戸を開けるにはなかなか勇気がいることだった。
 朔耶はしばし躊躇ってから、ようやっと中へと入る。がらんとした部屋で朔耶を待っていたのは鼻に付いたのは黴臭いにおいと、それから畳の上に積もった埃だ。
 朔耶は急いで全部の戸を開けて、とりあえずは換気する。それから隣の邸の月人ツキヒトから箒を借りてきて、塵一つ残さないよう掃除をした。
 事のついでに、しばらくしてなかった大掃除と題して今度は布を濡らし、隅々まで丁寧に畳を拭く。一仕事終えるとやっと落ち着いたとばかりに朔耶は大の字に寝転がった。
 帰りを待つ人もいなければ、誰かを招き入れることもない。余計なものなど置くことがないので、畳と布団があるだけが朔耶の家だ。それも布団はさっき干したので、本当に何にもなくなってしまった。それにも馴れたものなので、何も感じることもないのだが。
 薄汚れた天井が視界に入り、朔耶は溜息をついた。
 あれは過去だった。夢など、もう随分と見てなかったというのに、どうして今頃になって見るのだろう。朔耶は粗雑に前髪を掻き分ける。思い出されるのは、あの大きくて優しい手だ。
 事故なんかじゃない。幼い朔耶は炎を見たのだ。その炎は誰かの意思によるものに思えた。あの熱さも、息苦しさも、悲しさも、全部覚えている。どんなに忘れようとしても、頭の隅っこの方で付着している。見ない振りをするだけ無駄だ。
 奪った者がいる。朔耶はそれを知っている。だから、朔耶の目的は一つだけだ。何処にいようとも見つけ出す。そして必ず――。
「入っても、良いだろうか?」
 遠慮がちに聞こえた声に朔耶は跳ね起きた。朔耶の家に門扉などはない。その上、戸は全部開け放しているので、外からは丸見えだ。たぶん、いつまでたっても動かない朔耶の様子を伺っていたのだろう。
「あ、はい。ど、どうぞ……」
 生憎、円座ワロウダというものはここにはないので、そのまま座ってもらうしかない。突然の来訪者は卯月であった。そしてもう一人が見える。
「身体はもういいのか?」
「あ、ああ。問題はない」
 いつまでも世話になるわけいかないし、何よりもあの邸宅では何かと気を遣う。止める卯月に無理を言って朔耶は帰ってきたのだ。
 それを望月が知らないのも当然だ。幼馴染は見舞いにも来なかった。望月の性格を良く知っているとはいえ、冷たい奴だと思わなくもなかった。何かと忙しかったのかもしれない。
「もし、まだ傷が痛むようならば遠慮なく言いなさい。私も少しは呪術が使える」
「いえ、大丈夫です。何の問題もありませんから」
 あるとしたら、夕餉の食材が何もないことだが、言えるわけもないので朔耶は愛想笑いする。
「それならいいが……」
「大丈夫ですから。本当に」
 納得する様子もない卯月に、朔耶は大袈裟に腕を回して見せた。安堵の色はつかなくとも、卯月は留まったようだ。話題は次へと変わる。
「突然来て申し訳なかった。今後の事を伝えに来た」
「今後……? ですか?」
 訝しんだ朔耶に卯月は笑む。
「ああ。良い報告だ。朔耶は今後、月華門ゲッカモンとして居住を宮殿内に移すことになる」
 低いが穏やかな声音であり、耳に心地が良かった。しかし、言っていることの意味が分からず朔耶はぽかんとする。
「ここはせま……、いや、窮屈で何かと不便だろう? だからそのように話を通しておいた」
 卯月は濁したものの、言いたいことは分かった。確かにあの邸宅に住まう者からしてみればここは狭苦しいだろう。それよりも朔耶が気になったのは――。
「月華門って、どういうことですか?」
 寝耳に水だ。何処かで功績を上げたわけではないし、それには相応の身分が必要となる。望月ならばともかく朔耶にはない。
「剣舞の会だ。君の武術は高く評価された。そもそも十六夜が前もって推薦していたらしいが、良かったな」
「はぁ……」
 朔耶は曖昧な返事をする。
 ただの娯楽の一つだと思っていたから何となく腑には落ちない。それも、十六夜の計らいがあったとなれば尚更である。どうもあの人の手の平の上で転がされているような気がしてならないのだ。
「心配することはない。望月はすでに月華門として働いているし、上には十六夜がいる。何か困った時は十六夜を頼りなさい。月卿雲客ゲッケイウンカクともなれば話は通りやすいはずだから」
 ただでさえ驚きの連続だというのに、朔耶は話にますますついていけなくなった。
「月卿雲客って、じゃあ卯月様は、」
「おい、朔耶」
 望月の窘めるような声に、卯月の笑みが自嘲に変わっている。
「私はもう月卿雲客ではないよ。まさかこんなに早くに引退するとは思わなかったが、これも致し方あるまい」
 急に老け込んだ様に見えたのは気のせいだろうか? 朔耶はさっと視線を逸らした。
「そろそろ嫁を貰えということかもしれないな」
 そうですねとは言えなかったので、朔耶は笑っておく。望月の能面のような顔は相変わらずだ。こういう時だけ真似したくもなる。
 それにしても、朔耶が動けない間に随分と事が変わっているようだ。自身に関わる月華門だけでも現実味がないというのに、十六夜はその更に上の役職の月卿雲客だ。
 確かにその器はあるだろう。十六夜は卯月の弟でもあるし、相応の身分も功績も持っている人だ。けれど、どうにも釈然としないのは、そういったものに執着するようには見えなかったからだ。いいや、思い込みだったのかもしれない。朔耶は改める。
 野心を隠し持っていたならば、なんて包み隠すのが上手い人だ。先入観を抜きにしても、腹黒さはなかなかに見抜けない。と、まで朔耶は考えて、思い当りもなくはなかったので、それ以上は考えないことにした。
「ともかく、これから何かと忙しくなるとは思うが頑張ってくれ。睦月も十六夜もいないが、たまには顔を見せてほしい」
 まるで娘を嫁に送り出す時の父親のようだ。卯月に返事をしかけて朔耶は止まって、彼の言葉を反芻する。睦月も、いない?
「ええと、いないって、どういうこと、ですか?」
 動揺しているためか朔耶の声は上手く出て行かない。卯月は意外そうな顔をして、それから応えた。
「何だ? 聞いていなかったのか?」
「何のことですか?」
 朔耶は望月にも視線を送ってみるも、返ってきたのは無反応だ。
「しばらくは戻っては来ないというのに。全く、睦月らしいといえばそうだな」
 戻っては来ない。つまり、それは。
「睦月に与えられた任務は遠くの村へと行くことだ。つまり、月の都にはいない」
「な、なんで……?」
 目上の人に対する言葉使いではなくなっていたが、それにはもう気が回らなくなっていた。卯月が苦笑いする。
「良くも悪くも、剣舞の会ではそれが公になる。力を発揮出来るか、否か。それだけのことだ。それに……、弟が、いや上が決めたことならば従う他はない」
 実の弟のことであるのに、どこか他人事のような口振りに朔耶は思えてならなかった。卯月はみなまで言わなかったが、それが誰の意図によるものなのか、連想するには十分だ。
「良く出来た弟ではある。だが、時々人が変わったような冷たい目をする。何を考えているのか、私には分からんよ」
 卯月は苦笑する。身内でさえも分からないことを、朔耶が理解など到底出来ないだろう。しかしその後、朔耶は一つの疑念を抱くことになる。









 南殿で行われる御前会議は長々と続くのが常ではあるが、そこに連なる顔ぶれは少しばかり変わっていた。
 まずは月影への報告からはじまり、次いでそれぞれのマツリゴトへの議論へと移る。先の剣舞の会はなかなかどうして、これまでにない盛り上がりを見せていたと声を上げる者がいて、それににこやかに笑む姿が見えた。新参者だ。彼には発言権がない。
 茶会と称して詩を詠み合う会に、扇を片手に舞を見せる会もあり、それらばかりだと貴人達も飽きがくるのだろう。剣舞の会の回数をもっと増やせという声も出てきている。貴人達の機嫌取りのためならば、なるほどこれ以上に馬鹿らしいことはないだろう。
 他にも議論は尽きない。優先すべきは月鬼対策であろうに、これはいつも後の方で意見が交わされる。奴らは限りがない。何処ともなく現れては月人に憑りつき、そうして精神を蝕めば、また次の月人へと憑りついていくのだ。
 いまにはじまった問題ではないとはいえども、脅威であるには違いない。ただし、この宮殿内で月鬼が出るのは極めて稀なことでもあり、逆にいれば宮殿内に身を置くことで危険を回避出来るのである。いささか他人事のように話し、更に後回しとされるのもこのためだ。
 月卿雲客の一人が話し出した。霜月シモツキという名で、宮殿内の警護、及び月鬼対策を任されている者だ。雄弁に語る様は余程自信があるらしい。ともあれ、ようやく会議もお開きとなり、それぞれが足早に退出をして行く。別段、口を開くこともなく、ただこの流れを見ているだけのつまらない時であった。
 長居をする必要がないので、それに続く。ところが後ろから呼ばれて、足を止める。予期せぬ人物であった。
「ご挨拶に伺おうと思っていたのですが、互いに多忙な身。遅れたことをお許しください。それから、新入りの私に宜しくご指導ご鞭撻のほど、お願い致します」
 言い終えると慣れた動作で一揖イチユウする。
 白々しい。爽麻ソウマがはじめに抱いた感情はそれだ。
 異例と言っても良いほどだった。だが、最終的に決断をするのは月影だ。それに異存はない。何らかの目的があるのは至極当然であるとはいえ、そのやり方はけして好まれるものではなかった。少なくとも爽麻は彼に対して持っている。それが演出であり、全ては計算されたものだと、見切っているからだ。
「何を企んでいる?」
 爽麻は問うた。
「何の話でしょう?」
 お得意の見え透いた愛想笑いが返ってくる。
 沸き上がる嫌悪を押し殺す。それを知りつつ、相手はあえて焚き付けてくるのだ。
 どこまでも油断のならない男だ。上手く優男の面を被っているのだろう。しかし、隠しきれない鋭利な刃がその眸には眠っている。
 三兄弟の末の子。長兄は月卿雲客であった。それも今は過去の話だ。次兄はうだつの上がらない小人ショウジンであると称され、けれど三男は違う。まだ月草である時から周りの注目を集めるとともに、すぐさまその名は広まった。
 最も、彼の名が知れ渡ったのも剣舞の会であった。何の因果か、その試合で当たったのは爽麻であり、それも昔の話で記憶からは消し去ってはいるが。
 他の月人は残ってはいなかった。ここにいるのは、同じ色の眸を持つ二人だけだ。爽麻は声を続ける。
「あれを使って、何をするつもりだ?」
「あれとは、何のことでしょう?」
「とぼけるな」
 あくまで白を切るつもりらしい。彼がわざとらしくも首を傾げると、長い黒髪が肩から滑り落ちた。
 他人を使うのが得意な男だ。それでいて自身の手は汚さないというのか。こちらの目を欺いているように見えて、警戒をしろと言っているようなものだ。くすりと、笑う顔が見えた。
「彼は、芳春ホウシュンの子です」
 ことなげもなく言う。それは過去だ。葬り去られたものでもあるというのに、どうしても持ち出したいようだ。演者のような完璧な笑みの中に確信が見える。
「彼らは死んだ。だからもういない」
 そう。あれは事故だった。芳春も、その妻も、その子らも。もうどこにもいないのだ。
「いいえ。でしたら何故、彼女は隠されているのでしょう?」
 逃すつもりはないのか、さぞ不思議だと言うように問い掛ける。取り合うつもりにはなれなかった。爽麻は応えない。
「お答え下さい。爽麻殿。貴方が、隠していらっしゃるのです」
「答える義務はない」
「そうですが。残念です。ですが、彼はまた別でしょうね。お会いになられては如何ですか? あの髪、あの眸、それにあの太刀筋。貴方も剣舞の会でご覧になられたでしょう。良く似ています。そう、お懐かしいのでは?」
 耳触りだと、思う。
 声音は穏やかでも、どこか否定をさせないような強みが含まれている。言葉を選んでいるように見えて、其の実、忘れたことがなかったのだろうと、一方的に決めつけているのだ。
「だから、近付けたというのか?」
 そして、自身をも否定はしない。爽麻の問いにいっそ清々しい笑みを唇に乗せる。
「かの英雄の子です。こうなるのは必然のはず」
「だがお前は、殺そうとした」
 爽麻はそれを見抜いていた。あの瞬間に、何が起こっていたのかも、知っている。
 綺麗な顔はさほども動じない。されど冷たさは増すばかりだ。
「これは、可笑しなことをおっしゃいます。彼は私の部下でもあったのです。いいえ、これからも。どうしてその必要があるのでしょう?」
 時間の無駄だ。小芝居にわざわざ付き合ってやることもない。爽麻はそこで自覚した。苛立っている。気が乱されている。この男に。
「邪魔はさせない。それだけだ」
「ええ。邪魔をするつもりなどございません。ご安心下さい」
 忠告はあっさりと受け取られた。爽麻がどんなに睥睨ヘイゲイしても、その涼しい表情が動くことはなかった。だがここへきて、急にそれが変貌する。
「君は、鍵を手にしてるんだね。爽麻」
 聞き違いではない。これが、本来のサガだ。
 口元の陰りが濃くなり、声も一段と低くなっている。
「だけど、僕も同じものを持っている。どちらが先に開けるのか。楽しみだね」
 童の時のように混じりけのない笑みであった。そのまま十六夜は爽麻を横切って、部屋から出て行く。自身よりも小さな背が、視界から消えても、爽麻はしばらくそこから離れなかった。
 あれは、どちらであるのか。
 いっそ手離してしまえば楽になれることを爽麻は知っている。それで失くしてしまうものも、見てきたから分かるのだ。後者であるならば、最早残された時は僅かである。
 
 
戻る  最初  

月に叢雲、花に

Design from DREW / Witten by 泡沫。 / 2015.11

inserted by FC2 system