一章 イレスダートの聖騎士

箱庭の姫君


 軍事会議が終わって七日が過ぎていた。
 城塞都市ガレリアはイレスダートの最前線であるため、そこへと行くとなれはさまざまな準備が伴う。武器や馬の調達に人員の確保はもちろんのこと、充分な糧食を得るのもそれなりに苦労する。商人たちはここぞとばかりに高値で売り付けようと必死になるので足下を見られてはならない。かといって、それなら他へと流れてしまえばそれはそれで困るので、交渉はなかなかに難儀するのだ。
 ブレイヴの祖国であるアストレア公国は王都マイアからどんなに馬を急がせても、十日以上はかかる。一旦そこへと戻ってから手配するとなれば時間の無駄となるためにブレイヴは王都に留まり、麾下きかの者たちとともにそれを急がせていた。そうして、ガレリアに出立する前日になってようやく一息つく時間が持てた。彼女との約束。それを果たせないまま王都をたつのは、あまりに惜しい。
「お茶のおかわりはいかが?」
 やわらかな笑みが降ってくる。
「あぁ。ありがとう」
 目が合えば、幼なじみの表情がよりやさしくなった。
 この日は明け方からあいにくの雨となっていた。小雨とはいえ、鈍色をした重たい雲が去る気配は見えずに、こうなれば室内でお茶をたのしむしかなくなる。午後の時間をゆっくりと庭園で過ごすのは彼女の一日の大事な時間のひとつだ。だからこそ、レオナは残念そうにため息を落とす。ブレイヴが慰める言葉をしても幼なじみはちょっと頬を膨らませて、なかなか機嫌が良くならなかった。
 マイアのこの時期に雨が降るのはめずらしいことではなく、寒さを伴い、しかし雨が去るたびにほんのすこし暖かくなり、それを繰り返しながら季節は移り替わっていく。太陽の時間が長くなればそれはイレスダートの夏のはじまり、とはいえそれにはまだまだ遠そうで冬の終わりが見えた頃、これから迎えるのはあたたかな緑と花の季節だ。ブレイヴは幼なじみの横顔を見る。唇は微笑みの形をしていて、彼女がどれほどこの日をたのしみにしていたのかがわかる。お喋りが止まらないのもその証拠、三日目に咲いた花は幼なじみのお気に入りで庭師に毎日尋ねたという。南の公国から取り寄せた本は流行りの恋愛小説のようで、幼なじみは夜の寝る前の時間にすこしずつページを捲るのがたのしいのだと笑んでいる。彼女の兄が贈ってくれた銀と紫水晶の腕輪は普段に使うのはちょっともったいないのだと言って、抽斗ひきだしに大事に仕舞ってあるのをこっそりと見せてくれた。つい先ほどは初物の茶葉の話を終えたばかりだ。
 話題が移るにつれて、おなじくらいに幼なじみの表情もころころと変わってゆく。ブレイヴは内心で密かに安堵していたのだがそれには理由がある。あの日、幼なじみと庭園で再会したときに、彼女は時間を止めるほどうつくしかった。 
 ブレイヴが知っているレオナはまだすこし子どもで、それから愛くるしい笑顔をよくする少女だ。背だって今よりもずっとちいさくて、それに娘らしい膨らみにしてもさして目立ってはいなかった。すらりと伸びた華奢な手足も丸みを帯びた肩や腰も大人の女性のそれであり、ブレイヴは視線に困ってしまう。三年という時は自分が考えていたよりもずっと長かったようだ。だから余計にそうなるのだろう。幼なじみのちょっとした仕草はやっぱりそのまま、それがブレイヴを安心させる。どの話にも笑みで返しているから、レオナはきっと気づかないだろう。 
 ブレイヴは陶器へと手を伸ばした。マイアの上質な茶葉はすこし癖が残るものの、疲れた身体を癒やしてくれる。焼きたてのクッキーとも相性がよく、美味しかった。形が不揃いなのはレオナ自身が焼いたからで、昔から幼なじみが手先がちょっと不器用だったことを、ブレイヴは思い出す。味には何一つ問題はないし見た目も指摘するほどは悪くはないのだが、こういうところが彼女らしい。
「ディアスも、一緒だったらよかったのだけれど」
 そして、話はもうひとりの幼なじみに触れる。
「そうだね」
 その気持ちはブレイヴもおなじだった。
 ブレイヴとレオナとディアスは、年が近い子どもたちということで幼い頃から仲が良く、三人が一緒に遊んだものだった。
 王家の姫君と臣下である公爵家の子。もちろん身分というこえられないものは存在する。けれどレオナは第三子であり、上二人の兄妹とは母親が異なるために、側室の子として目に見えぬ隔たりを受けて育ってきた。大人たちの目は幼なじみを礼遇し、あるいは嫌悪をそのままに乗せる。貴人の子が側女の生まれにあるのは稀ではないが王室であれば異質になるのかもしれない。他に兄弟のいないブレイヴには幼なじみの心を推し量ることはできなくとも、それでも寄り添うことはできる。そうやって、ブレイヴもディアスも、箱庭の姫君を想ってきた。
「でも、ブレイヴは元気そうでよかったわ。怪我も病気もしていないみたいだし、安心したの。ほら、手紙ではそう綴っていても、ほんとうのことはわからないでしょう?」
 レオナはちらっとこちらを見た。言葉に含みがあるのは気のせいだろうか。たしかに、幼なじみからの手紙は何度も受け取っていたから落ち着いた頃に返してはいた。事実と異なることは認したためていなかったが、レオナはちょっと怒っているようだ。ブレイヴは観念して笑うだけにする。せっかくの時間だから怒る顔よりも笑う顔の方が見ていたいのだ。
「レオナは変わったね」
「え? そうかしら?」
 レオナは瞬きを繰り返す。
「うん。すごく綺麗になっていたから、驚いた」
「えっ、あ、あの……」
 とっさに頬を両手で包み込む幼なじみは耳まで赤くなっていた。あの日は、本当に驚いていたから言えなかったことだ。
「もう、からかわないで」
 どうやら意地悪な顔をしていたようで、彼女はぷいと顔を背けた。
「あはは、ごめんごめん」
「もう、いじわるね」
 その言い方も昔とおんなじだった。ブレイヴはクッキーをひとつ口に運んで逃げることにする。甘さも控えめで焼き具合もちょうどいい。いまさらそれを褒めても逆効果だろう。もうひとつ取って今度は陶器に口付ける。本当に美味しい。気持ちがそのまま出ていたのか、レオナもそれ以上は怒ったりはしなかった。
 こんなにもゆっくりできたのは、ひさしぶりだった。
 ガレリア行きのための準備に追われているのもたしかで、しかしそれ以上に王都が、いや白の王宮が緊張に包まれているからだ。騎士たちの表情は重く、精巧な人形さながらに冷たい。貴人たちは苛立ちと不安と両方をのぞかせ、聖職者たちは神への祈りの声をつづける。元気があるのは商人と金貸しくらいだ。「そうだわ、兄上がすごく残念がっていたの」
「陛下が?」
「そう。あなたを夕食に誘ったのに、断られたって」
 ブレイヴは苦笑する。それは軍事が終わってすぐのことだった。
 それぞれが退出してゆくなかで要人たちはそのままの口吻こうふんをつづけていたし、他にもたくさんの騎士たちが残っていた。それなのに最初に席を立つべき王はまだそこにいて、他を置いてブレイヴへと声を掛けたのだった。視線が集まるのは当然で、彼らは会話のひとつも落とさぬようにと耳を澄ます。アナクレオンというひとは、そのような些事に囚われないからこそ、こちらがわけもなく緊張をする。まるで気の置けない友人と話すかのようにブレイヴを食事へと誘ったのだからなおさらだ。
 もしかしたら、ディアスはそれを見ていたのかもしれない。だからこその忠告だったのなら納得がいく。あれは、王がしてはならない行動だ。しかし妬心はすべてブレイヴへと向かう。ブレイヴにできたのはせいぜい慇懃に申し出を断るくらいだ。ガレリア行きは大仕事となるから嘘は口にしていないし、そうすることで王の矜持も傷つけてはいないはず、ただ注目の的となったのは事実であるけれども。 
「きっと、ゆっくりはなしたいことがあったのね」
 そうだと思う。他に誰の目のないところでアナクレオンはブレイヴに謝罪をしただろう。要人たちを納得させるには他の言葉などなかったのだ。ブレイヴはあれが正しい選択であるのを信じている。王が臣下に謝意を示してはならないのだ。
 幼なじみの視線は窓の外へと向かっていた。止む気配はない雨音は耳に心地よくとも、沈黙がつづけば後ろめたさをより感じる。ブレイヴは残っていたお茶を喉に流し込んだ。
「そうだね。陛下には申し訳ないことをしてしまった」
「いいのよ、兄上は強引なところがあるのだから」
 強引ね。ブレイヴは口のなかだけで言う。それはレオナも一緒だなんて返せばまた幼なじみの機嫌を損ねるかもしれない。幼なじみは落ち着かない所作でカップに触れている。 
「でも、ね……」
「でも?」
 ブレイヴが次の声を誘い出しても、レオナはうつむいたままだ。
「あなたが、ガレリアに行くなんて、どうして兄上は……」
 許してしまったのだろう、と。そこからのつづきはなかった。さびしそうな横顔には笑みはない。彼女は言葉を紡ごうとして、どれも間違っているかのように唇だけが動く。 
「陛下の考えは正しいよ。王都から他のふたりの聖騎士を動かすわけにはいかないんだ。白騎士団はマイアから離れるべきじゃない。だから、俺が行く」
「そんな……、そんなこと」
「レオナ」
 ブレイヴはもうすこし声音をやさしくする。やっと目と目が合った。それなのに、幼なじみは泣きそうなくらい傷ついた顔をしていた。
 心配してくれているのだ。それは痛いほどにわかる。ディアスもレオナといも。幼なじみはそろって心配性だ。アナクレオンを悪者にしたくて言っているわけではない。それでも口にせずにはいられなかったのは、二人がやさしすぎるからだ。
「大丈夫だよ、俺は」
 ブレイヴは笑顔を見せる。大丈夫だよ、と。魔法の言葉はいつだって彼女に安心を与えた。これからもずっと、それは変わらずにつづくだろう。
「わたし、毎日お祈りするわ。あなたが無事に帰ってこられますようにって」
 レオナは両手を組んで祈りの恰好をする。
「ありがとう、レオナ。心配しないで」
 ブレイヴは繰り返す。返ってきたのは偽りのない純真な笑顔だった。ブレイヴが昔から一番好きな、幼なじみの顔だ。
 
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