東殿の外れには使われていない部屋が幾つもあり、その一つの納殿に朔耶は閉じ込められていた。
 中は暗いが全く灯りが入ってこないわけでもないし、格子からは外の様子が見える。
 はじめのうちは月草が来たものだが、あとはそれきりだ。勿論食事は出ない。用を足したくなった時には大声を出して誰か呼ぶしかなさそうだ。
 とはいうもの、辺りに人の気配はない。見張りの一人も立てないとはなんとも不用心ではあるが、両の手をしっかりと拘束されているので抵抗のしようもない。
 先程から奇妙な音が続いているのは朔耶の腹の音だ。意志とは別に勝手に鳴るものだから厭わしくて堪らない。全く、いつまで放置しておくつもりなのか。溜息の回数も増えるばかりだった。
 そもそも、罪を犯した者は早々に処罰をされるために、これほどに長い間をここに監禁されることもない。そのために月卿雲客、もしくは月華門がいるのだ。それは通常時のことであって、つまり今はそれどころではないということだ。それもその筈、月影という要人が暗殺されたのだから。
 朔耶はその犯人に仕立て上げられたというわけだ。
 待つ未来は暗い。重罪人には相応しい刑が下される。それでも朔耶はけして絶望はしていなかった。
 頭は恐ろしく冷静であった。時折、霜月の憎たらしいしたり顔が過るのだが、朔耶はすぐに思考を切り替える。誰かが自分を陥れた。それが計画的なものであるのか、それとも――。
 いや、それはいい。朔耶はその誰かをずっと考えていた。
 どうしてこんな事態になってしまったのか。
 まず浮かんだのは上弦だ。されど朴訥な印象が強く、まずその可能性はない。言伝を買って出たとはいえ、上弦がそこまで見通していたとはとても思えない。彼はあの時本当に困っていたのだ。
 ならば、更に遡ればどうか。卯月の頼み事を受けて朔耶は月の都を離れた。そして出会ったのは父の友人で、その大簇タイソウという男のことは卯月も良く知っていると言っていた。ならば朔耶の父である芳春ホウシュンのことも知っていてもおかしくはない。故意に引き合わせた、とはどうも考えにくい。卯月がそこまで計算高い人には見えないからだ。
 朔耶は肩で息をつく。何かを見落としているような気がしてならない。しかしそこから先には進めなかった。格子の向こうには思い掛けない人物がいたからだ。
「なんだ? 刑が決まったのなら早くしてくれ。ここは退屈なんだ」
 本心からではない。ここから出れば朔耶に待つのは死のみだ。それは免れない。
「お前はやはり見通しが甘いな。それだから上手く騙される」
「じゃあ、出してくれるのか?」
 それもないだろう。分かっていながら朔耶は軽口を叩く。
 まさか冷やかしに来たわけではあるまい。かといって助けに来てくれたわけでもないだろう。
 この男は他者には逆らわない。朔耶は嫌というくらいに知っている堅物だ。哀れみに来たつもりか、或いは最期の別れを告げに来たのか。どこから来るのか分からない余裕が朔耶にはある。けして自らを悲観することをしない。
「お前、どこまで知っている?」
「どこまで、とは?」
 低音だけが返ってくる。頭の切れるこの男が分からぬはずがないというのに、上手くはぐらかすつもりらしい。朔耶は再び問う。
「俺の父とお前の父は親しかった。だから、両親亡き後、俺を引き取って育ててくれた」
「それがどうした?」
「感謝はしている。偽りはない。どこかで感じていた不自然さも、俺は見ない振りをしていた。けれど、お前は知っていた。俺の目的を」
「お前は隠し事が下手だからな」
「俺はお前にそれを話したことはない。一切、話題にも出さなかった。だから忘れた振りをしていられた」
「その演技が下手だというのだ」
「違う。お前が、最初から知っていたからだ。望月」
 含み笑いが見える。正解だと言わんばかりに。
 しばしの間があった。その間にもういつもの能面のような顔に戻っている。
「お前にとって疑わしいものは全てが敵か?」
「なんだと?」
 挑発のようにも聞こえた。事実そうなのだろう。
「お前の父、芳春が殺されて、悲しみを持った者は何もお前だけではない」
 朔耶は睨み据える。たとえ長き時を過ごした友であっても、関係がなかった。
「その死に納得が出来ずに申し立てた大簇という男は都を追放された。同じ疑惑を持った者はいる」
 意外だとは思わなかった。この男は聡い。全てを知っているのも納得が出来る。外れた視線を朔耶は逃さない。
「だから何だ? 今更、言っても何にもならない」
 説教のつもりならば聞く気にもなれなかった。望月は苦笑する。彼の目には朔耶が憐れに映ったのだろうか?
「だが、俺の父は声を上げなかった。上に逆らうことをしなかった。この意味が分かるか」
 分からない。朔耶は否定の意味で沈黙した。
「臆病風に吹かれた。それは間違ってはいない。実際、父は死の間際に俺にそう言った。だがこうも言っていた。残された者は、恨みを忘れ、悲しみを乗り越えて、そうして生きていかなければならない」
 綺麗事だ。それは、偽善だ。他人だから言える。
「お前に分かるか? 悔いを持ったまま、生涯を終えた者の気持ちが。憎悪も哀愁も、それらに栓をして、けして悟られまいと振る舞い、お前をそこから遠ざけていた父の気持ちが」
 朔耶は次も沈黙していた。ただ、普段出さないような感情を面に張り付けた友を見るのは痛かった。
「恨んでいるのか? 俺を」
「そういう時もあった」
 望月は自嘲の笑みをする。彼の父親は老齢ではなかった。寿命をここまで縮めたのは心の病のせいだ。この時、やっとそれが分かった。
 朔耶は友の声を反芻していた。何故ならば、朔耶も同じ気持ちをずっと抱いて来たからだ。それだけが朔耶の目的で、それだけが生きる道でもあったのだ。
「ある人から、これを預かっていた」
「ある人……?」
 眉を潜める朔耶の前に出されたのは鍵だ。ここのカンヌキを開けるためのものだった。
「だが俺はお前をここから出す気はない」
「なら、なんでここに来た?」
「答えを訊くためだ」
 答え。朔耶は口の中で呟く。
「ここで大人しく死を待つか、それとも捜し出してその手に掛けるか」
「どちらでもない。俺が望んでいるのは真実だ。それを知るだけでいい」
 望月の問いに朔耶は真顔で応える。本当は二択ではなかった。けれど、それはもう望めない。
 閂が外れる音がした。朔耶は嘆息する。全く、演技が下手なのはお互い様だ。
「それが、親父さんの遺言なのか?」
 訊かずにはいられなかった。
「頭に血が上りやすい友を持つと苦労する。そういうことだ」
 十分だ。朔耶はやっといつものように笑った。











 宮殿内はかつてないほどに混乱していた。
 月影、それから長月という相次ぐ不幸があったために。他にも要人の姿が見えず、つまるところこの騒ぎを抑える者はいないのだ。
 慌ただしく渡廊を行き交う月草達の姿が消えるのを朔耶は待つ。脱獄したとならば罪は更に増えるだろう。それもすぐに知れ渡ることだ。
 とはいえ、望月の手引きがなければここまで来るのは不可能だった。心の中で友に感謝をする。ちゃんとした言葉を告げるのは、全部終わってからだ。
 途中で望月とは別れた。信頼しているからこそ、行動を別にしたのだ。望月にはまだ他にやるべきことがある。この騒ぎは一連の事件だけではない。宮殿内に月鬼が多く出ているためだった。友人にこれを押し付けるのは心苦しかったが、背を押されたような気がしたので朔耶は踏み留まらなかった。見極めること。今はそれだけあれば良かった。
 流石に奥まで来てしまえば人の気配はない。
 朔耶が目指していたのは開かずの扉。その先に全ての謎が隠されている。だから、それがすでに開いていたことに、朔耶は驚きを隠せなかった。
 呼吸を整える。今更、捨てるものなど何もないというのに。
 いや、違う。取り戻すためだ。
 朔耶は暗く冷たい空間の中をひたすらに歩いていく。松明を持って来なかったが、完全な暗闇ではなかったのでそれは不要だった。備え付けられた灯りが消えることはなさそうで、ぼんやりと足元を照らす。左右を確認するまでの光はなくても、前に進めさえすればそれでよかった。
 奥から流れてくる冷気は体温を容赦なく奪っていく。あるいは、この空間自体が冷え切っているのか。木のぬくもりも土の感触もないので、今踏みしめているのは石なのか。ではこの空間を作っているのも同じ材質であるのか。
 ここだけ切り離されたような錯覚がするのは、別のせかいに紛れ込んでいるみたいだったからだ。朔耶は長い長い道を歩んでいく。すると前方に人が見えた。
「来ると思っていたよ」
 姿を判別する前に声は届く。声音からして、その人が微笑んでいるのが分かる。
「やはり、あの時生かしておいて正解だった」
「あの時?」
 朔耶はそれを口に出す。
 記憶から抜け落ちていた。あの日の炎は覚えていても、父と母と弟を失った憎しみと哀しみを忘れることは出来なくても、その人に会ったということを、朔耶は今まで忘れていたのだ。
 朔耶はあの時、助けられたのだ。この人に。十六夜に。
「あんたに、訊きたいことがある」
「君の父上のことならば、もう必要は無いだろう?」
 何もかも見透かすような言い方は嫌いだ。けれど、朔耶は敢えて待つ。
「彼は、残念だったね。もう少し早く彼女をそこから引き離せば、命を落とすこともなかっただろうに」
「あんたが、手に掛けたのか……?」
「それでも、扉は開かれていた。だから彼女は光を失った。包み隠していた者達もいなければ、押さえ付けていた呪力ももはや効力を失っている。でも、朔耶。君には感謝しているんだ」
 とびきりやさしい微笑みをする。近くまで来てやっと分かった。彼は、そう最初から。
「騙していたのか? あんたは」
「人聞きの悪いことを言う。利用させてもらっただけだ」
 てらいもなく言う。
 這い上がってきたのは怒りではなかった。失望とも違っている。十六夜はそのまま莞爾カンジして続けた。
「君達のおかげで目を逸らすことが出来た。時間稼ぎには丁度良かったんだ。反女帝派とは上手い言葉だったね」
 何かがおかしい。ただこれだけは言える。彼は、味方ではない。
 朔耶は刀に手を伸ばしていた。だがそこからは動かない。味方ではない。ならば、敵。だとしても――。
「いいよ。相手になってあげよう。どのみち、あれにはまだ時間が掛かるから」
 余裕の笑みだ。朔耶は一度負けた。二度目はどうか。自信はなかったが、立ちはだかるというのなら、それしかない。
 誰かの声が聞こえた気がした。それが睦月であったのか、皐月であったのか、望月か。朔耶には分からない。
「その前に、応えてくれ。この奥にあるのは何だ? あんた達は、何をしようとしている?」
 見極めてからでも遅くはない。ところが、十六夜は意外そうな顔をした。知っているものだと思っていたのだろうか。
「私達は月読。その使命は一つだけ。粛清。それだけだ」
「粛清?」
「夢見が視た未来はそれだろうね。ここには何も無くなる。建物も、人も、命も、全部だ」
 恐ろしさよりも、不快感の方が強い。全くの無感情ではないのに声の音に一切それを含ませないのだ。
「後は、そうだね。自分の目で確かめればいい。そのために来たのだろう? けれど……」
 ただで通すつもりもない癖に。朔耶はねめつける。
 何処からか風が生まれていた。それは鋭利な刃となり朔耶に襲い掛かる。痛みを感じたときにはもう遅かった。抵抗することが無駄だと悟る。
 朔耶はけして油断をしていたわけではなかった。それでなくてもこの人は強い。あちらはまだ刀を抜いてさえもいないのに、呪力を用いれば、人の命など軽く奪えるということだ。
 風は朔耶の身体を容易く持ち上げる。吹き飛ばされたかと思えば、朔耶はしたたかに腰を打ち、頭を打った。
「私達の邪魔は、させない」
 その声は朔耶には届かない。意識はそれより前に途切れていたのだ。


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