朔耶が北殿に入ったのはこれがはじめてではなかったとはいえど、それでも妙に背中が緊張するのである。
住居を宮殿内に移した時も、最初こそはどこか落ち着かずに眠れなかったものの、今は身体が疲れ切っているのもあり、気持ちの良いほど熟睡出来る。繊細な神経の持ち主ではない朔耶だからこそだ。
とはいっても、ここはまた趣が違う。場違いであるなど言うまでもなく、もっと噛み砕いて言ってしまえばここの空気は澱んでいる。嫉妬や羨望の他に、野心や謀り、その他にも悪しき感情が渦巻いているのが分かるのだ。
「少しは慣れてきたようだね」
宮殿内に四六時中身を置いていることに対してか、月華門としての働きに対してか。おそらくは後者だろう。
「ええ、まあ。少しは」
朔耶は曖昧に濁す。それには苦笑いが返ってくる。
「なんだか思い出すよ。私も、最初は上手く立ち回れなかったから、よく従者に叱られた」
意外だと思っても、口に出すことはしなかった。ただし顔にはしっかりと出てしまっているので、十六夜にはお見通しだろう。
「ところで、来てもらったのは、聞きたいことがあったからだ」
特別悪いことをしたわけでもないのに朔耶の身体はより固まった。尋ねるべきか迷ったけれど朔耶は黙って次を待つ。
「何か聞こえることはないかな? そう、例えば声のようなものが」
「声……ですか?」
朔耶はしばし考える。思い当たりはなくもなかった。
少し前から感じていた違和であり、しかし人に伝えられるほどの言葉が上手く見つからないのだ。
声、というのが正しいのか。聞こえたというよりも朔耶の頭に直接呼びかけてくるような、そんな感じだった。ちょうどその時は疲労が最も溜まっていた時でもあったので、朔耶は気のせいだと思った。それをわざわざ言うことはないだろう。朔耶は否定する。
「いえ、特には……」
十六夜の顔からは笑みが消えていたが、怪訝そうにも見えなかった。
「そうか。それなら、いいんだ」
だからあっさりと引き下がった。腑に落ちなかったのは朔耶の方である。
これだけのために呼んだとは思えない。朔耶も何かと忙しいとはいえ、月卿雲客となった十六夜はその比ではないはずだ。
文机の側にはまだ手が付けられていない書物がいくつも積み重なっているし、机上にも書き掛けの巻物がそこここに置かれていた。朔耶の自室よりも広いの上に、それでもまあ随分と散らかっている。早々に退出するべきだ。別に仲の良い間柄でもない。
「朔耶は本当に強いね。流石は彼の子だ」
立ち上がろうとした朔耶は膝をそこで止めた。剣舞の会のことを言っているのだろうか? それならば十六夜からは何度も謝罪を受けた。真剣勝負であったから手加減は出来なかったと言い、それから傷のことも心配してくれた。それはもう終わった話だ。持ち出すようことに意味があるのならば――。
「会ったことがあるんですね?」
朔耶は半ば詰め寄るように十六夜に訊く。蒼の眸が揺れた。
「話をしたのは一度きりだ。でも、良く覚えている。強くて、優しい人達だった」
懐かしむように言う。声にも表情にも偽りはない。だから、きっとあの時言った言葉は、ただこちらを挑発するためであったのだと、朔耶は押し込めた。そうするべきだと思った。
外れていた視線がまた戻っていた。朔耶は二度目を瞬く。
「あの時の炎は忘れることがない。僕はそこで二人に会った。それから長いこと待った。ねえ、朔耶。君はどうして見ない振りをしているの?」
それは、と言い掛けて、朔耶の唇はそこから動かなかった。勇気がなかったからではない。奪ってはならないと思ったからだ。
「決めるのは自分だよ、朔耶」
導こうとしているのか。選ばせようとしているのか。
その典麗な顔からは、何も読み取れなかった。
十六夜の部屋を後にしてもまだ戻る気にはなれなかった。朔耶は敢えてそれを深追いせず、ただの説教だと思うことにした。
仮に彼が知っていたとしても、今はもう関係がないし、今は考えたくなかったのだ。
その足は少しばかり遠回りをしていた。けれど、要件もなしに北殿を行き交うことは出来ない。そういえばと、朔耶はあることを思い出す。前に
玉輪が言っていた開かずの扉のことだ。
実際にこの目で見てみたいというほどの好奇心もなければ、よからぬことに巻き込まれそうな予感もする。そんなものがあっても、朔耶には何の関係もないことなのだ。しばし思考したのちに朔耶は再び歩き出す。そして、見覚えのある姿が目に入った。
「
望じゃないか。お前もここに来ていたのか」
望月であった。朔耶は呼び止めたつもりでいたが、幼馴染の足は止まらない。急いでいるのか、それとも場所が場所だけに早く立ち去りたいのか。寄越した目線もいつも以上に冷えている。
「大した用事ではない」
関わるなと言いたいらしい。朔耶はそこで気が付いた。
「おい。いつからだ?」
望月にだけ聞こえる声で朔耶は問う。
「少し前からだ。問題はない」
物好きもいたものだ。
こういった冗談は通じないので心の中に留めておく。二人の歩む速度は変わらない。
「心当たりは?」
「あるといえばある」
「取り巻きでもいたのか」
あまりにも他人事のように零すので、つい朔耶は茶化してしまった。色恋沙汰など似合いそうもない男である。人のことは言えた義理ではないが。
だが、それにしては妙だ。一定の距離を保ちながらこちらを追っているにしても、どこか不自然にも感じる。足音を消すことが出来ても、気配を完全に消すのは不可能だ。
朔耶と望月が気付いたのは、彼らがそれに長けているからであって、ただの貴人には出来る芸当ではない。つまりはただ者ではないということだ。
西殿へと渡ろうとした時に、急に殺気を感じて朔耶は振り返った。そこには六人もいる。それも間合いに入れるほどの距離だ。
朔耶は
勾欄を飛び越えて、坪庭へと出る。望月もそれに続き、当然の如く、奴らは追って来た。見目麗しい装束に身を包むのは貴人達だ。しかし、目は血走っており、口の端から涎を垂らしている。正気ではない。間違いなく月鬼に憑りつかれている。
朔耶はもう少しそこから離れた。宮殿内に月鬼が出たとなれば、早々に騒ぎとなるだろう。月華門、あるいは月草などの戦える者はまだいい。他にも女房や
舎人なども多数いるのだ。厄介な事になるのは目に見えている。
そして、朔耶は確信する。奴らは明らかに朔耶達を狙っている。そもそもが付けて来ていたのだ。元来、月鬼には意志はない。だからこれは、言うまでもなく、危機というやつだ。
耳をつんざくような月鬼の金切り声が響いた。両手で耳を抑えたくもなったが、すでに戦闘ははじまっている。
朔耶と望月は背中合せて応戦し、ここでもすぐに妙だと感じた。奴らの動きに連携があるのだ。
これに翻弄されるような朔耶ではないとはいえど、如何せん数が多い。こちらは二人だ。大声を上げれば助けはくるとしても、それでは却って危険を広げることになる。
思考に裂く時間があるうちはまだいい。それも余裕がなくなってくる。朔耶が貴人の動きを止め、望月が月鬼の実体を倒す。二匹までは上手く行った。だが、奴らは馬鹿ではなかった。
月鬼は標的を望月一人に変えた。朔耶が庇うよりも先に、攻撃は入る。月鬼は素手ではない。貴人が護身用として持っていた脇差を器用にも扱っている。砂利の上に赤が飛び散った。
「望月!」
朔耶は叫ぶ。望月は肩を抑えながら膝を付いた。乗っ取ろうとしているのではない。確実に殺しに来ているのだ。奴らは。
朔耶の肌が粟立っていた。
望月を庇うように彼の前に立ち、次の攻撃に備える。朔耶は左を見た。木々に挟まれていて行けそうもなかった。反対の右には一人が通れるほどの隙間があるのが見えた。逃げることは可能だ。一瞬のうちに朔耶は判断をする。それは正しくはない。
朔耶は覚悟を決める。憑りつかれた貴人達の身体を気遣うような攻撃は止めだ。後のことはその時に考えればいい。とにかく今は、動きを止めることが先決だ。
望月がどうにか立ち上がっていた。二人は身構える。ところが、予測していた攻撃はこなかった。それどころか、朔耶の腕も構えたまま、それ以上動かなくなっている。
何が起きたのか。
理解しようとした時に、ぱあんと破裂音が聞こえた。空間が震えるような強い力は朔耶を上から押さえつける。次に来た衝撃波に身じろぐことも出来ずにただ耐えるしかなかった。かろうじて働いた目は、月鬼達が次々に倒れるのを映していた。悲鳴すらなかった。
やがて、朔耶は膝から崩れ落ちる。解放されたとはいえ、身体は自らの意思で自由にはならない。望月に声を掛けようとして、朔耶はこちらへと向かって来る一人の貴人を見た。月卿雲客であった。
「傷を見せなさい」
倒れている貴人達には目をくれず、真っ先に望月の前に来て言った。望月は驚いたような表情をしたが、それにはすぐに従った。斬りつけられた左の肩からは血が止めどなく流れている。
彼の手がそこに触れる。それは朔耶が前に見た光景と全く同じだった。
血は止まり、裂けた肉は再生し、皮膚も元通りの綺麗な色へと変わる。撫でるような仕草だけで全てが終わる。
朔耶は生唾を飲んだ。そうでもしないと恐ろしさを抑えられそうにもなかった。
「一つだけ忠告をしておく」
朔耶を捉えているのは蒼の眸だ。何処かで見たことのある色だった。
「誰の差し金かは知らないが、目に余る行動は控えた方がいい」
声音は至極穏やかもので、険も見えない。
「捨てなければならないものもある。守るためには、それ以外にない」
身に覚えがないといえば嘘になる。いかに上役の命令であっても、出過ぎた真似をするなということだ。これは偶然ではなく、仕組まれたものである。
警告だった。だとしても、その中にはまた別の感情が孕んでいた。遠ざけようとしている。あの眸は。朔耶にはそう見えたのだ。
「勝手なことをしてくれたものだな」
声は静かなものであったが、そこには呆れが含まれている。苛立ちを隠すつもりはないようで、
脇息を叩く指にも表れていた。
親子は向かい合って座る。だが、実際にここにいるのは月卿雲客と月卿雲客であり、交わされる会話の中にも声にも、身内にあてるものは何一つとしてない。
「早まったことをするなと忠告はしたはずだが、このざまだ」
吐き捨てられた言葉にも顔を変えることなく、父の怒りが収まるのをしばし待つだけ。
白髪交じりの黒髪には艶もなく、頬も痩せた老人ではあるにしても、眼光は強い。一体、誰が穏健派であるなどと言いだしたものか。内面を指してのことならば、なるほど人を騙すのは容易いということだ。
ただ、一部を除いて、この狡猾な男を見抜いている者もいるのだろう。だからこそ、軽率な行動を取ったに違いはないが、それでは逆効果である。結果、この男の逆鱗に触れることになるのだ。
庇い立てするつもりはない。しかし一方で懸念すべきものはまだその先にも残っている。果たして、気が付いているのかどうか。
「まぁ、いい。どうあろうと、問題はなかろう。奴がしくじろうとも、月影が隠し通そうとしていても、あの若造がいようがいまいが、関係はない」
目的は変わることはない。長月の望みは最初からそれだ。良く知っているからこそ、動揺は伝わってくるのだ。口で言うほどに心は静まってはいない。苛々している時に爪を噛む長月の癖が出はじめていた。
何を焦ることがあるのかと思う。
残された時が僅かであっても、自ら動く必要などないのだ。泳がせておけばいい。そこからはけして進めはしないのだから。
「我らで守らなければならない。最早、女帝の力はないも同然だ。お前にしか出来ないのだ。分かるな、
爽麻」
「はい。父上」
無感情に返したところで、長月は気にも留めなかった。素直に従う息子は彼にとって良く出来た駒の一つであろう。
「皮肉なものだな。だが、お前のその力はそのためにある。これも全ては世の安定のため」
望んで手にしたものではない。それによって失われたものは多くある。人はそれを犠牲と呼ぶ。爽麻もその一人だ。
故に強要されていたとしても、逆らうことはしない。甘んじて受けているだけだ。今はまだ、時ではないからだ。父親は最後にこう付け加えた。
「お前は月読としての役目を果たさねばならない」
誰のためにあるのか。
爽麻が見ているものもまた、一つしかないのだ。
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