「ごめんなさい……」
 何に対しての謝罪なのだろう。頼次は少しだけ間を置いて思考へと費やした。次に出てくる言葉次第では、こちらの反応もまた違ったものになるからだ。
 けれど彼女はそれ以上声を紡がずにいる。送られてくる視線で、やっと何を意味しているのかを頼次は理解した。それは同時にある種の不快感へと変わる。
「あぁ、平気。別にこれくらい」
 感情を伴わないものは酷く味気なく残った。汐莉の濃茶色の双眸がより悲しいものへと変わっても、頼次は見て見ぬふりをする。
 畳の上に置かれた汐莉の手が細かく震えていた。肌が白いので、赤く腫らした頬は痛々しいほどに目立っている。頼次はまだ汐莉の目を見ない。だから、汐莉も泣くことが出来ない。
 自分と千尋の後をいつも付いて来ていた幼い少女の姿を思い出す。膝を擦りむいても、泥だらけになっても、または置いて行かれても、それでも涙など見せたことのなかった少女は今ここにいる。上品な色の着物も結わえた髪の毛も、色付いた唇も、丸みを帯びた肩も女性特有の膨らみも、それは少女が大人へと変わった何よりの証だ。
 随分と綺麗になったなと、頼次は思う。けれど、けして口からは出さなかった。
 時の流れは早いもので、五年という年月の間に色々なものを置いて来てしまったのだろう。
 千尋も汐莉も、もう自分の知らないところへ行ってしまった。近くて遠い存在だった。それでも変わらないものだと信じていたというのに。二人とも、もうどこにもいないのだ。一度空いてしまった距離は、もう二度とは戻らない。
 沈黙の中で様々な感情が行き来していた。
 平気だと、汐莉にはそう答えたけれど、とっさに割って入ったために身構える間もなかった。痛みこそは引いたものの、口の中は鉄の味がする。すぐに治るものだからそれは気にはしない。しかし頼次は怒っていたのだ。
 仮に先に手を出したのが楪だったとしても、どうしても許せなかった。あの子はまだ子どもだ。頑固で融通の利かないところもあって、意思の疎通も下手で、他人と上手く対話が出来ないこともしばしある。それでもあんな風に手を上げていいという理由にはならない。
「どうして、叩いたりしたの?」
「ごめんなさい。私……」
 汐莉が、何の理由もなく人を傷つけるような人ではないのを、頼次はよく知っている。汐莉はやさしい子で、人の痛みが分かる人だ。余程気に障ることでもあったのだろう。それでも――。
「楪は、あの子はまだ子どもだ。たとえ話が噛み合わなくとも、上手く伝わらなくても」
「ち、違うわ! 私そんなことしてない! だって、あの子」
 否定の叫びは虚しく響き渡る。汐莉はそこで声を詰まらせて、頼次から目を外した。零れてきた一筋の涙を見せないようにと袖でそれを隠す。
「子ども、なんかじゃないわ。あの子。だって、言ったのよ、私に」
「だとしても、俺はそれが正しいとは思わない」
 思った以上に責める声で出てきた。彼女とて、それを正当化しようとして訴えているのではないのかもしれない。
 行き場のない情緒はぽつりぽつりと雫となって汐莉の膝へと落ちていく。泣かせてしまったのは自分だ。けれど何をどう彼女に言っていいのか分からずに、頼次は言葉を見失っている。
「どうして、あの子なの?」
 眸に宿す色は酷く悲しい。
「ねぇ、どうしてなの? 頼次。澪様ならともかく、どうしてあんな子が」
「汐莉」
 聞きたくはない。それ以上は。
「どうして欲しいんだよ。俺に」
 目をしっかりと合わせて、それで答えを望むのは、そうするべきだと思ったからだ。
「なによ、それ……」
 汐莉の口の端に浮かんだものは笑みであっても、それは心とは別のものだった。
「俺は、俺ではお前を幸せには出来ないよ」
 いつかは言わなければならなかった。
 頼次は一度瞼を閉じた。少年の頃の自分と千尋と汐莉の姿が返ってくる。懐かしくてやさしい思い出は、もう手を伸ばしても、望んでも手には入らない。
「嘘つき。私があなたの従妹だから? 違うわ。それだったら澪様だって同じだもの。あなたは勇気がないだけよ。雅貴様には逆らえない。そうでしょ?」
 捲し立てるように汐莉は言う。こんな風に人を責めることをしない人だ。だから、これは最初で最後。
「そうだよ。俺には勇気がない。でも、たとえ許されたとしても、俺はお前を……」
「何よそれ。知ってる。知ってるわよ、そんなこと」
 声に乗せるのは怒りの他ならない。汐莉の眸は真っ直ぐに頼次を捉えて離さない。
「叶わないことなんて知ってる。あなたの心の中に、今もあの人がいることなんて知ってる。それでも、それでも私は……」
 泣く声、叫ぶ声、悲しい声。頼次の耳を打ち、離れない。
「なによ、頼次の人でなし!」
 ありたけの想いは、しかし届くことはなく。
 汐莉は最後にそう言い残して出て行ってしまった。
 声を返すこともせず、立ち上がることもせず、追いかけることもせず。またそうするべきではないと、頼次は重たい息を漏らした。
 部屋に残された香のかおりは懐かしく、何の花だったのだろうと思い返す。どれだけ思考を巡らせても、答えには行き着かなかった。










 お米の炊けるにおいとあったかいお味噌汁のにおい。
 湯気立つ台所にちょこんと座って、楪は夕餉の支度に追われる吉乃の動きを眺めていた。
 ぐーっとお腹の虫が鳴った。口の中はなんだかざらざらするし、両のほっぺたもまだじんじんとして、熱くて痛い。手の平だって赤くなったままで、痺れが残っている。こんなにまだ痛いのだから、相手だってまだ痛いのかなと思ったけれど、自分は悪くないと楪はすぐに考えないことにした。
「今日は鯵が安かったんですよ」
 嬉しそうな吉乃を見ると、楪もなんだか嬉しくなってくる。
 いつもだったらあれやこれやと手伝いをするのに、今日はその申し出を断られてしまったからすることがない。魚の焼ける美味しそうなにおいにまたお腹の虫が鳴った。
「ねぇ、吉乃はけんかをしたことがあるの?」
 頬を真っ赤に腫らした楪を見て、吉乃は驚きはしたものの、客人のことを少し話したそれだけで悟ったようだった。楪は喧嘩という言葉をはじめて知った。吉乃の反応からすると、あんまり良い意味ではないらしい。
「ええ、もちろんですよ」
「それは、どんな時?」
「そうですねぇ。気持ちが上手く伝わらなかった時や、相手に嘘をつかれた時ですね。ま、それは主人相手だったのですけどね」
 言って、吉乃はどこか寂しそうに笑った。それはもうきっといない人のことなのだと分かって、楪も少しだけ寂しい気持ちになってきた。
 土鍋にぐつぐつと煮える野菜をかき混ぜながら、吉乃は続ける。
「それから、恋敵とだって喧嘩をしましたよ。それこそ楪様と汐莉様のように殴り合いの喧嘩だってしたものです」
 面白おかしく言われたらなんだか居心地が悪くなる。口をへの字に曲げた楪を見ないまま、吉乃は続けた。
「楪様も、汐莉様も。お二人とも、本当にまっすぐで自分の気持ちに正直で」
「汐莉はよりのこと、すき? だから怒ったの?」
「そうですねぇ。でもね、楪様。一番大事なのは、自分の気持ちです。心の中に問いかけてごらんなさい。見えなかったものが少しずつ見えてきますから」
 答えのようで答えじゃない。
 なんとなくもどかしい気持ちでいっぱいになる。
 静かに自分の心に喋りかけてみても、そこには色がなくて何も見えてはこない。
 すき。だからいっしょにいたいと思う。でも、それは吉乃だって徳之輔だって同じだ。二人ともとってもやさしいから、楪は二人のことがすきだと思う。
 でも、どうしてだろう。上手くは言えないけれど、似ているようでそれとは違う気もする。
 そこに色付くは純真で清らかで、それでいて時に激しい炎のように鮮やかな感情。楪が、それを意識するのはもっと後だ。
 じきに嵐が来る。そうして、嵐が去った後で、楪はまた自身へと問いかけることになるのだ。
 


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