呼ぶ声が聞こえる。
 甘さを含んだ女人の声だった。彼女は、存在を確かめるようにそれを繰り返す。左へと右へと。動かしている手は宙を彷徨っていた。
「ここにいる」
 ようやく聞こえた声に彼女は童女の笑みを見せる。爽麻ソウマが同じ笑みを返すことはない。どうせ見えないのだ。ならば、今どんな表情をしていたとしても関係がなかった。
 重ねられた手は酷く冷たいものだった。それでも幾らか安心したのだろう。弥生はけしてその手を離そうとはしなかった。
「夢を視たわ。同じ夢よ」
 彼女は言う。ゆっくりと区切りながら、紡いでいく。
「真っ白になるの。そこには何もないのよ。ただ、あるのは静寂だけ。誰もいなくなるわ。それでやっと願いが叶うの」
 まるで他人事の声だった。
 たおやかではあるが、弱々しさはなく、芯の強い人であった。繊細さと聡明さと併せ持ち、それは見る者の心を奪う。肌理キメの細かい肌にしても、洗い立てのようにつややかな黒髪もしても、いくら歳を重ねても美しさが衰えることはなく、誰もが彼女に羨望を抱くだろう。彼女が好んだ菖蒲色の単衣もそれは麗しいものだ。
 だが、それはもう過去の話だった。あの日、弥生は光を失っただけではなく、そこから戻ることも出来なくなってしまっていた。ただ、変わらずに見続ける夢を除いて。
「ねえ、爽麻。いつになれば扉は開くの?」
 そうして、また同じ問いを繰り返すのだ。爽麻は少しだけ間を空ける。
「今はその時ではない」
 みるみるうちに弥生の顔が歪んだ。
「まさか、情に流されたのではないでしょうね?」
 生憎、そんなものを持ったことは一度もない。逆らえない流れの中にあるだけだ。詰め寄られても爽麻は視線を変えなかった。
「あんな小娘の命など惜しくはないでしょう? 必要なことなのよ。分かるでしょう?」
 慈悲の欠片も見えなければ、否定させるつもりもないらしい。
「あれは、まだ幼い」
「だから何だというの?」
 思ったよりも温情に籠った声が出ていた。彼女は耳を貸さない。目的のためにあるだけだ。
 胸に過ったこの感情を何と呼べばいいのだろう。爽麻の眸に映るのは、どこまでも愚かで、どこまでも憐れな女だ。彼女は無くしてしまっている。彼女は忘れてしまっている。
「お前の子に会った」
 戻らない記憶に呼びかけても意味はない。弥生は瞬きをした後に、さも愉快そうな笑みを浮かべた。
「私にそんなものはいないわ」
 くすくすと笑い、そして声は大きくなったかと思えば、急に止む。弥生は両の手で顔を覆うようにして、口からは聞き取れないほどの呟きを漏らしていた。譫言ウワゴトのようであり、それは助けを求める声でもあった。
「そう、そうよ。扉を開けるのよ。はやく、早く扉を開けなければ。もう待てないわ。何百年。いいえ、何千年と待ったのよ」
 かろうじて耳に届いたが、おそらく他人が聞いて理解出来る言葉ではなかった。爽麻は瞑目する。
 心穏やかなままでいる日もあれば、酷く取り乱す日もあった。気を落ち着かせるために絶えず香を焚いてはいても、それはさほど効果的なものでもない。
 爽麻がこの部屋に掛けている呪力もいずれは限界が来るだろう。それは終わりを意味するのだ。否、はじまりなのかもしれない。
「爽麻。ねえ、お願いよ。扉を開けるの。でないと、あの人が、あの人が死んでしまう……!」
 縋り付くその腕を振り払うことが爽麻には出来なかった。それが贖罪であるのか、それとも同情であるのか。どちらであろうと関係がなくなるのだ。
 抱きしめた細い身体は小刻みに震えている。幼子がいやいやをするように弥生はかぶりを振っていた。残っていた彼女の心がそれを拒絶しているのだろう。絶えず続く呼び声にいつまでも正気を保てはしない。全てを受け入れてしまえば、楽にはなれる。けれど、爽麻はまだそれを選ぶわけにはいかなかった。
 戻れなくなってしまう。だから、彼女は壊れてしまったのだ。










 
 
 急な呼び出しはこれがはじめてではなく、少なからず朔耶は嫌な予感がしていたのだが、いざ来てみればそこには先客がいたので驚いた。と、いうよりも顔を見合わせるなり、二人は同じ顔を作っていた。
「なんで、お前がいるんだよ」
 当然の如く、朔耶は訊いた。すかさず反撃はくる。
「そのままそっくり返してやるわよ。卯月様に呼ばれたのよ。それに私は小さい頃、ここで育ったの」
 どこか勝ち誇ったように皐月は言って、だからここは私の家でもあるのと付け加えた。そんなことは言われなくても知っている。が、その割には居心地悪そうに座ってるなと思いつつも、朔耶は別へと思考をすり替える。
 卯月に呼ばれたのは朔耶もだった。やはり勘は正しい。
 後ろから大きめの咳払いが聞こえて、慌てて朔耶も畳の上に腰を下ろした。卯月の苦い顔がそこにはあった。
「仲が良いのはいいことだが、君達はもう少し落ち着いた方がいい。そうだ。夫婦になりなさい」
 怒っているのかと思いきや、名案とばかりに卯月はにこにことしている。
「はい?」
 二人同時の声であった。どうしてそんな話になるのか。掴みどころのない人だとは思っていたが、まさかここまでとは。
「まあ、それは冗談ではあるが、少し頼みたいことがあるのだ」
 そうだと思いました。赤面したままの皐月とは別に、朔耶は落ち着き払っている。
 この兄弟に関わると何かと厄介事に巻き込まれるのは勉強済みだ。ところが、少し待ってみても卯月の声は続かなかった。急かすわけにもいかないので、朔耶は視線をあちこちへと流していく。はたと、皐月と目が合ったのだが、彼女はまだ動揺しているようだ。皐月はすぐに顔を背けた。
「その前に、十六夜は元気にしているかな?」
 兄の声になっていた。朔耶はしばし考えるふりをする。
「ええ、まあ。元気だと思います」
 曖昧に返答したのはこのところ顔を合わせていないからだった。皐月もそれは同じなのか、特には何も言わない。
「そうか。それならよかった」
 安堵したように卯月は言う。月卿雲客ではなくなったのだから、多忙からは解放されたはずだ。しかしながら卯月は前よりも老けたようにも見える。隠居すれば急に老け込んでしまうのだろうか?
「静かなものだろう? どうにも寂しくてな。私らしくはないが」
 確かにそうだと朔耶は思った。
 ここにはもう睦月もいなければ、十六夜が帰ってくるのも稀なのだ。舎人が庭の木を整えていたり、花の世話をしているのが見える。女房が客人に白湯を出してもくれる。こと広い邸宅には他にもたくさんの従者が住んでいるのだろう。だが、卯月の家族はいないのだ。
「これまで、家族をないがしろにしてきた報いなのかもしれんな」
「そんなこと……」
 皐月は何かを言い掛けたが、続かなかった。慰めの声はきっと逆効果だろう。卯月は微笑む。
「父が亡くなってからは私が兄弟を見てきたつもりではいたが、そうでもなかったのだと、今になって悔やまれるよ」
 それは、どういう意味なのだろうと、朔耶は考える。
 単に兄弟が離れてしまったことを無念にとらえているのか、それとも以前零していたように、弟の行動を危惧しているのか。
「大丈夫ですよ、卯月さま。十六夜さまには如月がいますし、私だって近くにいます。睦月さまも、ああ見えて意外にしっかりしているところもあるんですよ」
 だから心配は要りませんと、皐月は首肯する。むしろ心配になるのは卯月の方だ。皐月の励ましに、卯月は何度も頷いていた。
 朔耶はどことなく引っ掛かりを覚えていた。卯月の不安は杞憂ではないように聞こていたからだ。けれど、確信めいたものは何もない。ひとまずは忘れることにする。ここにはただ世間話をするために来たわけじゃない。
「あのー、それで頼みたい事って?」
 空気を読めとばかりに横から皐月に小突かれても朔耶は気にしない。一時に比べれば忙しなさは落ちついてきたとしても、呑気に話をするだけの暇を持て余してはいないのだ。事あるごとに呼び出されては堪らない。
「ああ、そうだったな」
 言って、卯月は懐から一枚の紙を取り出す。文であった。
「私が宮殿にいた頃の話だが、再々届いていたのだ。月の都からではなく、どこか離れた村からだというが……」
「文、ですか?」
 別段珍しいことはない。なのに卯月の顔はどこか暗い。
「そうだ。残念な事に、この文を宛てた女房はもういないのだ」
「宮仕えを辞められたのですか?」
 今度は皐月が訊く。卯月は首を横に振って、しばし空けた後に紡いだ。
「亡くなったそうだ。不慮の事故だったらしい。私も何度かお会いしたことあるが、素晴らしい方であったというのに……」
 朔耶と皐月は顔を見合わせる。思ったよりも事情が深そうで、どう応えるべきか分からなかった。卯月は続ける。
「それから何度なく返事を認めたのだが、どういうわけか一向に伝わらなくてな」
 困ったように苦笑して、卯月は腕を組み直した。
 なるほど。話の筋が読めてきた。つまりは――。
「申し訳ないのだが、直接会って、彼に事実を伝えてほしいのだ」
 どう考えても面倒事だったが、例の如く断れなかったので、渋々ながらも朔耶は承諾する。そこでやっと卯月の表情が明るいものへと変わっていた。
「本当にすまないな。もっと早くに動くべきではあったのだが、つい忘れて……いや、後回しとなってしまった」
 何とも本心を隠すのが下手な人だ。次に苦笑いしたのは朔耶だ。
「彼の名を大簇タイソウという。その昔に月卿雲客だった人だ」
 何処かで聞いた名だと、首を捻ってみても思い出せそうになかったので、朔耶はまた忘れることにする。どちらにしても関わりのない他人だ。事前に知っておくこともないだろう。
「それから、その女房は弥生という名の人だった。すでに故人であると、大簇殿は知っているはずなのだが……しかし、改めて伝えてほしいのだ」
 聞いた瞬間、朔耶の息は止まっていた。途端に心臓の音が大きくなり、同時に視界が歪む。
「朔耶?」
 皐月の声にはっとなった。狼狽することはない。だというのに、固まった顔は取り繕うことも出来ずにいた。朔耶は膝の上で作った拳にもう少し力を込める。
「いや、なんでもない」
 卯月の言っていることは正しい。
 もういない。いるわけがないんだ。朔耶は口の中で繰り返した。
 心配そうにしているのは皐月だけではないようで、卯月の気遣うような声が聞こえた。
「もし、具合が悪いのなら、望月に、」
「いえ、大丈夫です」
 朔耶は応える。呼ばれた理由ははっきりしたのだ。つまり、皐月と二人で行けということなのだろう。たまたま手が空いているのは朔耶だ。望月はまだ忙しくしているから、わざわざ巻き込むことはない。
「このところは月の都の外でも月鬼は多く出るらしい。流石に皐月一人に任せるわけにはいかない」
 大丈夫ですと言い掛けた皐月を卯月は目で制した。いかにもそうだ。一人よりは二人の方が安全ではある。
 卯月は立ち上がり、そこから戸棚の開け閉めをはじめた。何かを探しているようで、見つからないのか唸り声まで聞こえる。終いには諦めたのか、小さな溜息まで出てきた。
「しまったな。御守りは睦月に持たせたのだった」
「御守り、ですか?」
「ああ。それがあれば月鬼と遭遇することもないそうだが……」
 そんな便利な道具があるのかと朔耶は感心しつつ、手元にないのだから仕様がない。
「くれぐれも気をつけてほしい。それから、」
 そこで切って卯月は二人をじっと見つめた。訳も分からず朔耶も皐月も瞬きをし、卯月はもっと真顔になり、こう言い足した。
「喧嘩はしないように、道中は仲良くしなさい」
 余計な節介ではあるもの、朔耶は何とか顔には出さないようにして苦笑する。素直に聞いておいて損は無いはずだ。二人が喧嘩をはじめたところで止める者がいないのだから。


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