夕刻になってもやはり夏の暑さはそのままに、この人の多さとなればそれも余計に暑苦しいだけだ。
 千尋はあえて親友を誘わなかったが、それは正解だったようだ。彼は人の多いところを特に嫌う。この琉翠りゅうすいで領主となる前からのはなしだ。
 東の姓を持つ者だからか。それであれば千尋も同じ、されどそこまで煩わしいとは思わないのは、千尋が都の人間だからだ。
 幼なじみであり、親友であり、従兄弟であり、千尋と頼次は同じところで共に育ってきた。否、正確にいえば違うもの、千尋と頼次の間には身分という名の壁が存在する。それこそ小さい頃には知らなかった言葉だ。
 吊るされた橙の果実も、鮮やかな緑の茎も葉の色も、綺麗だとは思うが、別段珍しいものではなかった。
 都にだってあるものだし、祭りにしてもこことは比較ものにならないほど盛大に行われる。大人たちにしっかりと手を握られて、しかし少しの隙の間に子どもたちだけで楽しんだお祭りは、もう記憶には古いものだった。
 行き交う人の顔はみな、穏やかでやさしいものばかりだ。どこを歩いていても肩と肩がぶつかることもない。そういう国なのだ。この琉翠という国は。
 そこに住む人は生き急いでなどいない。確かに、住みやすい国だと千尋は思う。
 山に行けば山菜が豊富に取れ、また潮の流れが緩やかな海へと出れば新鮮な魚介も取り放題だ。ほどよく降る雨は田や畑に恵みをもたらし、作物も育ちやすい。都から遠く離れていたとしても、けしてさびれている訳でもなく、華やかさはなくとも飢えの心配はないだろう。それが、頼次の国だ。
 けれど彼がいようがいまいが、この国は何も変わらないのだ。形だけの領主。東の姓を持つ彼は、少なからず疎まれている。
 目に見えて邪険に扱われることはなくとも、嫌悪というものは隠せはしない。どんなに居心地が悪かろうとも、彼はここで生きていかなければならない。ただ、それは同情するに値しなかった。
 香ばしいかおりがするのは焼きたての鮎だ。程よい焦げ目は食欲を誘う。屋台から元気のよい声も聞こえてきて、もう少し進んだところではよく冷やした野菜を売っている店も見えた。胡瓜に唐柿とうがきに、どれも美味しそうだ。水飴を売る店には子どもが群がっているし、観賞用の鬼灯もたくさん並べられている。
「なにか欲しいものがあったら言っていいよ」
 隣を歩く少女に声を掛ける。見上げてきた幼い顔はきょとんとしていた。
「遠慮しなくてもいいよ。どうせ、後で頼次に請求するし」
 千尋が白い歯を見せても、彼女は首を横に振るだけだ。視線は色んなものを追っているくせに、それと物欲はまた違うらしい。
 それにしても変わった子だと、千尋は思った。少なくとも千尋の周りでは見ない人種だ。
 年頃の娘にしては背も小さく、それらしい膨らみも見えないし、何よりも顔が幼い。こちらから話し掛ければ受け答えはするけれど、自発的なものはほとんどない。表情にしても乏しいもので、無に少しばかり色を足しただけのものは味気なく感じた。一体、どこで拾ってきたものやら。親友は昔からそういうところがあるのだ。
 都では不浄なものは排除されるのが常だ。
 例えば流行病を患えばそこから追い出され、罪人はほとんどが島流し、野生の動物は穢れとされているから人々は近づかない。それでも、何も知らない子どもにとっては捨てられた可哀想な動物だ。
 当然、拾ってこようものなら大人たちに叱られてしまう。捨て置こうと言ったのは千尋で、泣いて嫌がったのは汐莉、頼次は頑なに意志を曲げず、取り上げられて結局は泣いた。
 憐情と正義感と、同じ気持ちを今でも親友が持っているとは、千尋には思えない。何かの気紛れにすぎないのなら、はじめから手を差し伸べなければいいのに。どうせ、救ってもやれない。
 だから頼次はここにいて、だから千尋と汐莉は大切な人を失った。
 黒くて、どろりとして、思考から離れないこの感情に名を付けるとしたらなんだろうと、千尋は思わず口元に浮かんだ笑みをそのままにする。
「ゆずっこはさ、欲がないんだ?」
「欲?」
「そ。何も望まない? 欲しいと思うものはないの?」
 その純真な黒の眸に映るものを知りたくなる。
「……ある。けど、言わない」
 千尋は正直に驚いていた。
 拾われた子犬にしてははっきりとしたことを言う。人間であれば自我を持つのは当たり前のこと、けれどこの少女に至ってはそれが見えないように思えたのだ。それとも、頼次がそうさせたのか。
「どうせ、手に入らないんだから、止めておけばいいのに」
 つい思ったことが口から出てしまった。そうして、千尋はもう少し意地悪がしたくなった。
「ね、ゆずっこ。こんなとこにいないでさ、俺と一緒にもっと広いところに行かない?」
「いかない」
「きっと、楽しいと思うんだけどなぁ」
「そんなのいらない」
「ふぅん、そんなに頼次がいいんだ?」
 気に入らない色だ。千尋は舌打ちしそうなところを口の中で留める。
 警戒心が強いのははじめからで、その反応を楽しんでいるだけ、苛立つことなど何もないはずでも、千尋にとっては目障りなのだ。何が少女をそうさせているのかが知りたくなる。思慕。いいや、そんなものではないはずだ。
「勿体ないなぁ。都に行けば、今よりももっと楽しいことあるのに」
 とはいうもの、千尋はこの会話に飽きていた。それは、何気なく放った声だった。
「……かない」
 ただでさえ楪の声は小さくて聞き取りにくい。その上、千尋は速度を変えないままに歩いていたから、すぐには気がつかなかった。
「……あれ? ゆずっこ?」
 振り返ってみれば、数歩ほど後ろに少女は立ち止まっていた。千尋は距離を詰めたが、楪は威嚇の目を向けるだけだ。そして――。
「行かない。行かない! 都になんて、行きたくない!」
 これまでで一番大きな声を出して、少女は千尋とは反対の方へ走り去ってしまった。ほどなくして、その姿は人の波に呑まれて見えなくなる。
 千尋は後を追いかけて止めた。厄介なことになったとしても、自分には直接関係がない。何故ならば、あれは他人の子だからだ。










 我ながらこれは過保護が過ぎると、頼次は思った。
 千尋を信用していないわけではなくても、かといって信じきっているわけでもない。どちらが本当の気持ちか。頼次は認めずにいる。
 祭りで賑わっているこの中で、人ひとりを捜すのはなかなか大変のようだ。波に流されつつ、それもいちいち顔を見ていかなくてはならないのだから、きりがない。だが、この人の多さでは領主に気がつく者もおらず、それだけは幸いか。とにかく、根気よく捜すしかない。
 それも小一時間ほど続ければ、疲れてしまった。
 頼次は杞憂であったと思い込もうとする。そう。疑っているのは、頼次が千尋に対して思うところがあり、それはまた千尋にしても然り、それに関係のない楪が巻き込まれるのが嫌なだけだ。
 それも止めにしよう。そう、思い掛けたその時に、頼次は一人の娘を見た。
「頼次……」
 気まずいのはお互い様だ。あれから日が空いてとして、深まった溝が埋まるわけではない。
 汐莉は頼次と目を合わせずにいる。頼次も同じようにした。
 丁寧に結わえていた濃茶色の髪は今日は下ろしていて、おしろいもはたいていない。でも、その方が汐莉らしい。そんな彼女が欲しがるような声を、頼次は出さなかった。否、出せなかったのだ。
「千尋と、楪は?」
 一緒にいるはずの二人の名を出せば、汐莉はもう少しきまりの悪そうに眉を寄せた。
「あの子もいっしょだなんて、兄様が勝手に言い出したことだから」
 どうやら、千尋が勝手に言い出したことのようだ。それならば、仲直りもしていないし、会ってさえもいないのかもしれない。
「……あの子のこと、捜しているの?」
「心配だから」
 理由を問われたような気がして、頼次はそのままを応えた。汐莉はどこか悲しそうな笑みをする。
「そう……。でも、あなたの心配するようなこと、ないわよ」
「そんなこと分からない」
「心配性なところ、変わらないね。ねぇ、それって、あの子のこと? それとも、兄様のこと?」
「それは……」
 おそらく、両方だ。
 頼次は口の中だけで応える。どちらとも頼次にとっては他人ではない存在だ。汐莉も分かっていて訊いている。目尻は下がっていて、唇は笑みの形をしているのに、また泣いてしまいそうだ。
「私、恨んだことないわ。あんなことがあって、すごく悲しかったけれど、でも……、そんな風に考えていたことはなかったの」
「知ってる。だけど、怒っていた」
「そうよ。だって、あなたは見ようともしなかったもの。私のこと、兄様のこと、澪様のことも。……なのに、なんだかおかしいわね。あなたは、少しだけ前とは違うように思えたの」
 前みたいに感情的ではなく、汐莉は言葉を選び抜いてから声に出している。
「そんなことは……、」
「あなたが否定をするなら、それでもいい。でも、私は……」
 汐莉は胸の前に手を当てた。声が震えてしまわないようにと、そんないじらしさが伝わってくる。
「私、もうやめるわ。追うのはやめる。それは過去のことなんだって、ちゃんと認める」
「汐莉」
「謝らないでね。お願いだから。じゃないと、私、きっと前を向いていけないから」
 話をするべきだと、頼次は思った。
 こうして、人と向き合うことを、随分長いことしていなかった。逃げる方が楽だったからだ。
 千尋も汐莉も、会いに来てくれたのだ。それなのに、厭わしさすら感じていた自身を頼次は恥じる。
 汐莉は、微笑んでいた。そんな顔をされたら、もう声を紡げなくなる。だから、せめてこれが最後にならないように、次に会う時には互いに本当に笑えるように。頼次はそんな表情を汐莉に向けた。  
 
 

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