三章 微笑みと、約束と、笑顔と

追う者と追われる者と

  銅色に染まっていた空の色が変わっている。
 ブレイヴたちは宵闇に紛れてサリタの北東部へとたどり着く。足を踏み入れたとき、ここがどういう場所なのか、ブレイヴはすぐに理解した。
 木造の家が隙間なく建てられている。どの家も嵐が来れば吹き飛んでしまいそうなくらいに傷んでいてぼろぼろだ。廃墟も同然の家から禿頭の男が出て来て、ブレイヴをちらと見たものの、そのままどこかへ行った。銅色の肌をした男が数人彷徨いている。船乗りなのだろうか。たくましい腕に娼婦が纏わりついている。先ほどからじろじろと視線を寄越してくるのは子どもたちだ。目を合わせてはならない。子どもらはそれぞれ獲物を隠し持っていて、こちらの隙さえ見つければ襲いかかってくる。母親たちの姿は近くに見えない。たぶん、あの娼婦たちのどれかだろう。
 ブレイヴは意識して呼吸を繰り返した。
 ここの住民はブレイヴたちが血のにおいをさせているのに、まるで無関心だ。薄ら笑いを浮かべながら通りすぎて行く者もいる。にいちゃん、何人殺した? 答えをきく前に男はもう消えている。つまり、この場所では暴力も殺人も日常なのだ。
 レナードもノエルもさっきからずっと黙りこくって、応急処置に努めている。彼らは騎士だ。こういうときにどうするべきなのかを、ちゃんと知っている。けれど、動揺しているのは明らかだ。聖王アナクレオンが治める王都マイアに、こんな場所は存在しない。物乞いや浮浪者は彷徨かないし、娼館の類も認められていない。子どもの乞食などもっての外、それは祖国アストレアでもおなじことが言える。ここはイレスダートじゃない。二人だってわかっているはずだ。王がいない国だからこそ、こんな吹き溜まりの場所が存在する。
 でも、それだけじゃない。
 ブレイヴはここに幼なじみがいなくて良かったと、改めてそう思った。たとえ王女が一緒でも、あの状況ならばクライドはきっとここを選んだし、戻れないと知っている。じゃあ、どうするというのだろう。とっくに傷の手当てを終えたレナードもノエルもやはり黙ったままでいる。何か訴えたいことでもあるのか、ずっとそういう目顔をしている。沈黙をこれほど疎ましく感じたのは、はじめてかもしれない。ブレイヴはもう一度、深く呼吸をする。
「あれは王都の正規の騎士か?」
「いや、ちがう。あれは白騎士団じゃない」
 ブレイヴは言い換えたが、クライドがきいているのはそれだ。
「彼らは白服を纏っているからすぐにわかる。それに……」
 相手が白騎士団だったならば、ここに逃げられてはいなかった。
「なるほど。相手は話も道理も通じない奴らというわけだ」
 ブレイヴはうなずく。サリタに押しかけてきた王都の騎士を率いているのは、あのランドルフだ。レナードの言い分はやはり正しかった。
「それで、あんたはこれからどうしたい?」
 こんなときに喧嘩でも売るつもりなのか。ブレイヴは顔をあげる。翠玉石エメラルド色の相貌はまったくの無感情だった。
「ランドルフは俺を殺したがっている。でも、ここじゃそうしない。王都マイアまでは大人しく連行される。俺は絶対に口を割らないし、彼女がここにいるという確証なんてないから、奴らはきっと見逃す」
 執拗に追ってくるところを見れば、オリシス公暗殺の報もすでに届いているのだろう。同時期にオリシスから消えた聖騎士が疑われるのは同然だし、なによりもブレイヴは上官だったランドルフに何も告げずにガレリアを脱出している。
「よほど因縁のある相手のようだな。よくそこまで嫌われたものだ」
 城塞都市ガレリア、そこで起こったすべてを話す気はない。
「だが、そいつの気が変わったらどうするつもりだ?」
「それならそれで好都合だ。処刑のあいだに、きみならレナードとノエルを連れて逃げられるし、サリタにも戻って来られる」
 説教をする人間はもういないから、好き勝手なことが言える。クライドは一呼吸を空けた。
「それが、あんたの本音なのか?」
 ブレイヴは微笑する。レナードもノエルも口を挟まなかった。失望したのなら勝手にすればいい。見限ってくれてもかまわない。一人になれたのなら、ブレイヴはジークを探しに行ける。クライドが嘆息する。自分からきいてきたくせに、本音じゃないと知っているからそれ以上はきかない。
「行くぞ。いつまでここにいるつもりだ?」
 冷静さを欠いているのはきみの方じゃないか。ブレイヴはクライドの背中に向けてつぶやく。ここに着いてからずっと見られているのも気のせいではなかった。貧しいものたちだからこそ、何も持たないものたちだからこそ、生き抜く術を知っている。クライドもそれに気がついているらしい。彼は警戒心を緩めないし、苛立っている。けれども、ここの住民たちが襲ってこないのは、確実に殺せる機会を狙っているからだ。嫌な感じだ。小虫が知らないあいだに蜘蛛の巣にかかったときのような、そんな薄気味悪さを感じる。 
 ブレイヴたちをずっと付けている男がいる。浅黒い肌の男で、顔や首などに複数の傷が見える。船乗りの仲間だろうか。それにしては顔色が悪くて痩せている。傷の男は一定の間隔を空けて追ってくる。どこまで付いてくるつもりなのか、レナードが何度も振り返っている。相手にするな。ブレイヴは騎士に目顔でそう言う。
 大衆食堂から男たちがぞろぞろと出てきた。長いあいだ入り浸っていたのか、ひどく酩酊している。絡まれると厄介だ。目を合わさないようにして、ブレイヴはそこを通り過ぎて行く。ところが、酔漢たちもが付いてくる。闇に紛れてこちらの顔はよく見えなかったはずでも、余所者が彷徨いているのが気に入らなかったのかもしれない。面倒なことになった。ブレイヴはクライドに追いつく。しかし、彼の足はもう止まっていた。
「やっぱりそうだ」
 前方から来たのは最初に会った禿頭の男だった。他に四、五人の仲間を連れていて、いずれも襤褸ぼろを纏っている。どの顔も薄ら笑いを浮かべていて醜い。そのうちの一人が禿頭の男に耳打ちをする。
「こいつは、イレスダートの聖騎士だ!」
 禿頭の男が大声で叫ぶ。なるほど、傷の男も酔漢たちもこいつが呼んだらしい。
「間違いねえんだろうなあ?」
 酩酊した一人が言う。
「ああ、間違っちゃいねえ。アストレアの公子は青髪で、ガキの騎士を二人連れてる」
「もう一人いるはずじゃなかったのか? 見当たらねえじゃないか」
「俺の知ったことじゃねえよ!」
 しつこく問われて禿頭の男が唾を飛ばした。傷の男が追いついてきた。こちらも仲間を三人連れている。
「いいじゃねえか。そいつらじゃなかったとしても、引き渡して金貨はもらう」
「ちがいねえや」
 下卑た笑い声を響かせながら、男たちは誰が一番多く金貨をもらえるか一人当たりの勘定を決めはじめた。ブレイヴは吐き気を覚えた。男たちには善も悪も関係がないのだ。とっくにこちらの顔は割れていたのなら、最初に疑うべきなのは宿の主人だろう。いや、もうそんなことは関係がない。たとえ別人であってもこいつらは躊躇いもなく殺す。そうだ。奴らがランドルフに渡すのは死体だ。
 どうする? ブレイヴの目顔にクライドはまたため息をする。構うな、無視して行く。しかし、周囲はもう男たちに取り囲まれていたし、そのうちの一人がノエルの肩を掴んだ。
「馴れ馴れしく触るな!」
 きっと普段のノエルならばこんな声をしなかった。ノエルは拳で男の頬を殴りつける。隣でにやついていた男の腹を蹴ったのはレナードだ。酔漢たちは派手に吹っ飛ばされて、起きあがるよりも先に嘔吐した。麦酒と豆の混じった吐物のえたにおいがする。男たちは一瞬怯んだものの、すぐに逆上した。
 殺せと命じたのは禿頭の男だ。つまりこの男がここのボスらしい。けれども禿頭の男が次に言葉を発することもなく、その首と身体はもう繋がっていなかった。斬ったのはクライドだった。
 突破する。彼の声に応じることができたのはブレイヴだけだ。間合いが取れずに短剣で戦うノエルをレナードが援護する。その弓矢は飾りかと男たちが笑う。置いてはいけない。二人を助けようとしたブレイヴの前に短躯の男が前を塞ぐ。奇声を発しながら雑草を刈るときに使うなたを振り回す。それを二回避けたときに、うしろから思い切り怒鳴られた。この馬鹿! クライドだ。たぶん、ジークがここにいたらおなじ声をする。
 短躯の男の死体を見て、それが少年だったのだとブレイヴは気がついた。
 まだ成人にも遠いような子どもは他にもいる。貧困窟に住まう子どもには道徳もなければ安全もない。殺さなければ殺されるし、他者から奪わなければ生きられないそんな世界だ。包丁を持った子どもが襲いかかってきた。その手は震えていた。人を殺したことがないのだろうか。灰褐色の目をブレイヴは見る。最後まで目を逸らさずに、ブレイヴは子どもを殺した。
 木製のつちで向かってくる者もいればのこぎりを引き摺っている者もいる。こんな者でも人は殺せるが騎士は殺せない。他者から奪ったなまくらな剣は、ブレイヴの剣を受けて簡単に折れた。
 ようやくレナードとノエルの元へとたどり着いたとき、二人は満身創痍もいいところだった。彼らは騎士だ。戦場で死ぬ覚悟はできているだろう。けれど、ここはイレスダートじゃない。もう、誰も失いたくはない。前方で戦っているクライドをブレイヴは見た。三人に囲まれていたが彼の強さはよく知っている。とはいえど、これがずっとつづくなら状況も変わってくる。どこから集めてきたのか、数は増える一方で、ここで時間を食っていればそのうちに王都の騎士たちも追いつくだろう。
 いつのまにか傷を負っていたのらしい。右腕を負傷していたことにブレイヴは気がつかなかった。出血のせいか、それとも呼吸が苦しいせいなのか、頭痛がする。レナードが苦戦している。ここの男たちの戦い方はめちゃくちゃで、拙劣な攻撃のせいで思わぬ怪我を負う羽目になる。不慣れな接近戦を強いられているノエルもおなじく、男たちは若い騎士二人に狙いを定めている。二人を援護できるほどの余裕がブレイヴにはない。誰かの声がする。幼なじみだろうか、それともここにはいないジークだったかもしれない。では、いよいよ覚悟をするときがきたようだ。
 ブレイヴの前に大男が立ち塞がる。大男は右腕を失っていたものの、血走った目でブレイヴを睨めつける。理解不能な言葉を口から吐くその姿はとっくに正気を失っているようも見えた。仕留め損ねたのはレナードか、それとも自分だったのか。どちらにしてももう遅い。ブレイヴが見たのは赤い色だった。ただし、己が流した血の色ではなかった。
「俺との約束も破るつもりなのか、お前は」
 きき覚えのある、しかしここにいるはずのない人の声がきこえた。


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