうなずく。
 マザーと子どもたちが集まっていたのは聖堂だった。
 敬虔なヴァルハルワ教徒たちが旅の途中で寄る以外には、ほとんど使われていない場所に、いまは招かれざる客の姿がある。子どもたちが泣いている。マザーの背後に隠れる子、ちいさい子は縋りついている。年長の女の子は年下の子を庇うようにして、男の子たちは泣くのをぐっと堪えている。
 ルロイは。レオナは子どもたちのなかから栗毛の男の子を探す。まだ幼い少年はそのちいさな身体で大人に立ち向かっている。藍色の軍服が見える。王都マイアの騎士だ。胸元には証となる白き竜が描かれている。彼らは剣を佩いている。ここが、どんな場所であるのかわかっているのだろうか。
「子どもの戯言だよ。あんたたちみたいな王都の騎士サマが、そう目くじらを立てることないだろ?」
 デューイだ。普段と変わらない口調で騎士たちに言う。いけない。飛び出しかねないレオナを制したのはアステアだった。
「貴様は何だ?」
「俺ぇ? ここの関係者だよ。見てのとおり、ここは親のいない子どもばかりだ。俺は長男の代わりをやってる」
「ふざけるな!」
「べつにふざけてなんかないって。見ろ、あんたたちが怒鳴り散らすから、こいつらみんな怖がってる」
 しゃくりあげている子も嗚咽を堪えている子も、みんな怯えている。いきなり修道院に押しかけてきた騎士は五人。どの顔もまだ若くて、自信に満ち溢れている。
「たしかに、薄汚い女と子どもだらけだな」
 騎士たちが失笑する。いつのまにか作っていたレオナの拳が震えていた。彼らは名家の騎士だ。何の不自由もない裕福な家に生まれて、王都の士官学校へと行く。成人をすればそのまま騎士となり、国と民のために戦う。それが、彼らの矜持。いまここにいる子どもたちだって、おなじではないか。レオナはここの子どもたちをかわいそうだと思っていた。でも、そうじゃない。子どもたちは自分のことをけっしてかわいそうだなんて思ってはいないし、仲間も友達もいる。守るべき存在ではないのか。レオナは口のなかで言う。
「とにかく、あんたらの探しものはここにはないってこと。さあ、早いとこ出て行ってくれ」
 虫でも払うように、デューイは騎士たちに向けて手をひらひらさせる。気色ばむ騎士たちを止めるのは、彼らの上官だろうか。背は高いがひどく痩せていて、血色に乏しい頬をしている。
「そうはいかない。すべての部屋を検めさせてもらう」
「なんだって?」
「隠すものが何もなければ構わないだろう?」
「待ってくれ、ここには病人がいる」
 痩躯の騎士はデューイを押しのける。残りの騎士たちもそれにつづき、止めようものならば剣を抜きかねない勢いだ。その直後に動いたのはルロイだった。ちいさな身体で大人に体当たりをする。絶対に先には行かせない。騎士の足へとしがみついて、離さない。
「このガキが……っ!」
 痩躯の騎士がルロイの胸倉を掴む。怒りにまかせて拳を振るう。そのぎりぎりのところで耐えているが、これ以上の刺激は危険だ。
「な、なにするんだよっ!」
 ルロイは足をばたつかせて暴れる。悲鳴はすんでのところで止めた。だめです、レオナ。ルテキアの声がきこえる。泣きそうなくらいに必死な声だった。
「やめろ! そいつを離せ!」
 デューイは威嚇のつもりで拳を振りあげたが、しかしそれを攻撃だと見做したのか先に反撃が来た。女の子たちが一斉に叫ぶ。殴り飛ばされたデューイの身体は椅子を巻き込みながら倒れた。
「やめなさい! 聖イシュタニアの前ですよ!」
 ここは神聖なる場所だ。マザーの訴えは敬虔なヴァルハルワ教徒が相手だったならば、素直に退いただろう。レオナはかぶりを振る。やめて、と言う声は届かない。
 頬を張られたマザーは倒れ込んだ。マザーがいつも胸元にさげている銀の十字架の次に大事にしている眼鏡も割れてしまった。子どもたちがマザーの元へと駆け寄る。口の端から血を流しながら、デューイはマザーへと手を伸ばす。ルロイは喚きつづけている。レオナは震えが止まらなかった。おそろしいのではなく、いまある感情は怒りだった。
「はなせよっ、このやろう!」
 ルロイが痩躯の騎士から逃げ出した。思いっきり手を噛んでやったのだ。獣の形相を騎士はする。逃げてとレオナは言う。ルロイは騎士の拳をひらりと躱して、それからまだ起きられないデューイの元に行く。よせ、と。デューイの唇が動いていた。子どもはデューイが護身用に持っていた短刀を奪う。喉元に恐怖がせりあがってくる。でも、それよりも前にレオナの身体は動いていた。
 みんなの悲鳴がきこえた。痛みは遅れてやってきた。何の手加減もないままに思い切り殴りつけられた。呼吸をするたびに背中に激痛が走る。かろうじて涙は堪えたけれど、しばらく声は出せそうになかった。
「な、なんで……」
 レオナの腕のなかでルロイが震えている。
「なんで、おれなんか、かばって……」
 いいの、そんな顔をしなくて。だって、ちゃんとなかなおり、したでしょう? 笑みを作れていたかどうか自信はない。でも、ルロイが泣くことなんてないのだ。
「ごめん、ごめんね……、レオナ」
 ルロイはレオナの腕から抜け出して、謝罪を繰り返す。やさしくて、あったかい子どもの手だった。だいじょうぶだよ。泣かなくてもいいの。声はまだ出なかったけれど、せめて安心をさせたい。ルテキアがレオナの背中を擦ってくれる。傍付きの方が殴られたみたいな、そんな顔をしている。アステアがマザーとデューイを看ている。二人とも、怪我はないだろうか。呼吸に喘ぎながら、レオナは順番に皆を見回す。
「ちょ、ちょっと待って。いま、このガキ……、なんて?」
 一番若い騎士がつぶやいた。頬の雀斑が騎士を幼く見せている。
「レオナって、たしかに、そう言って、」
「なんだと……?」
 瞠目したのは痩躯の騎士だ。殴った相手の顔すらよく見ていなかったらしい。こんな人たちは騎士なんかじゃない。王女の顔も知らない相手が騎士なのだ。冷たい炎がレオナを支配してゆくのがわかる。痩躯の騎士はここの指揮官であるにもかかわらず、真っ先にその手を汚した。女子どもに手をあげた。ここが、聖イシュタニアの前だとわかっていながらも。
「まさか、王女が?」
「で、でも、殿下は行方不明って」
「やはり聖騎士と王女はともに……」
 残りの騎士たちが騒ぎ出す。皆の視線を感じる。デューイとマザー、それに子どもたち。ルロイはちいさくレオナを呼ぶ。レオナはそれには答えずに、一番若い雀斑の騎士を見た。
「だったら、何だと言うのです?」
 レオナを殴った痩躯の騎士よりも、雀斑の騎士の方が胴震いをさせている。まるで禁忌を犯したかのように。本当はヴァルハルワ教徒なのかもしれない。女神像の前では、争いも血も穢れたものとされている。それなのに彼らは騎士にあるまじき行いをした。傷つけた相手は聖王国の王女、彼らは禁に触れてしまっている。
「あ、あなたは、本当に……」
「あなた方のここでの行いは、不問に致しましょう。ですが、これ以上の行いは許しません。ここから早く出て行くのです」
 傍付きの手を借りずにレオナは自分で立ちあがった。痛みで吐き気がするのを意地で堪えながら、騎士たちを見る。痩躯の騎士が先に目を逸らした。
「王女の声に、従えないと?」
「貴女が王女である証がない」
 笑ってしまいそうになった。この痩躯の騎士はまだレオナを疑っているのだ。
「なら、身を持って知りたいのですか?」
 やめてくださいと声がする。ルテキアだ。レオナは光を作り出せるが、しかしここは聖堂だ。それに、子どもたちもいる。レオナはあえて皆を見なかった。これは虚勢だ。呼吸を落ち着かせて、レオナは心のなかで別の魔法を唱える。いま、必要なのは勇気だけ、みんなを守るための力は他にはない。
「お、お許しください……! どうか、どうか……っ」
 まず雀斑の騎士が膝を折った。他の騎士もそれにつづいて、地面に額を押しつける。レオナはにっこりと微笑んだ。
「迎えに来てくれたのでしょう? このわたしを。はやくこんなところから出たいわ」
「し、しかし、ここにはまだ……」
「こんな薄汚いところに、聖騎士がいるとでも?」
 さっきの言葉をそのままそっくり返してやった。痩躯の騎士はだんまりを決め込んでいたものの、他の騎士はレオナをそうだと認めているし、何を優先させるべきかわかっている。これでいいのだ。騎士の手を取って、レオナは歩き出す。ルテキアの目を見なかった。もの言いたげな表情のデューイも、マザーも彼女に付き添っているアステアも、子どもたちもぜんぶ無視して、レオナは騎士たちとともに行く。
「いやだよ、レオナ」
 ルロイの声がする。最初に出会ったとき、子どもはレオナを敵みたいに見ていた。あれはきっと強がりだったのだろう。ルロイにはキリルがいるから、たった一人の弟を守るために子どもはずっとそうしてきたのだ。いまのレオナもおなじ道を選ぶ。でも、そんな声で呼び止められたら、たったひとつの勇気の光が消えてしまいそうになる。
「行かないで、レオナ」
 そうじゃない。あるべきところに帰るだけなのだ。だから、悲しむ必要もないし、心が痛むこともない。
 これで、ようやく戻れるのだ。王都マイア、白の王宮のずっと奥にある離れの別塔、庭園の薔薇たちがレオナを迎えてくれる。アナクレオンも、兄もきっとわかってくれる。


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