怒号が響いていた。
 ここは北殿であり、騒ぎ立てるに相応しくない場所であるのは言わずもがな、また出くわした相手にもそれはいえることで、いわばこれは有り得ない状況でもあった。
 眼光は鋭く、額には青筋が張っている。この上なく荒々しい口調にしても、朔耶はそれにただただ驚いていた。
 長い付き合いではあるとはいえ、これを見たのははじめてである。普段の冷静かつ毅然とした態度を崩さない望月から、誰が想像出来ただろう。
 ことのはじまりは、一人の月卿雲客と鉢合わせてだった。
 天敵にでも会った顔をしたかと思えば、霜月は飛ぶように逃げていく。それを許さなかったのは望月だ。上役であるのもお構いなしに胸倉を掴み掛かっている。これには朔耶も面喰っていた。
 止めようとも思ったが、すぐに尋問のような荒々しい声が飛んで、入り込む余地すらないために傍観するだけである。
 あまりの剣幕に余裕すらないと思いきや、なかなかどうして神経が図太いこと。霜月はどの問いにものらりくらりと躱している。望月は同じ言葉をもう一度繰り返した。
「刺客を放ったのはお前だな?」
 今度はよりゆっくりとした口調であった。
「こ、こんなことをしてただで済むと思って、」
「黙れ。質問にだけ答えろ」
 語気を強めて遮る。望月は他の声を許さなかった。それでも霜月はなおも抗おうとする。
「そ、そもそも、月鬼が意思を持って誰かを襲うなんてことはないだろ? どう考えても私には無関係で、これは言いがかりだ!」
「俺は、一言も月鬼がなどと言ってはないが?」
 霜月の顔から血の気が無くなる。誘導尋問ではない。ただの自滅だ。
「わ、私のせいじゃない」
 霜月はかぶりを振る。この期におよんでまだ否定をする気らしい。往生際が悪いにもほどがある。
「私達の邪魔をする。お前達が、」
「他には誰がいる?」
「な、何が?」
 思わず複数を指したことには気が付いてないようだ。霜月は目を瞬く。
「お前の他には誰がいる? 誰の指示によるものだ?」
 次に返ってきたのは沈黙だ。望月は舌を打ってから、霜月の細い首へと手を伸ばす。小さく悲鳴が上がったのも一瞬だけで、すぐに声は出なくなる。望月はまだ手に力を入れてはないが、その気になればいつでも出来るということだ。
 流石に止めようとも思った。頬から色がなくなっていき、女人が好みそうな面貌だというのに今は見る影もない。目にはうっすらと涙が浮かび、歯の音が合わないのか、恐怖はそのままに伝わってくる。とはいえ、朔耶も望月も命の危機を味わったのだ。それもこの男とは比較のならないほどの。
 霜月の口からは空気しか出てこない。恐ろしさのあまりに声を忘れてしまったのか、それも言えない訳があるのか。望月は訊く。
「長月、だな?」
 目はなんとも正直だ。霜月は思わずそれに反応をしていたのだ。そこで望月は漸くその手を外した。ずるずると霜月はその場にへたり込んでいたが、どうあっても逃げられないのだと、諦めがついたようで、どことなく悔しさが滲んでいる。
「おい。何をしてる?」
 突然、振られて朔耶はきょとんとした。
「後はお前の出番だろう? こういうのは、称に合わない」
 霜月から離れて腕組みをする幼馴染の態度は、もう普段通りに戻っていた。
 演技だったのかよ。それにしては迫真ものだった。
 朔耶は心中で感心して、同時に溜息をついた。危うく全部騙されるところであった。しかし、出番だと言われても、ほとんど結びついたようなものだった。朔耶は声に出してみる。答え合わせをしてみるだけの価値はありそうだ。
「で。お前の背後には長月がいるってわけだ?」
「別に奴に指示されたわけではない。同意見であるだけだ」
 見れば見るほど憎たらしい。同じ月卿雲客としての誇りがあるのか、霜月は認めようとはしないが、否定とも取れなかったのでよしとする。
「つまり反女帝派だということか?」
「何を言ってるんだ? 女帝の意に背くというわけではないぞ。私達は。あのやり方では上手く立ちいかないと危惧しているだけだ」
「いや、だから、それが対立してるってことだろ?」
 あくまで事を穏便に進めたいのか。複雑な表情をしている霜月にも幾らかの言い分はあるようだ。訊いてみるつもりはなかったので、朔耶は無視して本題へと移る。
「武器を大量に買い込んでいるあの変わり者の貴人はどう説明するんだ? どう見ても、謀反を起こすつもりじゃないか」
「謀反だって?」
「ここで嘘をついても為にはならないぞ」
 白々しくも訊き返すのが腹立たしい。だが、霜月は朔耶を怪訝そうに見るばかりだ。
 見当外れなことを言ってしまったのかと、朔耶は望月を顧みるも、相棒は唇を結んだままだ。仕方なくまた霜月へと視線を向ける。霜月はふんと鼻を鳴らした。
「いいか、下っ端。私達は常に月の都の安寧を第一として考えている。そのために日々こうして働いているんだ。お前達はそれに黙って従えばいい」
 こいつ殴ってやろうかと朔耶は思った。
 だが、至極当然とばかりに言い放った声にも、霜月の目にも偽るようなものは見えない。だから余計に癪に障る。
「武器を買ったのも、身を守るために決まってるじゃないか。戦うのが月草の仕事だろう? それを鍛えるのがお前達の仕事だというのに何を今更」
 朔耶が思い切りねめつけてやれば、霜月の減らず口はそこで止まった。言っていることは理解出来なくはない。しかしこの男にいけしゃあしゃあと言われたくはない。とはいうもの、気になった点もあるのでとりあえず朔耶は訊いてみる。
「身を守るって何から?」
「月鬼からに決まってるじゃないか」
「それを使って俺達を襲わせたくせにどの口が言うか!」
「あ、あれはその、ちょっとした呪力があれば出来ることで……。いや、それよりも、もしも扉が開けば大きな災いがそこから出て来るんだ。そうなれば宮殿は、いや月の都は終わりだ。私達では抑えきれない」
 開き直ったのかよく回る舌だ。
 即ち、多少の呪力があれば月鬼を操ることが出来るわけだ。次に霜月が言う扉というのは、北殿の奥にあるあかずの扉に違いはない。
「その、災いというのは月鬼のことで、もしも扉が開いてしまえば大事になる。だから、より戦える者を増やしておいて、これに備える……」
 一つ一つ声に出して朔耶は結び付ける。
 霜月は得意げな顔をして頷いているが、これを言い出したのはこの男ではないはず。朔耶は更に思考する。何かが引っ掛かっている気がしてならなかった。
「扉は、黄金の目があれば開くんじゃなかったのか?」
 確か、言ったのは玉輪ギョクリンだ。その彼女もまた、誰かが話しているのを聞いたのだ。
「それなら案ずることはない。そのために爽麻ソウマが見張ってるんだ」
「ああ? 爽麻だって?」
 出てきた名に朔耶は眉を寄せる。どうも話の筋が外れたような気がしてならない。朔耶は望月と目を合わせた。こういうことは頭が切れる者に任せるに限る。
「彼は夕映ユエ姫の婚約者だ。その点だけ見れば、反女帝派であるとは考えにくいな。権力が欲しければ何もしなくてもいずれは手に入る。爽麻殿の父親の長月殿にしても同じだ」
 そうだったのか。朔耶ははじめて知った情報に膝を打ったが、となれば余計にややこしくなるばかりだ。
 そもそも爽麻が何かしらを企てているとすれば、わざわざ朔耶達を助けることもないのだ。忠告をしたのは爽麻だが、それには身を案じているような声にも聞こえていたからだ。
 それならば、何故十六夜は朔耶達に命じたのか?
 朔耶は少し考えてみたものの、さっぱり行き着かなかった。疑い出してみればきりがない。兄弟を蹴落としてまで月卿雲客の座に就いた人だ。
「とにかく、十六夜様に事を報告する。俺達に出来ることは他にはない」
 もっともな声だった。朔耶は反論しない。
「ところで、こいつはどうするんだ?」
 勿論忘れたわけではなかった。こいつのせいでえらい目にあったのだ。
「知らん。放っておけばいい」
 素っ気なくとも、次は容赦しないとの望月の牽制でもある。勝手に因縁つけられたとはいえ、根が深いものがあるのだ。取り残された霜月はしばらく固まっていた。










 
 彼が来てくれるのは本当に久しぶりだった。
 月卿雲客となり、以前にも増して多忙を極めているのだろう。そのわずかな合間をぬって来てくれて嬉しいはずなのに、心が苦しくもなる。話したいことはたくさんあった。けれど夕映姫の唇はなかなか動こうとはしない。
「朔耶は、もう大丈夫なの?」
 考えた末に出てきた声は十六夜の顔を曇らせていた。
「ええ。申し訳ございませんでした。剣舞の会とはいえども、姫様の前で見せたことは、」
「い、いいの! わたくしのことは、良いのです」
 すぐに後悔をする。責めているわけでもないのに、そう聞こえたのならば、違うのだと否定したくもなった。
「あなたは……、大丈夫なの?」
 おそるおそる問うた夕映姫に十六夜は穏やかな笑みを見せる。 
 うそつき。夕映姫は胸の中で小さく零した。
 自分の前では偽ってなど欲しくはない。この人はいつもそういう顔をするのだ。だけど、それだけでいい。この時が大事で、この時が続いてほしくて、失くしたくはなかった。
 そのたった一つの我儘は、今も続いている。
 はじめて会ったあの日に夕映姫は綺麗な蒼の眸に惹きつけられたのだ。
 月白以外の成人した男性を招き入れるのは異例のことだった。今も許されているのは、彼が特殊な力を持つからだ。御守りとして肌身離さず持つ勾玉に呪力を込めるために。それだけのこと。それだけの間柄で、特別な感情などない。持ってはならないのだ。
「下弦から聞きました。またあの場所へ行っていたのだと」
 随分と前の話を持ち出してくる。夕映姫は少し眉を下げた。教えてくれたのは他でもない十六夜だ。許された外出で連れて行ってくれたあの時の感動を、忘れたことなどないというのに。
「あまり困らせてはなりませんよ。貴女にもしものことがあれば、爽麻殿がどれほど心を痛めることか」
 出してほしくない名前だった。夕映姫は蒼の眸から目を逸らす。二人の間には御簾があるので、今のこの表情は彼には見られては無いはずで、悟られても無いはずだ。彼に他意はないのだと、知っている。それなのに――。
 夕映姫は知らずのうちに唇を噛んでいた。なんて、稚拙な恋なのだろう。この浅ましい思いなどけして届くことはない。届いてしまってはならない。
「おはなしが、聞きたいわ」
 声が出てきてよかったと、夕映姫は思った。
 二拍空いて声は紡がれる。おだやかな声音であった。それにも夕映姫は安堵する。きっと、何もかも彼にはお見通しなのだろう。十六夜は笑んでいた。
「では、久しぶりにおはなししましょう。月と、彼方の星と、招かれた客人たちのおはなしを」
 それは夕映姫が最も好きなはなしだった。
 何度となく同じ話をねだっても、十六夜は嫌な顔一つせずに話してくれるのだ。
 静かな声が下りる。夕映姫はそこに耳を傾けた。

「それは、遥か昔の御話です。

 ある時に、彼方に浮かぶ青い星からの客人が訪れたのでした。珍しいものをみるかのように集まった月人を見て、彼らもまた同じ反応を見せたのでした。
 驚くことに、青い星の人達と月人は、同じような風貌をしていたのです。明るい茶色が抜けたようないわば金の色が美しい髪色を持った者もいれば、ある者はぬばたまの黒髪が美しかったといいます。
 そうして、二つの星の交流ははじまりました。青き星から持ち込まれた物の珍しさに、月人達は驚きながらも惹かれていました。反対に月のせかいは、青い星の客人から見ても驚きの連続だったそうです。
 その友好はずっと長く続くものだと誰もが思っていました。ところが、少しずつ仲が違えるようになってしまったのです。青い星から来た客人達の目的を知った月人達は怒りに狂いました。
 そこから争いになるまでさほど時は掛かりませんでした。月人達はたくさん死んでしまいました。青い星の人達もたくさん死んでしまいました。
 やがてこれに疲れた両者は、契りを結びことにしたのです。お互いに干渉することがないように、と。青い星の人達が使っていた方舟は封印されて、そしてようやく争いは終わりました。
 ですが、月に残された青い星の人達も多くいたそうです。もう二度と帰れないことを嘆いていましたが、彼らは月で生きるしかありませんでした。そのうちに月人と青い星の人との間でも子が生まれるようになりました。見た目はなんら変わりありませんが、混血子の眸の色は蒼かったといいます。それからもう一つ、混血子の使う呪力は月人よりも強かったのです。
 恐れをなした月人達は、混血子達を迫害しはじめました。誰もがあの争いの恐怖を覚えていたので、それは仕方のないことでした。残っていた月人達も、その子ども達も、みんながいなくなってしまいました。これで、ようやく月のせかいに安寧は訪れたのです」


 幼い頃から知っているお伽の話だ。けれど、夕映姫はその全てが逸話であると思ってはいなかった。方舟が今も存在しているのだと信じている。それを教えてくれたのも十六夜だ。何処に根拠があるのかは分からなくても、彼の言葉に嘘はない。
「十六夜……?」
 顔色が悪い。覗き込んだ頬は生色に乏しく、その目もまた虚ろなものだった。
「申し訳ありません。少し、疲れているのかもしれません」
 十六夜が苦笑いする。彼がそういうのだから余程だろう。
 だから、夕映姫は一瞬だけ見えたその顔が別の人に思えたのも、気のせいであったと、そう思うことにしたのだ。
 あの眸に宿っていたのは紛れもない怒り。夕映姫は知らずのうちに震えていた。
 
 
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月に叢雲、花に

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