この空間は一体何処へと続いているのだろう?
 地下深くだということは分かる。周りは石のような壁に覆われているためか、それとも奥から冷気が流れているせいか、肌が冷える。備え付けられた灯りは乏しく足元くらいの明るさしかない。
 朔耶は目を凝らして左右を見渡してはみたものの、幾つかの空洞があるだけで他の目ぼしいものは見つからなかった。ここを知る者はもう誰もいないのだ。だから、ここでかつて暮らしていた者がいたことは、長い年月とともに風化されてしまう。
 あのお伽話と同じだ。誰の記憶にも残らなければ、それは過去ではなくなり、ただ逸話として伝わるだけ。
 不安も恐怖も、全くないといえば嘘にはなるが、朔耶は落ち着いていた。
 扉の先、果ての見えぬ道。それから、実体を現した月鬼。奴らは容赦なく襲い掛かってくる。月人に憑りつき精神を蝕む危険よりも、物理的な攻撃を食らうことで命そのものを失う危険の方が今は大きい。これが、扉の外へと次々に出て行き、だから都中が混乱に陥っている。
 望月も皐月も沈黙を通したままだ。それほどの余裕がないのも事実。それ以上に、言わずとも訊かずとも、彼らはうすうす勘付いているのだろう。
 とにかく今は先を急ぐしかない。が、朔耶の足はそこで止まる。新たな月鬼かと身構えてみるも、それは月人であった。それも――。
「お前は……!」
 朔耶は声を上げる。今、最も殴りたいと思うのはこれの顔だ。相手は怒りを向ける朔耶に慌てた様子で首を横に振る。
「ま、待ってくれ! た、助けてくれ! お願いだ!」
「なんだと……!」
 随分と勝手なことを言う。朔耶の怒りは尤もだ。謀反人に仕立て上げたのは他でもないこの霜月である。誰の命令であるかなど知ったことではない。
「助けてくれ! 死にたくない……!」
 おぼつかない足で寄って来たかと思えば、霜月は朔耶の腕を掴んだ。どんなに振り解こうとも渾身の力で縋り付いているのか、霜月は朔耶から離れない。暫く格闘をして、望月がそれを引き剥がしてやっと朔耶は自由になる。霜月はもう立ち上がることも出来ずに、震えているだけだった。その背中を皐月が擦ってやる。あまりにも惨めに見えたのだろう。
「何があった?」
 まずそれを訪ねた。
「長月が、殺された。息子に、爽麻に」
 歯の根が噛み合わないのか、霜月の声は聞き取りにくい。
「と、扉は、もうずっと前から開いていたんだ。それを、どうにか爽麻の力で抑えていたのに、それをあの女が……」
「あの女?」
 朔耶は望月に目を合わせて、次に皐月を見る。二人とも覚えはなさそうだ。
「そうだ。爽麻がずっと隠していたんだ。あの女の黄金キンの眸があれば扉は、」
「それはもういい。どっちにしろ、扉は開いたんだ。今は言ってもどうしようもない。それよりも、何が目的だ?」
 長話を聞く気にはなれなかった。朔耶は次を促す。生唾を呑み込んで、それから霜月は声をついだ。
「つ、月読の狙いは最初からあれだった。月影も長月も、奴らに知られないように、上手く隠していたというのに、」
「隠す? 何を、誰に?」
「あの奥にあるものだ。けして、それを使ってはならない」
「あの奥? 何があるんだ?」
 相変わらず回りくどい言い方をする。苛立ちを抑えつつ、朔耶は一つ一つを丁寧に尋ねる。
「方舟」
 霜月は言った。
 否定を声に出し掛けて、朔耶はその顔をまじまじと見つめる。嘘は言っていない。確信はないけれど、そう思う。
「方舟が粛清に関わるというのか?」
「し、知らない! 私は、長月からそれだけしか聞かされていない。だから、本当に知らないんだ!」
「分かった。分かったから落ち着け」
 何故、こんな男を宥めなければならないのか。朔耶は肩で大きく溜息を吐きながらも、その先の意味を考えていた。
 過去の産物だ。青い星とこの月を結ぶもの。お伽の話だけの存在ではない。青い星の客人も、残された子らにしても、事実であったのだから。
 朔耶の隣では望月が考え込んでいる。意見を問いたくても、そんな悠長な時はないし、霜月にしてみてもこれ以上の情報が出て来そうにもなかった。けれど、やってもらうべきことはある。
「とにかく、あんたはこんなところにいないで、早く扉の外に出ろ。そこには残月や下弦がいる。あんたも呪術が扱えるなら、ちょっとは協力してくれ」
「え?」
 予期せぬ言葉だったのか霜月は目を丸くする。憎たらしい。が、それを抑えつつ、朔耶は顎で後方を指す。
「都は月鬼でいっぱいだ。だから、あんたの力も貸してくれ。結界を作るくらいなら、出来るんだろ?」
 何かしらの因縁があるとしても、今は一人でも多くの力を借りたい。だが、朔耶の声も虚しく、霜月は急に立ち上がったと思えば、そのまま走り出してしまった。先程までの及び腰はどこにいったのか。
 あの野郎と朔耶は拳を作る。望月は放って置けという顔をして、皐月はどこかまだ心配そうに消えた背中の方を見つめていた。あれほどに逃げ足が早ければ何ら問題もなく、扉の外へと出られることだろう。またそれが憎たらしいのだが。
 それからまた先を進んでいく。変わらずに月鬼は襲い掛かって来るし、その数が奥に行くほどに増えていた。
 深い闇の中へと誘われているようだ。平坦な道が続いたかと思えば、今度は階段を下って行く。繰り返しているうちに何処をどう歩いているのかが分からなくなってくる。
 奥へと近づいて行っているには違いないが、終わりは見えない。身体を動かしているので寒さを誤魔化すことは出来るもの、それでも冷えるので、それだけで体力は奪われる。これが、何処まで、いつまで続くのか。
 途中で幾つか分かれ道があった。今歩いているのは勘で選んだもので、とりあえず行き止まりでない限りは進むしかなかった。月人の姿はない。けれど、ここにいるのだ。如月、共にいるの夕映姫。追ってこいと言った十六夜、おそらくは爽麻も。それから――。
 だから、朔耶はここでは止まれなかった。体力が尽きるのが先か、それとも先の見えない闇の中で心が折れるのが先か。けして、そうはならない。
 最後の月鬼を斬って、朔耶は肩で息をつく。実体が見えれば刀を振るうに遠慮はいらない。が、流石に限界だった。
 口こそには出さなかったが望月も皐月も同じだろう。休息が必要だ。朔耶は声を掛けようとして、止まった。全ての月鬼、否、ここにいるだけは倒した。そのはずだった。
 それでなくとも、ここは暗い。死角になる場所など幾らでもある。上手く隠れていたのだろうか。そうしてこちらの隙を伺っていたのだろうか。月鬼にそこまでの知性があるのか。朔耶が考えていたわずかな間に攻撃は来る。
 それは、鋭い爪を持ち、牙を持つ。
 確実に朔耶を狙っていた。まもなくして鮮血が散る。同時に朔耶を呼ぶ声が響いた。










 
 息が切れて苦しい。
 どのくらい走り続けているのだろうか? 振り返ることも、立ち止まることも許されず、ただそこから逃げるだけだった。
 喉が焼けるようだ。呼吸もままならない中でも本当に苦しいのは身体ではなかった。
 きっと、少しでも気を許せば呑み込まれてしまう。それが、ここにはある。だからここは誰も開けることを望まなかった。何をもたらすかなど、考えなくとも如月にはその未来が視える。それが、ただただ恐ろしい。
 如月を繋ぎ止めているのは恐怖心そのものだったのかもしれない。先程から耳に、いやこれは直接頭の中に届いて来る無機質な声。悪意と憎悪の塊は、ずっと長いこと待っていたのだろう。
 如月は月鬼を見たことがない。それに憑かれてしまった月人も、それ自体も見たことがなかった。主がいつも如月に呪いをかけてくれていたからだ。怖い夢を見て眠れなくなってしまった時、優しい声は如月を安心させるのだ。
 逃げて、逃げて、そこから逃げて。あれに捕まってしまえば殺される。あるいは同じようになってしまう。いっそ、楽になれるのならば前者を望むだろう。それほどに恐ろしかったのだ。如月にとって、それは。
 ついにその足は止まる。真っ直ぐにも立てなくなり如月はその場に崩れ落ちた。
 どんなに力を入れようとも、もう脚も動かなければ、腕も上がらない。倒れた時に頭を打ったのか、目が霞んで良く見えなかった。異形の者が追いかけてくる。もう、すぐそこまで来ているのが分かる。
 如月は目を瞑った。ああ、せめてもう一度だけ会いたかった。それも、今更望んでも虚しいだけだ。
 覚悟した痛みを感じなければ、いつまでも如月の意識は途絶えなかった。おそるおそる目を開ける。そこには――。
「遅くなってすまない」
 蒼い眸が見えた。如月が良く知っている色だった。
「十六夜、さま……」
 にこりと笑んで、如月の頬に手を添える。淡い光は瞬時に傷を癒し、それから彼は他にも如月の腕や足を治した。不思議な呪力だと思う。いつみても、そうだった。
 如月は立ち上がろうとしたがまだ足が言うことをきかない。十六夜に支えられてどうにかして両の足で立ち、しかし彼に合わせる顔がなかった。すぐに外れてしまった視線に十六夜は寂しそうに笑んでいた。
 責めないのかと、問いたかった。
 如月が偽ったのは何も夕映姫だけではない。
 言葉巧みに彼女を誘い、都から遠ざけようとした。これは如月の独断。そうするしかないのだと思いつめた上での行動だった。その上、如月は逃げたのだ。彼女を救うこともせずに。
「それほど心配することはないよ。夕映姫には御守りを持たせてある。安易に動かなければ危険はない。それに……」
 何があったのかも、どうするつもりだったのかも訊かない。
 優しい人だ。けれど、その優しさは時に人を傷付ける。
「どうして、」
「責めてほしい? そうだね。その方がきっと楽だ。それならば私も同じだ。知っていたのだから」
 でもね、と十六夜は続ける。
「夕映姫がいなくとも、扉は開くことは可能だった。いや、扉は開かれていた。あの時からずっと。開けたのは君の母親だ。だから弥生は光を失った。それから、心も」
 如月は唇をきつく噛み締める。聞きたくはなかった。認めたくもなかった。
「あれの干渉を受けた者は、本人の意思とは別に使命を全うしようとする。壊れてしまうんだ。自我が無くなる。そこには幸福などない」
 果たして、本当にそうだったのか。
 確かに母親は目が見えなかった。けれど、如月を呼ぶ声も、求める声も、心からのものだった。忘れたわけではない。失くしたわけではない。如月はまだここにいる。
「反対に、夕映姫の黄金キンの眸を使えば、扉を閉じることは可能だった。爽麻はそれをしなかった。それをすれば命を失うことになるから。二の舞にはしたくなったのか。情に流されるとは、彼らしくもないのに」
「嘘だ」
「如月?」
「あなたは、嘘をついている」
 言葉にするのが恐ろしい。それを認めることになるから。
 如月は一歩後ろへと下がる。支えてくれていた手を振り解き、自らぬくもりを手離した。所在なさげに十六夜の手が下ろされる。如月は声を緩めない。
「情に流されていたのはあなたも同じだ。本当は……」
 そういう振りをするのが上手い人だ。ずっと傍にいたから、それがよく分かる。
「そうだね。僕は、彼らほど干渉は受けていない。あんなものに支配されたくはない」
「そうやって、自分一人で背負うおつもりですか?」
 語調に滲んだ鋭さは、如月自身への苛立ちも含んでいた。結局、何の助けにもならなかった。挙句には足枷だ。無力過ぎて笑いたくもなってくる。
「後悔はしないようにはしているつもりだよ」
 諭す口調だった。この人はいつだってそうだった。
 恨まれてもいいくらいだ。如月はその子どもなのだから。
 なのに、彼はそれを見せなかった。弟のように扱ってくれた。そうして隠そうとする。如月には見せないようにする。だから、如月は十六夜のことを全て知っているのだ。彼に関することはあらゆる方法で調べてきた。それでも、心の中までは知ることは出来ない。
「約束、してください」
 他の方法があれば迷わずそれを選ぶ。選べないのは、もう後には戻れないからだ。
「必ず、帰ってくると。そう約束をしてください」
 共に行くことが出来ないのならば、せめて願うことだけは許されたいのだ。頬を伝う涙を拭いもせずに、如月は真っ直ぐに見つめる。優しい笑みだった。今まで見た中で一番優しいものに思えた。
 その腕の中に飛び込んで、小童のように駄々を捏ねてみれば良かったのか。それで改める人ならば、それで留まってくれる人ならば、とっくにそうしている。
「分かった。約束する。必ず、帰ってくる。だから……」
 自分にも言い聞かせる声だった。
 如月の頭を撫でるこの手は優しい。いつもそうやって、安心させるように微笑むのだ。涙はもう止まらずにいる。言葉を届けようとも、声にもならない。
 一番好きだったこの手を、離す時が来たのだ。


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月に叢雲、花に

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