立て続けに二回出たくしゃみに、意外そうな顔をされてしまった。なんとも解せない話である。
「誰かが噂をしているのかもね」
 その上、意味ありげな含み笑いをされては面白くはない。望月は上役であるというのに敢えてこれを無視をした。
 注進が遅れてしまったことに対しての叱責はなかった。互いに多忙な身である。そのせいか随分と久しぶりに会ったような気もした。実際、そんなに間は空いてはなかったのだが。
ボウの判断は正しいよ。私には彼を処罰するほどの権限はないからね」
 私的な話をしている時ならばまだしも、字名アザナで呼んでほしくはなかったが、それにも望月は触れない。気にするべき点は他にあるからだ。
 言い換えれば、処罰を与えるべきだと考える者もいるということで、その勅命さえあれば、十六夜は迷いなく実行するだろう。
「泳がせておけばいい。そのお考えだ。霜月殿にしても、長月殿にしても、目的はどうであれ、邪魔にはならないだろうから」
 随分はっきりと物を言う。今度は望月が驚いていた。
 この心の動きも読まれているのだろうか? 表に出さずとも、そこから読み取ることの出来る人だ。あの青い眸には、いや、十六夜にはその力がある。
「心配することはないよ。確かに、ここから先は少しばかり騒がしくなるだろうね」
 慧眼が働いている。もしくは、従者の声をそのままに口に出しているだけか。おそらく、その両方であり、だからこそ十六夜はこの場にいるのだ。
 何故だろうか。この時、望月は昔を思い出していた。成人するよりも前のことで、それこそ小童であった頃だ。
 貴人同士の付き合いはよくあることで、その子らが交友関係になるのも自然なことだ。多少の身分の差も歳の差も存在したものの、幼い頃からの付き合いである。睦月には良く遊んでもらい、十六夜には勉学、それから武術を教わった。彼らが今も望月を字名で呼ぶのはそういう過去があるからだ。成長するにつれて、少しばかり疎遠になっても、信頼出来る間柄だといえる。少なくとも望月はそう思っているのだ。
 十六夜は今も、昔と変わらぬ笑みを見せる。それが、作ったものであると気が付いたのは、いつからであったか。望月はそこで過去を追うのは止めた。どうあろうと関係がなかったのだ。この時、心の中に棲みついていた感情も、外へと出てくることもなければ意味を為さない。
「一つ、お聞きしたいことがあります」
 意識せずとも声は普段よりも大きいものだった。雑念を追い出すための質問ではなかったのだが、空気にはそれが現れていた。十六夜は顎を引く。
「月鬼とは、人の意思で動くものなのでしょうか?」
 あの霜月が述べたのだから信憑性には欠ける。だが、訊くべきだと思った。十六夜の目がすっと細くなる。どうやら正解だったようだ。
「そもそも、呪術というのはね、生まれ持った力ではないんだよ」
 意をつかれたわけではない。これまで考えもしなかった言葉に望月はしばし沈黙する。そもそも望月は呪力を扱えない。だから深く考えることもなかった。
「与えられると言った方がいいのかもしれない。そして、月鬼も例外ではない」
 先程とは違い遠回しな言い方をする。望月は再び問う。頭で考えるよりも問うた方が確実だった。
「何かの影響を受けている、ということですか?」
「望はやはり賢いね」
 否定も肯定もない。
 望月は故意に出さなかったが見解は違えてはいない。だが、その『なにか』が不明であり、これ以上考えても無駄なように思えた。質問を繰り返したところで満足のゆく答えが返ってくる保障はないだろう。十六夜が偽る人ではないのを知っているから尚更だ。
「では、呪術を生かせば、月鬼を抑え込めることも可能だと」
 望月は質問を変える。
「不可能ではないが、それに近いといえるかな。そもそも呪術をそこまで器用に使える者は少ない。私や爽麻ソウマ殿であったとしても、全てを抑え切れはしないだろうね」
 何故、ここでその名が出てくるのか。
 確かに、爽麻であれば十六夜と同等の、いやそれ以上の呪力を持っているのかもしれない。
 それに対しての当てつけか。ただの比較としてか。ともあれ、それ以上の呪力を持つといわれる月影や女帝の存在があっても、なお月鬼は尽きないのである。むしろ月鬼の数は増えている。それもこのところ急激にだ。
 対策のしようがないわけではない。あの霜月が言っていたのをそのままに通すのも不快ではあるが、一人でも多く武器を持ち戦える方が良い。
「これを、渡しておこうと思う」
 差し出されたのは鍵であった。しばらく使われてないものなのか錆が目立つ。十六夜はその先を言わなかったので、何処の鍵であるかは分からなかったが、そのうちに使うことになるというのは理解した。
 部屋から出て数歩を進まぬうちに望月の足は止まる。背後の気配に気づいたからだった。
「あの……」
 予期せぬ人物だった。別段親しく話をする間柄でもない。滅多に話しかけられることもなければ、望月からも振ることはない。
「なんだ?」
 そして相手がまだ童であろうとも、味のない声で望月は返す。紫紺の眸は左右に揺れ動いている。
「あいつは……、しばらく見ないけど……」
 まだ目を合わせようともせず、小声であるために聞き取りもにくい。望月は眉間に皺を寄せる。あいつというのがすぐに思い当らなかった。この童との関わりが対してないのだから、それも当然だった。
「いや、なんでもない。今のは、忘れてほしい」
 如月はかぶりを振る。
 嘘を吐くのが下手だな。望月は短い溜息をついた。
 長くそこで待っていたのだろう。身体が冷えているようで、顔色も悪い。この童が夢見であるがために、見たくもない未来を視せられているのだ。心労もそれだけに重なる。近しい者に関することならば更に増すだろう。
「不安を抱いていても、どうにもならないこともある」
 説教をするつもりはないが口調がそうなってしまっていた。望月はもう少しだけ声を変える。
「だが……、ただ待つだけであるのと、為すべきために動くとでは違う。変わるか変わらないかは、己の意思一つで決まる。どうありたいのか。どうあるべきなのか。どちらにしても後から悔やむのは自身だ」
 これは受け売りだ。だから、らしくはない言葉の羅列でも、思いの外すんなりと望月の唇は動いていた。
「うん……」
 消えてしまいそうなほど小さい声は落ちた。
 変えられない未来であることを、この童は知っているのだ。だがこうも思う。認めることをせず、しかし抗うことも出来ずに逃げ続けていた者の苦しみと、どちらが大きかったのだろうと。










 辿り着いたのは小さな村であった。
 華やかな月の都を知っている者ならば、あまりの活気のなさにしばし呆然となるに違いない。
 物売りもいなければ、小童がそこらを駆け回る姿もない。木々に緑の彩りは見えずに、川と呼べるほどの大きさもない用水路の色は濁っている。行き交う月人にしても色褪せた直衣を身に着けた者ばかりだ。
 お世辞を言おうにも何一つ出てこないくらいに寂しいところであり、一周するにも左程の時はかからないだろう。そこで朔耶は思い知る。女帝の加護があるとないのとでは、こうも異なるものなのだと。
 まずは一休みしたいところでも、生憎ながらそのような休まる場所さえなさそうだ。仕方なくそのままの足で村を散策する。
 道中に月鬼との戦闘もあり、月人に憑りついた姿ではなく、月鬼の実体がそのままに現れた。これまで朔耶が相対してきた月鬼は月人に憑りつくまで、実体は目には見えなかった。しかし、はっきりと見えたのだ。
 驚きはしたものの、それまでだ。実体が見えるのであればその方が好都合ではある。余計な心配をせずとも戦えるのだ。最も、それは単純に朔耶と皐月が強かったからではあるが。
「でも、ちょっと不思議だと思わない?」
 声を潜めて皐月が言う。
「ここの人達。ちっとも怖れている風には見えないわ。月鬼の存在を知らないわけはないでしょうに。ひょっとして、見えてない、とか?」
 どうやら推理をはじめたらしい。皐月はまばらに行き交う月人達の顔をじろじろと眺めていた。
「そんなの俺が知るかよ」
 溜息とともに出てきた声はあまりに素っ気なく聞こえたようで、いささかむっとしたのか、皐月の声は大きくなる。
「ええ、そうでしょうとも。あんたに訊いたのが間違いだったわ。すみませんねぇ。ちょっと気になっただけですう」
 可愛らしくもない口の利き方に、次は朔耶がかちんと来る番だった。
「そんな考えてすぐに答えが出るわけでもないのに、無駄なだけだろ」
「あんたの場合、無駄ってよりも、考えるのが苦手だからそう言ってるんでしょ」
 ああ言えばこう言う。先に火を付けたのは朔耶でも、こんな言われ方したら面白くはない。
「じゃあ、俺に訊くなよ!」
「あんたしか他にいないんだから仕方ないでしょ!」
 二人が視線に気が付いたのは互いに大声を張り上げた後だった。
 まるで痴話喧嘩の最中を見ているような好奇心に満ちた目が幾つもそこにはある。老爺も、若人も、女人も、小童も。袖で口元を抑えて笑うのを堪えていた。
 同時に赤面した。卯月に助言されていたのをここに来るまで忠実に守っていたというのに、何のその。台無しであった。
 朔耶は一つ咳払いする。見世物じゃないんだ。目が合えば、野次馬達はそそくさと散らばって行った。
 少しだけ冷めた頭で朔耶は考えた。皐月の言うことも一理はある。それに、この村に近付くにつれて月鬼とは遭遇しなくなったのだ。ここまで喧嘩をせずに済んだのも、いつ月鬼が出るかという緊張のためで、急にそれが解けたからでもあった。
 まぁ、いいや。朔耶は考えることを放棄した。それよりも先にやることはある。
大簇タイソウだって? 知ってるよ」
 若人を一人捕まえて朔耶は問うてみたが、あっさりと答えは返ってきた。先のやり取りを見ていたのか、にやにやしている。
「その男は何処にいるんだ?」
 いい気はしなくとも、当てもなく捜すのも面倒だ。やむなく訊く他はない。朔耶の問いに若人は右を指差した。
「ほら、この通りをずっと行けばいいさ。奥にあるのが奴の家だ。けど、ちょっと変わり者だからなぁ」
「変わり者って?」
「変人ってことさ。だからじゃないかな。なんだかお偉いさんだったらしいけど、都を追い出されて来たっていうし。ま、行ってみれば分かるよ」
 聞き返した皐月に快活な口調で若人は応えて、そうして去って行った。
 しばし二人は沈黙をする。卯月からの前情報でその昔に月卿雲客だったことは聞きはしたもの、追い出された件は初耳だった。どうやら気難しい人物であることには間違いなさそうだ。
「上手く、伝わればいいけど……」
 尻ごみする皐月に朔耶は肩を竦める。その時はどうとでも話をつければいい。幸い、朔耶も皐月も口には長けている。
 教えられた通りに東へと進んで行く。邸と呼べるほどの建物はわずかなもので、それも見えなくなってくれば、家自体がほとんどなくなってくる。新たに訊こうにも月人さえもいないので、先程の若人を信じるしかない。
 見れば見るほどに寂れたところであった。こんな処に好んで住みたくはないものであるが、ここにいる者に対して失礼千万というものだ。朔耶はその大簇という人のことに思考を移した。
 聞き覚えがあるのは気のせいではなくなっていた。それに、知っているような気さえもした。即ち会ったことがあるということだ。けれど、記憶を穿り返してみたところで蘇ってはこない。物覚えは悪い方ではないとはいっても、人の名と顔に関しては別だ。自身に関係のない人物であれば尚のことである。
 二人の足が止まる。やがて着いたのは家というのが疑わしいくらいに粗末な建物であった。雑草は伸び放題、生い茂った木々は、宛ら来訪者を威嚇しているようだ。
 ただでさえ辺鄙な処であるというのに、ここの中で暮らしているなど余程の物好き、いや、変人に違いない。朔耶は心の中で言い換えた。
 戸の前で皐月が深呼吸をする。腹に空気を溜めてから、そうして彼女は声に出した。まあまあの大きさであったので、中には十分届くだろう。しばしそれを待つ。だが、返ってきたのは沈黙だけだ。
 皐月は朔耶に目を合わせてから、今度はもっと大きな声で呼び掛けた。それでも、反応はなかった。
「いない、みたいだけど……」
 そんな困った顔をせずとも同じ気持ちだ。
 ここまで来たというのに無駄足だったなんて思いたくもない。外出しているのならば待てばいいが、こんな処は一刻も早く去りたいのが朔耶の本音だ。自然と溜息も出てくるものである。
「何の用だ?」
 後ろから聞こえた太い声に朔耶は慌てた。丁度、手を戸に掛けようとしたところであった。泥棒か何かと間違えられたとなれば心外だ。男は見るからに不機嫌だった。
「大簇さん、ですか?」
 訊いた皐月に男の細目が動く。
「お嬢ちゃんは何だ?」
「皐月です。あなたにお伝えしたいことがあって都から来ました」
「へえ、ご苦労な事だな」
 これに負ける皐月ではない。毅然として返しても、男の声は言葉とは裏腹に興味のないものであった。
 雄々しい声とは逆に体格は病的なまでに細い。背が高いので余計に痩躯が目立っている。黒髪は一つの団子に纏められており、彫の深い顔立ちに無精髭が他人を寄せ付けない雰囲気をそのままに出している。左手には籠を持ち、反対の手には数冊の書籍を抱えていた。
 男は皐月から目を外すと、今度は朔耶を見た。ほとんど無に近かった表情に色がついたのはその時だった。
「これは驚いた。芳春ホウシュンの生き写しだな」
 朔耶も目に力を入れる。ただの揶揄とは思えなかった。
「なんで、その名を知っている?」
 月卿雲客であったのならば知っていてもおかしくはない。が、この言い方は違う。それに宮殿内でその名を口にする者など一人としていなかった。それは過去のことだと、無かったことにしているのだ。
「そういきり立つな」
 最初よりも幾分か抑えた声音だった。冷静でいられるわけがない。朔耶は男を睨み付ける。
 ふいに、男が笑みを見せた。それは親しい者にだけ見せるような穏やかな笑みであった。男は懐かしいものを見るような目をして、先と同じ声で言った。
「私は大簇。お前の父とは友人だった」


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月に叢雲、花に

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