東の空に月が浮かんでいた。群青の色に落とした白は美しく、今宵は篝火も必要もないほどに明るい。
 頼次は人の波を掻き分けて、やがて川沿いへと辿り着いた。祭りを楽しんでいた恋人たちで溢れている。まさかこんなところにいないだろうと思いつつも、頼次は足を進めていた。穏やかな水の流れを追っていけば、このまま行けば海に出るはず、次第に心は杞憂であったのだと、そちらへと傾いていく。しかし、その先で見た姿に頼次は目を瞠った。彼は、一人だったのだ。
「なんだ、結局来たんだ」
 変わらない口調で、それでいてそのままの笑みで、千尋は言った。
 嫌な感じだ。頼次は警戒する。それよりも、何よりも、頼次の口から出たのは少女の名だった。
「楪は、どこ?」
「なに? それが心配でわざわざ来たわけ? 物好き、」
「質問に答えろ」
 頼次は苛立ちを隠さない。千尋は一瞬、驚いたように目を大きくしたが、それもすぐに消した。
「帰ったよ。充分楽しかったってさ」
 片目を瞑ってみせた千尋に半ば詰め寄るように頼次は言う。
「千尋」
「気に入らないんだよね」
 そこで千尋の唇から笑みは消えた。
「随分とシアワセそうじゃない? そーゆーの腹が立つっていうか」
 これは、これこそが千尋の本音だ。
 頼次は歯噛みする。千尋の目は冷え切っていた。
 二人は近しい者だった。今もそのはずだ。けれど、少なくともこの目は、親友に幼なじみに、従兄弟へと向ける顔ではない。
「お前はさ、頼次。傷ついて、苦しんで、悲しんで。それでも何も出来ずに流されて、可哀想ですって顔をしてさ。でも、誰にも同情されずに一人さびしく生きて、それで死んでいくんだ。それがお似合いっていうか、それがお前だろ?」
 憎しみだった。もしくは怒り、千尋は感情的に物を言い、頼次は言葉を返さない。唇を動かさずに、ただ、じっと千尋の声を聞くだけだ。
「罪を償う? 洗い流す? そんなこと、出来るわけない」
 好き放題に言われたところで憤りを感じることはなかった。虚しくなるのは何故か、頼次は自らの心に問う。
 そうして、千尋の声を口の中で同じように繰り返してみて、そのとおりだと、頼次は思った。
 汐莉は恨んではいないと言ったけれど、何も感じてはいないとは言わなかった。現に千尋は、怨嗟と憎悪を露わにする。それが自然な感情だろう。
「そうだよ。俺は。だからここにいる。変えようとは思わない。お前が俺をどう思おうが、好きにすればいい。でも……、もう失いたくはないんだ」
 頼次はもう少し千尋へと距離を近付ける。先ほどまでいた若い男女の姿も今はほとんど見えなくなっていた。それほどに二人の声は大きくなっていたようで、あるいは剣呑な雰囲気を見れば、近付きたくはなかったのか。
 千尋は声に出して笑っていた。そのほとんどが皮肉だ。だから、こんなにも冷たい目をする。
「なにそれ? 勝手なことばかり言うよね。そんなに大事なんだ? あの子のこと。じゃあ尚のこと、傷付けてやりたくなる」
「あの子は関係ない」
 言を遮って、頼次は語気を強めた。一番聞きたくなかった声だ。頼次は話をするつもりで来た。千尋と向き合うために。けれど、次第に冷静さを保てなくなっていた。
「楪には関係ない。彼女を巻き込むな」
「そうそう。その眼、見たかったんだよね」
 次の瞬間、頼次は拳を振り上げていた。
 手に相手の肉がめり込む感触は気持ちが悪いものだった。はじめて人を殴った。その後悔が這い上がってくるよりも前に反撃がくる。最初の一発は甘んじて受けた。
 痛みよりも激情の方が大きかった。もしかしたら怒りがそれを忘れさせているのか。頼次は千尋に掴み掛かり、今度は足を使って脇腹の辺りを思いきり蹴った。千尋は咳き込みながら膝をつく。それでも興奮が収まらない頼次は千尋に殴りかかろうとし、されど相手の肘が頼次の鼻を打った。
 どろりと液体が垂れてきて袖で拭っている間に、千尋が飛び掛かってくる。頼次は体当たりをしたものの、千尋と一緒になって地面に転がった。こうなればもう酷いものだ。殴って、殴られて。馬乗りになった頼次は千尋へと拳を放つ寸前で止めた。相手も体力の限界だったのか、もう反撃はこなかった。
 しばし互いの荒い息づかいだけとなる。血と汗のにおいと、それから遅れてやってきた痛みとで、頼次は眩暈がした。
 二人を残して他は誰もいなかった。この騒ぎに捕吏ほりを呼びに行ったのか。領主が暴力沙汰を起こしたとなれば、これはさぞかし大事件となるだろう。それは困ると、さすがに頼次は冷静を取り戻していた。
「鼻、拭けば……?」
 殴った相手に言う声ではない。しかし、千尋の声色は戻っていた。
 頼次は袖で鼻を拭う。生憎、手巾を持ってなかったので血止めとなるものはなかった。
「……俺は、お前に恨まれていても、いいと思っていた。一生そのままでもいいと、償うべきだと思っていた」
 千尋の胸倉を掴んだまま、頼次は続ける。
「分かっているよ。全部、俺のせいなんだって。俺さえいなければ、こうはならなかったんだって。お前の父上だって死ななくても済んだ」
「やめろよ! ……今更、そんなこと言ったって、何にもならない」
 千尋はほとんど叫ぶように言った。
 聞きたくなかった声に違いない。頼次も言うつもりはなかったのだ。
 恨まれてもよかった。憎まれていてもよかった。そんなのは、嘘だと。頼次は今になって思う。
「じゃあ、俺が死ねば、許してくれたのか? お前は……」
 千尋は応えない。
 氏族の子として生まれた時から跡目争いはつきものだ。東の姓を持つ者ならば、尚のこと。
 頼次には母の違う兄がいる。何の取り柄も才能もない頼次とは違って、優秀な兄だ。誰がどう見ても兄の方が当主には相応しく、よからぬ考えを持つ者などいなかったはずだ。
 千尋と汐莉の父親は、頼次の側近、つまりは幼い頼次の教育係だった。彼が頼次に教えたのは、人が人として生きていくために必要なことだけで、氏族の子として学ぶべきものは何一つとして教わらなかった。それが、どうしてあんなことになってしまったのか。理解が出来ないほどに頼次は幼くはなかった。
 いわば見せしめだったのだ。千尋と汐莉の父親は、その犠牲となったのだ。
「兄上は情のない人だ。俺は、あの人がおそろしい。だからここにいる。いや、違うな。逃げてたんだ。お前から、汐莉から、責められるのがこわくて……」
 頼次は千尋からやっと手を離す。
「でも、それじゃ駄目なんだ。やっと分かった。何も変わらない。俺だけじゃなかった。お前が、いつまでも傷ついたままだ」
 沈黙はそれほど長くは続かずに、千尋は頼次を押しのけるようにする。落ちた嘆息は何を意味するのか。頼次がその意味を追うよりも前に、千尋は笑った。
「なに、それ? 懺悔の後は、偉そうに説教がしたいわけ? 俺は、」
「違う! 俺は……お前に、許されたい」
 その一言が何年も言えないまま、そうして二人の距離は空いたままに。
 癖のある笑みが見えたかと思えば、それはすぐに消え、千尋は立ち上がった。
「千尋、」
「許さないよ」
 顔を見ないまま千尋は言った。
 頼次に蹴られたところが痛むようで、千尋は腹を抑え、足を引き摺るようにして歩を進める。その後ろ姿は後を追うことを許さないように。けれど、まだ声が届くところで、千尋は言った。
「許すもんか。許してしまったら……、もう、会いに来れないじゃないか……」










 蝉の声が聞こえる。
 暑さは午後になれば増すばかりで、こんな中で寝ていたものだから身体は特に重い。頼次は畳から身を起こした。
 額から首筋へと流れてくる汗が引く気配はなく、風呂に入ってさっぱりしたいところだが、それにはまだ早い時間だ。ともあれ、喉が渇いたので、頼次は台所へと向かうことにする。起こしにこなかったということは、吉乃も徳之輔もどこかへ出掛けているのだろう。
 休暇を貰って三日目、顔の腫れは引いたものの、なかなかに酷い顔だ。当然、これでは外へも出られない。医者を呼んだところで大騒ぎとなるだけで、吉乃に手当てをしてもらった後は、屋敷に籠りきり、頼次は暇をしていた。
 されど、頼次の二人の従者は多くを問わなかったし、頼次も訊かれないことをわざわざ口には出さなかった。
 喉を潤した後に、頼次は見たのは少女の姿だった。今日は庭の花に水やりをしているらしい。
 手伝いを申し出たところで、「怪我人は大人しくしていて」と、冷たい一言が返ってきた。頼次は嘆息する。あれほど心配したというのに杞憂であったようで、楪は一人でこの屋敷に戻って来ていたのだ。
 頼次はしばらく少女の動きを見ていた。
 怪我をして帰ってきた頼次に一番驚いていたのは楪だった。それからしばらくは頼次の側から離れようとせず、けれど少女もやはり何があったのかを問わなかった。
 不思議な子だと、頼次は改めて思う。何らかの感謝のような言葉が出てきても、頼次はそれを上手く声には出せなかった。
 無関係ではなかった。こんな風に、頼次が感情的な言動を取ることはなかったのだ。それが、どんな意味を持っていたのか。頼次にはまだ分からないのだけど。
「色男が台無しだね」
 千尋は勝手に屋敷に入って来て、勝手に頼次の隣に腰掛けた。二人で縁側に並んだところで珍しいものは何もない。そこに楪がいるだけだ。
「お前の方こそ」
 頼次は右に、千尋は左に。作った青痣を指差し合えば、二人は声を上げて笑った。それがあまりに大きな声だったのか、楪は頼次と千尋を交互に見ていた。
「仲直り、する?」
 それに肩を竦めたのは千尋だ。
「嫌だね。俺は、悪くない」
「俺も謝らない」
 二人は別々の方を向いた。
「子どもみたい」
 楪は呆れたように言って、またすぐ水やりを再開する。青いのが桔梗で紫色は紫陽花、橙の花の名を頼次は知らないから尋ねてみるべきか。そうした少しの時間で、千尋は腰を上げていた。
「……帰るのか?」
 この日、汐莉は来なかった。けれど、千尋と汐莉が帰る場所は一つだけ、遠く離れた都だ。千尋は唇の端を上げた。
「またね、頼次」
 別れの言葉を頼次は言わなかった。会いに行くことはなくても、会いに来てくれるかもしれない。だから、頼次は声を飲みこんだ。そして、本当は訊きたかったことも言わないままに。そこで千尋は振り返った。
「そうだ。澪、会いに来ると思うよ」
 おそらく、これを伝えるために、千尋は都から琉翠りゅうすいまで来たのだろう。彼女の現在いまを、頼次に届けるために。
「離縁されたんだ。雅貴様に」

 

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