三章 微笑みと、約束と、笑顔と

ジーク・フリード

 ジークという名はもともと彼の本当の名前ではなかった。
 アストレアの鴉か、それともずっとアストレアを守ってきた老騎士か。アストレアの人々がその名をきいて思い浮かべるのは、おそらくは後者だ。
 彼も幼き頃からその名を耳にしている。フリード家は騎士の家系であり、老騎士は身体を病で患うまで戦いつづけてきた人だった。
 やれやれ、感冒ごときでこうも休むとは、面目次第もございませんな。身体は弱っていても口だけは達者なようで、老騎士は笑いながら言う。客人もおなじ笑みをする。隠居するにはまだ早い。私にはあなたが必要だ。まあ、それだけ元気があれば心配は無用と見える。
 二人の声はとても大きいので、部屋の外にまで十分に届く。客人はたびたび老騎士の部屋を訪れては葡萄酒や羊肉の燻製などの土産を置いていく。うつるといけないからと言う家人の声を無視して勝手に上がり込むから、彼はその客人がちょっと苦手だった。客人はフリード家の次男と彼を知っていて、でも普通の子どもとおなじ扱いをする。大きな手で撫でられるのは嫌いではなかったけれど、彼は客人がちょっとこわかったのだ。
 それでなくとも、彼はこの家で肩身の狭い思いをしている。
 少年には年の離れた兄がいて、成人するよりも前にアストレアの蒼天騎士団の一員になっていた。反対に彼は剣を持つよりも本を好む子どもだったので、稽古の時間が来れば姿を消す。書物庫はすぐ見つかってしまうので中庭に隠れたり、大台所で匿ってもらったり、最後は老騎士のところに駆け込む。老騎士は彼を叱ったりせずにカウチに座らせる。この部屋には本がたくさんあるから自由に読んでいい。しかしそのほとんどが軍略などの戦いに関するものばかり、子どもにはちっとも面白くない本だけれど、彼は時間も忘れて本に没頭していた。
 エーベルの家みたいに、フリードも軍師の家だったらよかったのに。幼い彼はつい口に出してしまって、けれども老騎士はやっぱり笑うだけだった。
 祖父も父も兄も、フリード家の者たちは誰もが認める立派な騎士だった。
 他人は彼を見て好きに物を言う。勝手に期待してそのあとには失望して、彼の気持ちなんてまるで無視だ。だから彼は大人の都合なんて関係なかったし、とうとう嫌になって家から飛び出した。少年が十三歳のときだ。
 彼は、少年の時分をあまり思い出したくはなかった。
 自由に旅をして気ままに生きる。そのつもりでアストレアを捨てたのに、イレスダートの外に出ることは叶わずに、理想と現実を否応がなしに突きつけられた。フリード家の次男坊は甘ちゃんだ。みんな彼を見てそう言った。でも、そのとおりだった。
 欲しかったものはなんだろう。彼は自分の右手を見つめる。子どもの手には見えないくらいに荒れているし、たくさん人を斬った手だ。
 固くて酸っぱい黒パンとピクルス漬けを囓っていると、傭兵たちの騒ぎ声がきこえてくる。麦酒と羊肉の串焼きで乾杯をして、誰が一番多く殺したかとそんな話ばかりをしている。くだらない。彼は傭兵たちからちょっと離れたところで寂しい食事を済ませる。麦酒だって羊肉だって、あれはどこかの家から強奪したものなのに、自分たちは勇者か英雄さながらの顔をする。
 俺はああはならない。でも、そのうちにおなじになる。傭兵たちには主君もいなければ大義もない。誰かのために生きるのではなく自分のためだけに生きている。そういうものに憧れていたのか、俺は。少年は自問自答する。答えは最初からわかっていた。
 国に戻ろう。決意したとして、そう簡単にはいかないことだって彼はもう知っていた。傭兵たちははぐれ者を拒まなくとも逆のときはおそろしい。誰もが好きでこんな仕事に行き着いたわけじゃない。彼に教えてくれたのは、本当の騎士だった。アドリアンと。名乗っただけで、騎士は家名を教えてはくれなかったし、どうして傭兵たちのなかにいるのかも秘密のまま、けれども騎士は彼をそこから逃してくれる。そうして騎士が死んだときいたのは、ずっとあとになってからだ。
 彼が祖国を飛び出してから三年、放恣ほうしな少年がアストレアに戻るには勇気が要った。
 父も母も流行病で亡くなっていたし、優秀な兄も戦場に行ったきりこの家には帰ってこなかった。一粒の涙も出なかったのは、自分が冷たい人間だからだと彼はそう思っている。許されるだろうか。彼は家族の墓の前で問う。亡霊のような少年を気味悪がって誰も近づかずに、フリードの跡取りが帰ってきたのに親類たちもとっくに彼を見放していた。きっと、遅すぎたのだ。彼にはもう剣しかなかった。そんな彼を迎えに来てくれたのは老騎士で、けれどもやっぱり彼を叱ったりはしなかった。
 まだ生きていたのか。いきなり悪たれをたたく彼に老騎士は笑う。主君の許しを得ずに逝けるわけがない。そういうものなのかと、彼は問う。あの客人は老騎士を騎士としてではなく友として見ていた。変わった公爵だと、彼はそう思う。そういうものなのだと老騎士は言って、それからすこしして死んだ。
 ジークと。呼ぶ声がきこえる。
 この名前は祖父がくれたものだった。フリード家の次男は死んだものとされて、彼が老騎士の息子になってからの名前。本当の名前を知る者はほとんどいなくなった。でも、それでいい。ジークの主君が呼んでいる。公子の声に従わなかったのは、これがはじめてだ。
 騎士となりフリード家を継いだそのときから、ジークはずっとアストレア公爵家に剣を捧げてきた。小柄で幼さを残した少年の公子に出会ったのはいつだったか。ああ、たしか公子が十五歳になったばかりの頃だ。そんなことをふと思い出して、ジークは唇に笑みを乗せる。士官学校に在学中に戦場へと駆り出された見習い騎士、側近として傍で控えたものならば煙たがられたのも、良い思い出といえばそうなのかもしれない。公子は若く、光と希望に満ち溢れていた。けれども、ジークは主君の挫折も弱さもぜんぶ見ている。おなじだけの時間を重ねるほど信頼も生まれて行く。だから、ジークはいまでもブレイヴに光を見る。未来を託そうと、そう思える。己が主君の傍にいることが、叶わなくなったとしても。
「いたぞ! あそこだ!」
 新たな増援が現れた。ジークは大きく息を吸い込んだ。路地裏は身動きが取りにくいが敵を討つには最適の場所と言えるだろう。しかし、限界はある。なにしろこちらはたった一人だ。弓や魔法の使い手が現れるとも限らないし、敵は次から次へと追いついてくる。
 あと、どれくらい殺せばいい。
 何人を斬ったか、ジークは途中で数えるのを止めた。この先、百人が押し寄せようともけっしてここから先へと通すわけにはいかないからだ。
 こういうときの戦い方を教えてくれたのは傭兵たちだ。彼らは自分に得にならないものをとにかく嫌う。しんがりを務めるなんて馬鹿がやることだぜ。麦酒を呷って笑いながらもジークにそう言ったのも、自分たちがそれをやりたくないためだ。はぐれ者たちはいつだって本気で戦っていなかったし、不利となればもうとっくに逃げ出している。裏切りは日常で、敵のなかに昨日一緒に飲んだ奴の姿を見つけてもなんとも思わない。しかし、ジークはいま彼らに感謝をしている。
 利き手が重くなってきた。負傷した左腕を庇いながら戦っているせいだ。ジークに傷を負わせた少年騎士は殺したが、仲間たちがおそろしい形相で襲いかかってくる。まるで獣だ。ジークは口のなかで言う。大義名分を謳う騎士だって、戦場ではこうなる。ジークだってそうだ。
 死ぬなという声がする。
 ああ、この声は老騎士とジークを逃がしてくれた騎士だ。二人ならばどう戦うだろうか。きっとジークとおなじ選択をする。そうだ。祖父とアドリアンがジークを騎士にしてくれた。だからいま、ジークは主君を守ることができる。
「アストレアの鴉だ! 聖騎士はこの先にいるぞ!」
 逃げることは不可能だ。でも、わずかな時間でも足止めできればそれでいい。ジークは悟った。きっと、自分はこの日のために騎士になったのだろう。
 息が苦しい。血のにおいで鼻が麻痺している。呼吸を整えるそのあいだに次の攻撃がくる。怒号がつづく。終わりは見えない。悪態をつく相手もいない。傭兵たちという集団、それからアストレアの騎士団。ジークはいつも一人ではなかった。一人を望んでいたはずなのに、孤独というものがおそろしかったのかもしれない。一人で戦っていて、はじめてそれに気がついた。
 いいや、そうじゃない。ジークの剣が騎士の胸を貫いた。藍色の軍服に白き竜の胸章が見える。これが王都の騎士の誇り、騎士たちは己の正義と矜持のために戦っている。折れることはない。ジークとておなじ。
 青髪の青年騎士がジークに向かってきた。公子と良く似た色の目をしている。躊躇いもなくジークは青年騎士を斬った。どれだけ仲間を殺されようとも敵は怯まずに襲ってくる。ジークの目には赤が見える。自身が負った傷から流れる血と己が殺して浴びた敵の血と、それから白の街を染めゆく落日の色は、ただ美しかった。
 撃退をしながらもすこしずつ後退するジークの足が止まった。太腿には矢が刺さっていた。弓騎士が追いついたのだ。剣と弓の両方を防ぐのはさすがに無理だった。肩を射られて、ついにジークは片膝をつく。好機だ。叫んだ敵がジークへと突っ込んできた。
 あと、何人を殺せばいい? 一番多く殺した奴は一番良い寝所を譲ってもらえる。
 そうだ、帰ったら良い酒を奢ってもらおう。レナードはジークが怪我した肩を遠慮なくたたくし、ノエルはチーズを切り分けてくれる。酒を注いでくれるのはクライドで、ブレイヴはずっと苦笑している。遅れてきたレオナはジークの傷が癒えても体力が回復するまで心配するだろうし、幼なじみのルテキアは次の日までジークをちゃんと監視する。あの場所に、戻ろう。みんなの笑う声がきこえる。ジークもそこでみんなとおなじように笑っている。
  


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