身体を起こそうとしても力が入らなかった。
 二回それを試してみて、動かないのだから観念する。そうしてまた深い眠りへと入ってしまっていたようだ。次に目を覚ました時にはもっと身体が重かった。
 朔耶は無理やりに上体を起こす。寝かされていたのは自分の部屋であった。ならばここは西殿だろう。朔耶はしばし額へと手を当てて、時間を思考へと使う。戦う間もなく吹き飛ばされたのだ。あれは呪術だった。そこまではいい。だが、何故ここにいる?
 騒がしさが耳に届いて朔耶は部屋を後にする。するとすぐに声は聞こえてきた。
「朔耶?」
 確かめるように言った皐月の顔には何かしらの不安が滲み出ている。
 何から問うべきか。頭はすんなりとは働かない。そもそも、皐月はどこまでを知っているのか。
「来て」
 皐月は朔耶の腕を取った。半ば引き摺られるようにして、朔耶は歩かされる。そこでようやく気が付いた。身体のどこにも傷らしきものはないし、痛みもなければ、ちゃんと歩けるのだ。目覚めたばかりの倦怠感を除けば、さほど体調も悪くはない。
 皐月が何処へと向かっているのかは分からなかったが、訊ける雰囲気でもなかったので朔耶は黙って後に付いて行くしかなかった。
 渡殿を慌ただしく行き交うのは月草に月華門に。月影殺しの疑いを掛けられ投獄された朔耶だ。そこから脱獄したというのに誰も朔耶を捕えようとはしない。むしろ、その顔を見る余裕もない様子である。
 皐月はこれを知っているのか、それとも。
 どちらにしても無実の罪だ。わざわざ口にするまでもない。
 東殿の庭にはどこから集めたのか分からないほどの月人の姿で溢れ返っている。いつぞやの剣舞の会とは比較にならないほどの数だ。
「大変なことになっているの。色々と」
 朔耶は皐月の目を追う。
 泣いている小童をあやしている母親に、不安そうな色を面に貼り付けている老爺に、身を寄せ合って震えている女人達に、激しい口調で月草達に詰め寄っているのは貴人。月人の身分に関係がなく、ここには集まっている。
「なにが、起こっている?」
 朔耶は問うた。頭で考えているよりも、訊く方が早い。
「月鬼だ」
 返ってきた声は皐月ではない。望月だった。
「月鬼?」
「そうだ。北殿の奥から奴らは出てくる。おかげで都中が混乱している」
 出てくる、ということはつまり見えるということだ。奴らが月人に憑りついてから騒ぎになるのではない。見えるのだからもっと恐ろしい。
 そして、北殿の奥には開かずの扉がある。いや、あったというべきだ。あれはすでに開いていた。だから朔耶は――。
「お前を見つけたのは上弦だ。礼を伝えるべきだな」
 朔耶は顎を引く。だがそれは後だ。為すべきことは他にある。
「月鬼はあの扉の奥から出てくる。だからあれを封じない限りはおそらく意味はない。けれどそれには黄金キンの眸が、」
夕映ユエ姫か」
 話が早い。流石は相棒だ。
「ああ。しかし姫様は行方不明、だとすれば……」
「では、その中にいるのだな」
「だと思う。誰かがそこへと連れて行った。それは、」
 敵であると言い掛けて、朔耶は口の中に押し戻した。敵か味方か。朔耶の追うべき者は、それではない。
「待って。どういうことなの? 私にも分かるように話して。それに、十六夜様が何処にもいないの。月影様だけじゃない。長月様も亡くなられて、爽麻ソウマ様も霜月様も姿が見えなくて……」
 困惑した皐月の後ろに、他の月華門、月草達が集まって来ていた。皆それぞれの表情が暗く重いもので、不安が直に伝わってくる。
「彼らが、何かしら関わっているには間違いないだろう」
 望月は冷淡に言う。朔耶は息を吐いた。
 落ち着くべきだ。こういう時だからこそ。望月までとはいかなくても、そうあるべきだ。
「何よりも月鬼をどうにかするのが先だ。ここに呪術を得意とする者はいるか?」
 朔耶は視線を流したが、コトゴトく逸らされた。一端の月草はともかく、月華門の中にもいないのは想定外。しかし――。
「私が」
 名乗り出た人物に朔耶は正直驚いていた。浅黒い体躯は月草達を押しのけるようにして前へと進み出る。残月。朔耶の上司だった月華門だ。
 朔耶は一瞬、声を失くしていたが持ち直した。呪術を扱えるのは以外ではあっても、顔見知りならば頼みやすい。
「結界を作ってほしい」
「結界?」
 眉が下がった残月に朔耶は力強く頷いた。試したことのない力の使い方でも、今は躊躇っていてもらっては困るのだ。朔耶は続ける。
「と、いうよりも扉を封じて欲しいんだ。勿論、完全に防げるとは思わない。そこから出さないようにする時間稼ぎを貰いたいんだ」
 残月を信用してない訳ではないが、そういう言い方をするしかなかった。でなければ、これほどの大事にはならないだろう。
「了解した」
 意図を汲み取ってくれたようだ。残月は不快な顔をしない。
「お待ちください。それならば、私の力も使ってください」
 凛とした声が響く。女人の声だった。
「あんたは……」
「下弦です。私もけして長けるわけではありませんが、少しでしたら呪術は扱えます」
 控えめに、それでいて有無を言わさない強さがある。ただこの二人でというのはあまりにも困難だ。
 朔耶は他にも呪術の使い手を訊いて回り、月華門だけに留まらず、対応にあぐねていた月卿雲客も数名が申し出てきた。それから、ここにはいないがあの卯月も呪術は得意とするらしいので、早速協力を仰ぐことにした。心許ない人数であってもやるしかない。しかし、これでは根本的には解決に至らない。
「中には俺が行く」
 多分、あの扉の奥に全てが隠されている。
 本気で殺すつもりならば、機会は何度もあったはずだ。悪意も殺意も、本心ではない。彼は道を示しただけだ。追ってこいと。そう言っているのだ。
「真実が知りたい。考えるのはその後だ」
 二度目の言葉だった。それに望月はこの場に相応しくないような笑みをする。
 朔耶は友の顔を見た。能面のような顔で、何を考えているのかさっぱり分からないとしばしば思ったことがある。冷静で沈着。およそ朔耶にはない性格だ。なのに不思議と馬が合う。そう思っていたのは朔耶だけで、実際は望月が合わせていたのだろう。外に出せない感情を制御して、ここまで朔耶には見せないようにして。そうして朔耶の背を押してくれるのだ。望月はそういう男だった。
「道を違えようものならば、止める」
「足を斬ってでも、か?」
 朔耶も微笑む。最も、心から笑うのはこれが終わった後だ。
「私も、行く」
 ぽつりと、落ちた声に朔耶は振り返りたくはなかった。
 世話焼きで口煩くするのは彼女が優しいから。すぐに口論するのも、素直になれないのも、二人が似ているから。そんなこと、朔耶はもう知っている。
「行くわ。自分の目で見て、確かめたい」
 否定をしてはならないと思った。
 朔耶が言わなくても、皐月はもうきっと分かっているのだ。認めたくはないから、他人の口から聞きたかったのだろう。利用されていたこと。その人が望むのは、自身が思う未来とは異なっていることにも。
「大丈夫だよ。まだ間に合うから」
 根拠はないのにどうして出て来るのか。
 皐月が不安そうにするから朔耶は笑って見せる。いつもとは反対だ。
 だけど、偽りではない。納得出来なかったなら、それが許せないことだったなら。拳で殴ってでも止める。それだけだ。










「あなたも、わたくしを利用したのですか?」
 言って、目の前の男をねめつける。
「答えなさい。爽麻」
 精一杯の虚勢では、とても威圧することなど出来なかった。
 震える。声も、身体も。恐ろしさと、寒さと、不安に、負けそうになる自分を夕映姫は叱咤する。
 目が覚めた時にいたのは知らない場所であった。どう、なったのか。上手く働かない頭ではどんなに考えても答えなど出てこなかった。
 共にいたのは如月。しかし、彼の姿は何処にもなかった。すぐに裏切られたのだと理解した。こんなところに捨て置かれているのが何よりの証拠。そして、この人もまた、自身を謀っていたのだ。
 左右は石のような壁に覆われている。部屋というよりはただの空洞だ。一定の間隔を空けて、同じものが続いてはいるが、そこから這い出る勇気は夕映姫にはなかった。ただ、自身の置かれている状況に怯えて、震えているだけだった。
 ここが宮殿の地下だということも、この場所が牢獄だということも夕映姫は知る由もない。牢屋という存在すら知らないのだ。逃げ出すことは可能なのにそれすらしないのも、彼女が自由を知らないが故。
「貴女が、それを望んだのではないのか?」
 問う声に、夕映姫は激しく瞬いた。
「なにを、言っているの……?」
 怖れてはならない。屈してはならない。視線が交わる。目を逸らせば、自分を保てなくなってしまう。
「あれは愚かな女だ。だがそれは、貴女も同じこと」
 何もかもが分からないほどに幼くはない。だから、余計に憤りを感じた。夕映姫は掴み掛かりたい衝動を抑える。それよりも前に、訊きたいことはあるのだ。
「あの女人は、母上ではなかった。わたくしは騙されていた」
 声が震えないようにとしても意味がなかった。あの眸が恐ろしい。蒼の眸。何もかもを見通すような、冷たい色をしているくせに、見ているのは夕映姫ではないのだ。
「それに甘んじていたのは貴女でないのか? 貴女には呪力がない。いや、女帝もそうだった。それが何を意味するのか。知っていて、見ようとしなかったのは貴女だ」
 女帝は月の都の象徴。それは飾り。それは偽り。
 閉じ込められるだけの生を悲観していただけ。誰かが助けてくれると、甘い夢事だったのだ。
「でも、わたくしには、どうすることも出来なかったわ。何処にも行けなかった。それなのに、」
「今はそれが出来る。何処へでも好きに行けばいい。何故、貴女はそれをしない?」
「わたくしは、」
 何を望んでいたのだろう。夕映姫は自分に問いかける。答えを知っているからこそ恐ろしい。この稚拙な感情も、浅ましい夢も。
 さぞかし憐れに映っているだろう。それなのに、夕映姫の目からは涙は出てこなかった。悔しかったからかもしれない。恐ろしかっただけなのかもしれない。
「待つというのなら、好きにすればいい。あれもじきにここには来る」
 そうして、選べということだ。
 望む方へと進めばいい。自身の心と向き合えばいい。ただ、それだけのことなのに、夕映姫には出来ないのだ。
 何かを得る時には何かを失う。そうしてきたのだ。如月も、爽麻も、それから――。
 夕映姫は目を伏せる。信じているのは一人だけ。けれど、まだ知ることがこわいのだ。


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月に叢雲、花に

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