どれだけ待っても筆を持つ手は止まらなかった。
 湯呑の中身が空になる度に、如月はそこから出て行き、また戻って来るのを繰り返す。それが六度目になったところで溜息は勝手に出てきていた。恨みがましく視線を送る。彼は集中しているのか、あるいは分かっていても無視をし続けているのか、振り向くことをしない。
 違和を持ったのはいつからだったのか。
 如月は思い出そうとして止めた。そもそもがこういう人なのだ。立ち居振る舞いにしても、口調にしても、向ける笑みにしても、どこかで取り繕っている。上手く隠しているつもりなのだろう。
 甘く見てもらっては困る。
 ずっと見てきたのだ。今更隠しごとをするつもりならば、そうはいかない。
 剣舞の会が終わってからは、西殿から北殿へと部屋を移すことになっていた。誰かが意義を唱えることはない。相応の扱いを受けるのはごく自然であるからだ。とはいえ、如月はこの場所が好かなかった。北殿全体にいえることだが、空気が澱んでいる気がする。他に形容出来るような言葉はなく、ただ思ったままの感想だ。
 とにかくここは忙しない。事あるごとに南殿へと彼は呼び出され、その度に長いこと拘束される。マツリゴトに携わるとなれば、それほどに時を要するということなのか。如月には理解しがたかった。
 その間に如月は西殿へと赴く。月白ツキシロでもある自身の役割は何のことはない、姫君の話し相手だ。姫君はとにかく主のことを聞きたがるので、逐一報告のように話すのが如月の役目だった。気持ちは分からなくもない。彼の身を案じているのは、何も一人だけではないのだ。
 夕餉の時はとうに過ぎている。
 如月が善を運んでこなければ、彼は何も口にしないままになりかねない。空腹を忘れるほどに職務に没頭してしまうのは彼の悪い癖であった。ただ、用意された善は二人前あってもぺろりと平らげる。食欲があるというのに如月は何より安心をした。彼にとっての休息はこれと、僅かな睡眠の時しかないのだ。このままでは休暇を迎えるよりも、身体が壊れてしまうのが先になるだろう。
 普段の如月は申し付けられるまで声を掛けないが、辛抱強く待っていたのもここで限界だった。
「十六夜様。そろそろ、時間です」
 右の手が止まる。振り向きもせず、返事は返ってくる。
「言いたいことは察しが付くよ」
 なのに、首を縦には振らないのだ。その頑固さに如月は少々呆れていた。
「でしたら、どうぞお休みくださいませ」
 慇懃無礼に言い返してみるも、何処まで分かっているのかどうか。如月は声音を変えずに続ける。
「しばらく戻られてないのでしょう? 睦月様も、卯月様も心配されておりました」
「兄上達は心配性だからね」
「そういうことではありません」
「君のその口煩いところは、一体誰に似たんだろうね? うちでは小言を言う者などいないというのに」
 そこでようやく目が合った。
 茶化したような言い方もそうだが、持ち出された話題にも如月は苛立っていた。別段気にすることはないほどの些細なものでも、どうしてか自然と出てきてしまう。如月に一睨みされて、十六夜は困った顔をした。
「分かった。降参だ、如月。だからそんな怖い顔をしないでほしい」
 悪戯を叱られた小童コドモみたいにしゅんとされると、如月の心は揺らいだ。別にそこまで怒っているつもりはない。
「分かって、頂けたなら……」
 語尾を濁せば、十六夜の口の端に笑みが出来ていた。
 やられた。この人は、一枚も二枚も上なのだ。如月はすぐにそれを後悔する。
「でも、今日のところは素直に聞いておくよ。だから安心していい」
 随分と物分りが良い。如月は裏を読もうとして、笑みに偽りはないように見えたので、とりあえずは安堵した。十六夜の微笑は変わらない。
「それに、彼のことも気になるしね。様子を見て来るよ」
 湯呑に手を伸ばし掛けた如月の動きは止まった。
「俺は、夕映姫のところに行ってきます」
 共に来るように促された気がした。だから如月はそれが仕事なのだと答えることで、逃げることにする。顔を見られないようにと、さっと引いた如月に十六夜は散らかった文机を片しはじめた。たぶん、間を空けているのだろう。
「如月は怒っているんだと思ってたよ」
「なんで俺が……」
 心を読まれているような気がしてならない。如月が避けているのに、わざわざ口にする意味があるとも思えない。主がそういう性格なのだと分かってはいても、話はそこで終わらせたかった。
「仲良くなれそうにもないかい?」
「その必要がありません」
 ところがここぞとばかりの追撃は続く。上手く躱したつもりでも十六夜は追ってくる。
「ある意味似ていると思うけど」
「迷惑です。それは」
「そういうところが、だよ」
 分かりました。降参ですと。如月は首を横に振る。
 ちょっとしたからかいならば付き合ってもいい。けれどおそらくはそうではない。
 如月は十六夜から顔を背けて、そこここに粗雑に投げられた書物などを重ねる。何のための資料か如月には分からないが、こうも散らかっているのも落ち着かない。十六夜の手が止まっている今が片付ける好機なのだ。せっかくだから主が不在のうちに掃除もしておこう。とにかくここは埃っぽい。
 十六夜はしばらくそれを眺めて、ふいに声を紡いだ。
「そういえば、」
 如月は顔を上げるがまだ十六夜を見ない。
「君の夢は変わらずに?」
 みなまで言わなくても十分だった。如月は応える。
「同じです。変わりません。それに……」
 繰り返し、繰り返し、それは続く。
 いつからだろうと、思い出せないほどにずっと昔から見る夢だ。感覚も短くなっている。以前よりもはっきりと、視えるのだ。否、見たくもないものを見せられている。
「たとえば、それが変わることは?」
「有り得ません。必ず、形になって訪れます」
 そうして如月は助言を与えて来たのだ。回避出来るものはそれに越したことはない。災いを遠ざけることが可能ならば、そうしたいと願うのが人の性だ。けれど変えられないもある。如月には視えた。忠告のつもりだった。
「如月はおそろしいと思う? 全てが無くなってしまうことを」
 答えは否だ。明日がどうなろうと如月には関係のないことだ。ただ、そこに、その人がいるだけでいい。それなのに――。
 十六夜の手が如月の頭に触れる。これは彼の癖のようなものだ。
 如月もその手が好きだったので、未だに幼子のような扱いをされても、別段嫌がる素振りを見せずにいる。優しい手で撫でられながらも、如月はまた別の人を思い浮かべていた。偉そうに上から説教をしたというのに、不思議と如月の心の中に残ったままだ。
 手離したくは、ない。
 だとしたら、如月に出来ることは一つだけしかないのだ。










 父親は人の頭をくしゃくしゃになるまで撫でるのが癖だった。
 その大きい手で撫でられることは嫌いではなかったけれど、いつまでも小童扱いされるのは面白くはないし、何よりも母親がせっかく結ってくれた髪が乱れてしまう。
 抗議の声を上げてみても、豪快に口を開けては大笑いし、一丁前の口を聞くなと、まるでお構いなしだ。そのうえ、悔しかったら一度でも勝ってみせろと挑発をしてくるので、こちらもついむきになってしまう。
 母親には滅多に会えない。何か特殊な役職についているらしく、それが何であるのか知ることは叶わない。父親も月華門であるためになかなかの多忙の身ではあるものの、暇さえ見つければ、手ほどきをしてくれるので別段寂しくはなかった。それに、もうすぐ弟が生まれるのだ。だからもう少し大人に近づかなければならない。
「お前は俺にそっくりだな。だが、弟はあいつに似るはずだ。きっと美人になるぞ」
 嬉しいような、恥ずかしいような。よく分からない気持ちになったから、素直な気持ちを口にする。
「男なのに美人でうれしいの? 俺だったらいやだな」
「美形ってやつだ。女にはもてる。心配するな。お前は、見てくれは俺と一緒で至って普通だが、男ならば中身で勝負しろ。それに、武術には才能がある。誇ってもいいぞ。俺からの贈り物だ」
 言っていることの全ては理解出来なくても、何となく褒められてはいないのだと、父親の言い方で察した。笑い方にしたってそうだ。父親は続けた。
「弟のことは、お前が守ってやるんだぞ。母さんのこともだ。いいな?」
 そんなの言われなくても分かってる。得意げに頷いてから、次に聞きたかったことを口にする。
「ねえ、名前は? もう決めたの?」
 父親は少しだけ間を置く。教えようかどうしようかと考えているのだ。勿体ぶらなくてもいいのにと、思う。
「ああ。決めてある。母さんが考えた名前だ。それはな――」





 何度目かの呼びかけで、ようやく朔耶は目蓋を開けた。
「ちょっと、ねえ……、大丈夫?」
 不安そうな声が上から振ってくる。上体を起こそうとして朔耶は少し躊躇った。身体が固まったままで、すぐには動かせなかったからだ。
「ああ……。大丈夫だ」
 朔耶は笑って見せた。けれど皐月の顔は曇ったままだ。余程うなされていたらしい。
「でも、顔……真っ青よ? それに、すごい汗……」
 確かに着替えが要るほどに汗をかいていた。顔は自分では確認出来なくとも、声音からすれば相当に酷い顔をしているのだろう。
 朔耶は前髪を掻き分ける。身体を起こしたところで、心配の声は止みそうにもなかった。だから朔耶はそのままを告げる。
「夢を見ていた」
「ゆめ……?」
「ああ。昔の俺だった」
「そう……」
 言葉にすることで懐かしさが這い上がってくるわけでもない。ただ、虚しくなるだけだ。
「着替えを持ってくるわ。身体を拭くものも。それから水も、」
 立ち上がろうとした皐月の腕を、朔耶は掴んでいた。ほとんど衝動だった。
「ここに、いてくれ」
 口から出てきた声も同様に。
 驚いた表情が見える。らしくないことをしている。
「うん……」
 そのまま皐月はぺたんと畳の上に座り込んだ。彼女は急に居心地が悪くなった部屋をぐるりと眺めては、また畳へと視線を戻す。
 皐月は何度なく朔耶のところへと来てくれていた。だから彼女の顔を見ない日はない。
 嬉しくもなる反面、気恥ずかしさも残る。これまでは顔を見合わせれば喧嘩ばかりしていたのだから、どうにも調子が狂うのだ。朔耶は口の中で舌を転がす。話題はどこからでも引っ張り出せるのが、朔耶の特技だ。
「お前さ、」
「な、なに?」
 皐月の肩が飛び跳ねた。その反応は想定してなかったので、朔耶もいくらかびっくりした。一呼吸おいて、動揺したままの顔に目を戻して、朔耶は続きを言う。
「いや、姫様のお付きなんだろ? いいのかよ。こんなところにいて」
 あまりに卑屈過ぎたようだ。眉は下がり、皐月の翡翠色の眸には嫌悪と苛立ちのようなものが宿っている。皐月の黒装束姿もここしばらくは見ていない。薄紅色のウチキは良く似合ってはいても、見慣れないせいか落ち着かないのも確かだ。
「なによ、それ」
 ほとんど小声であった。唇の動きで聞き取った。
「まさか、もうお払い箱になったとか、そんなわけないよな?」
「違うわよ」
 あっさりと返ってくる。声は皐月らしいはっきりとしたものに戻っていた。作戦は成功のようだ。
「あの娘といっしょにしないでよ」
 ところが、そうもいかなかった。
 他人を引き合いに出すような言い方を皐月はしない。どこか嫌味染みた声音もこと珍しいものだ。朔耶は瞬きをして、そこから頭を働かせる。辿り着く前に答えは聞こえてきた。
玉輪ギョクリンよ。あんなに仲睦まじくしてたのに、随分なことじゃない」
 怒っている。これは明らかに怒っている。
 だが、それに心当たりがない。……と、朔耶は言い掛けて、さっと血の気が引いた。一旦止まった汗が、今度は冷や汗に変わっている。
「いや、待て。あれは違うんだ」
 睨み付けられて朔耶は怯む。
「何が違うのよ?」
「いや、だから、あれは誤解で」
「何が誤解なのよ? 公衆の面前で、あんなに堂々と、」
「堂々とじゃない。条件反射だ」
 実際、慌てふためいていた朔耶ではあったが、はたから見れば堂々に見えたらしい。全くもって解せない。だがしかし、反論は逆効果でもあった。
「そんなの言い訳じゃない。どうとでも言えるでしょ」
 一蹴されてしまえば返答に困る。負けた。けれど、朔耶にも言い分はあるのだ。
「別にどうだっていいだろ。そもそも、なんでお前に言い訳をしなくちゃならないんだ」
「なっ……。私だって……!」
 そこで止まった。意外な反応は二度目。それに皐月の頬が心なしか赤に染まっている。呆気に取られたのは朔耶の方だ。喧嘩は慣れっこでもこういうのは耐性がない。
「えー、あーあー、ゴホン。痴話喧嘩ならば余所でやってほしんだけどなぁ」
 割って入ってきた睦月は言葉とは裏腹に、にやにやとした笑いを浮かべている。実に楽しそうだ。
「ち、違いますっ!」
 皐月はそこにあった枕を思いっきり朔耶へと投げつける。
「おい! 俺はまだ怪我人なんだぞ!」
 と、言う朔耶の抗議も無視して皐月はあっという間に部屋から出て行ってしまった。取り残された男二人の何ともいえない微妙な空気に、朔耶は大きく溜息をつく。
「あのさあ、仲がいいのは良いことだけど、お前もうちょっと勉強した方がいいと思うぜ?」
 あんたに言われたくない。
 喉から出て来そうになった声を朔耶は引っ込めた。空気を読めない朔耶はその意図を掴むことは出来なくとも、馬鹿にされているのは分かる。
 睦月はどっしりと胡坐をかいた。暇さえあれば訪れるのは何も皐月だけではないのだ。じろじろと寄越してくる視線が妙に鬱陶しかったのだが、世話になっている邸宅の人の前で流石にそれは言えない。
「にしても、あいつ容赦なかったなぁ」
 まだ塞ぎ切っていない傷にも平気で塩を塗ってくる睦月が恨めしくなった。とはいえ身体の傷自体はもう癒えてはいる。思い返されるのはあの剣舞の会だ。
 朔耶は負けた。それも惜しいところではなかったようだ。その時の記憶があやふやなのは、負った傷のせいだと朔耶は忘れることにしていた。
 朔耶を傷付けたのは他でもない十六夜だった。いくらかの責任を感じたのだろう。だから朔耶はここにいる。傷を治癒したのは十六夜の呪術によるものであり、睦月や卯月などが代わる代わる看病に来ているのだ。
「こんなこと言うのもなんだけどさ、あいつ結構優しいんだよ」
 さいですか。その優しさはどうして俺にはないんでしょうと、朔耶は聞こえないようにごちた。
「だからさ、お前よっぽど嫌われてるんじゃないか?」
 なるほど。容赦のない攻撃を繰り出すところは兄弟とも似ている。ぐっさり刺さった言葉の刃に朔耶はしょげたくもなった。うすうす感じていたこととはいえ、他人に言われるとなればもっと心が折れる。
「いやあ、冗談だって。それよりも、もう傷はいいのか?」
「あ、ああ……。問題はないよ」
 そうは聞こえなかったとして、この際言うまい。朔耶は愛想笑いをした。
 脇腹の辺りを摩ってみるも傷はおろか、痛みも残ってはいない。違和感があるとしたらここしばらく寝たきりだったので、脚や腰にあるくらいだ。
「へえ、やっぱすごいんだな。呪術ってのは。いや、十六夜が特別なのかもな」
 さぞかし自慢の弟なのだろう。さっきから睦月の白い歯が眩しい。
「あいつ、もしかしたら月読なのかもな」
 聞いたことのない単語が出て来たけれど、朔耶が問い返すよりも前に、もう睦月は次の話題へと移っていた。そこから睦月のお喋りは止まらなくなるが、何も今にはじまったことではなく、だから朔耶がそれを知るのはもう少し後のことだった。
 
 
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月に叢雲、花に

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