二つ歳が上というだけで、随分と大人に見えた。
 幼い頃からずっと知っている人。けれど兄とは違うし、近しい間柄だとしても、その距離が縮まったことは一度たりともない。近くてとても遠い人。身分がそうさせるのではなくて、遠いのはあの人が一度も自分を見てくれなかったからだ。
 春には桜を見に行った。都を彩る桜は優美で、でもどこか物悲しくて、見るとなんだか寂しい気持ちになったのをよく覚えている。夏には屋敷を抜け出して、虫を取りに行ったのも懐かしい。秋の紅葉も、滅多に積もらない冬の雪の日に遊んだのも、大切な思い出だ。
 近づけないのならば、せめてずっと一緒にいられたらと、そんな風に思っていた。そのささやかな願いでさえも、ついに叶わなかったのだ。
 門扉の前で深く息を吸い込む。高鳴る胸の前に手を当てて、汐莉しおりは最初に出す言葉を口の中で用意する。
 少しの勇気があればいい。そうすればきっと前に進めるはず、緊張などしなくてもいいのだ。
 いつもは下ろしている髪の毛も今日は結い上げて、とっておきの簪を挿している。兄とお揃いの濃茶の髪の色はあまり好きではないけれど、生まれながらに持ってきたものを今更言っても仕方ないし、お気に入りの若葉色の着物だって、きっと地味ではないはずだ。顔にはおしろいをはたいて、口元には薄く紅をさして。普段とは違う姿に自分でも違和感を覚えた。それでも、汐莉が見てほしいと思う人はただ一人。その口から出てくる言葉を聞きたいだけなのだ。
「ごめん下さい」
 思ったよりも声は小さく出て、それは当然中までは届かない。
 汐莉は深呼吸をし、次はもう少し大きい声を出した。返事はやはり返ってこなかった。
 じりじりと容赦のない夏の太陽は照りつけてくる。風もほとんどないから熱気と反射する陽光が暑くて堪らない。ただでさえじれったい心を掻き乱すのは夏を謳う蝉の声。
 今度は溜息交じりの息を吐き、意を決して汐莉は扉に手を掛けた。あっさりとそれは開いて、やはり留守ではなかったのだと安堵する。遠慮をする間柄でなくとも、返答もないのにこのまま勝手に侵入するのはいささか気が引けるところだが、このまま待っていたところで埒が明かない。変なところで生真面目な自身を叱咤しつつ、汐莉はその一歩を踏み出した。
 屋敷の中は思ったよりも広い。本家のお屋敷に比べたらずっと狭いものだけど、三人が暮らすには十分過ぎるくらいだ。使ってない部屋が幾つもあるようで、戸が開け放たれた味気のない畳の部屋ばかりだった。塵一つ落ちていないのはきっと吉乃がいるからだろう。
 横切って、前へ前へと進む。建物に負けないくらい広い庭には芙蓉の花に撫子の花が咲いている。青の桔梗に朝顔の花もとても綺麗だ。橙の目立つ色の花は凌霄花のうぜんかつらだろうか。どれもみな手入れが行き届き、いつまで眺めていても飽きはこない。
 そういえば花の世話は徳之輔の趣味の一つだったのを思い出す。人は見かけによらないとはいうけれど、まさしくそうだと思って、汐莉は口元を綻ばせた。
 ともあれ、そのどちらともまだ出会わない。本当に留守だとしたら、施錠をしないまま外出するのはいくらなんでも不用心過ぎる。この琉翠の国は治安のよいところだと聞いてはいたものの、それにしてもだ。
 なんだか次第に悪いことをしているような気分になってきて、汐莉は帰りたくなってきた。こんなことならば次の日には自分も行くのだと、兄に伝えてもらえれば良かったのだ。そもそも一緒に来ればもっと話は早かった。それも変な意地を張ってしまった汐莉が悪い。
 ここまで来て引き返そうとした汐莉の目に飛び込んできたのは、子どもの姿だった。
 庭でしゃがみ込んでいるのは一人の少女。その黒の眸と目が合った時、汐莉はたしかに嫌な予感がした。
「あの、ここは頼次の屋敷、よね?」
 何から訊けばいいのか、他に言う言葉も見つからずにたどたどしく汐莉は問うた。
「そう」
 返ってきたのは色気も何もない声だけ。表情にも色はない。
「頼次は、どこなの?」
「おしごと」
 話は通じるみたいでよかったと汐莉は安心する。最初に見た時は、なんだか人の言葉が通じるかどうかも不安だったのだ。
 じろじろと寄越してくる視線は子ども特有の好奇心のようでいて、また違ったようにも見える。
「あ、あなたは誰なの?」
 とりあえず思ったままを口にする。それには応答はなく、きゅっと一文字に結ばれた唇の動く気配もない。特別華のある顔立ちではないけれど、可愛らしいというか綺麗な子だと汐莉は思った。そこには愛想などなくても、それすらも魅力的に見える。
 いつまで待っても声は返ってきそうにない。だから汐莉は仕方なく自分から名乗ることにした。否、最初からそうするべきだったのに、何故か言えなかったのだ。
「私は汐莉よ。頼次の」
「いもうと。千尋の?」
 遮られた上に、逆に問いかけられて汐莉はびっくりする。
「そう。千尋は私の兄」
 父も母も同じだけど似ているところなどない。顔も性格も違う。同じなのは濃茶色の髪の色だけだ。
 だから言い当てられて汐莉は腑に落ちなかった。何故、兄はこの少女の存在を教えてはくれなかったのか。釈然としなくとも、兄はそんな掴みどころのない性格だからと、汐莉は無理に納得をする。
 それにしても少女は動きを変えない。膝を抱えた体勢のままで、じとりと視線をこちらに送るだけだ。
「ねぇ、そこで何をしているの?」
 汐莉は気になったことを率直に訊いて縁側に腰を掛けた。他に誰もいないならこの少女と会話をするしかないだろう。
「お花、見てたの」
「ふぅん」
 たしかに庭に咲く花は見事なもので、先程汐莉も感心したばかりだ。しかし気になったのはそこではなく、その言い方は余所の子どもではないように聞こえた。実際そうなのだろう。知らない子どもが勝手に入り込むなんて有り得ないのだから。
「それで、あなたは何なの? 頼次の何? どういった関係?」
 早口で言ったのは、少しだけうしろめたかったからだ。
 汐莉の声は強かった。言い方にしても子ども相手に大人げないもので、しかし口は止まらなかった。そう。女の勘はそれを許さない。たとえ相手が子どもでも、引くわけにはいかないのだ。
「そんなの言いたくない。ナニとか、カンケイとか」
「なによ、それ」
 見縊っていたわけではないから余計に腹が立つ。汐莉は声を震わせた。少女はそれを全く気にせずに、また口元だけを動かして繋ぐ。
「だって、よりはここにいていいって言ってくれた」
「それはあの人がやさしいからよ」
「知ってる。よりはとってもやさしい人。だからすき」
「こ、子どものくせに、何言ってるの。頼次のこともよく知らないくせに」
「わたしは子どもじゃない。それに知ってる」
「嘘よ。あなたが頼次の何を知っているというの? 私だって」
「嫉妬、してるんだ? 私に」
 感情が突き上げてくる。身体はあっという間に熱くなった。この感情は炎だ。
 ぐっと拳に力を入れたかと思うと、汐莉は裸足で庭の土を踏み少女の前へと進んだ。そのまま腕に掴み掛かったというのに、少女がそれに驚きもせず、またそれがかえって汐莉の心を荒立てていた。
 熱情は形となって現れる。気がついた時には汐莉は少女の頬を思い切り叩いていた。じいんと、自らの右の手の平に走った痛みに、やっと我に返っても遅かった。まだ子どもだというのに手を上げてしまった。たちまちに自己嫌悪の嵐がやってくる。悪くはない。この子は、何も。これはただの醜い情の塊だ。
 謝罪を言うはずだった。けれど汐莉の口は動かずにいる。目も、そこから逸らせずに、後悔だけがこの胸を支配する。
 少女が顔を上げた。目と目が合えば、汐莉の心臓の音は大きくなっていた。
 黒の眸の中に見えたものははっきりとは分からない。けれど、何かが違うと思った。目の前にいる少女は同じ人のはずなのに、急にどこかへ行ってしまったような。そんな形容しがたい奇妙な感覚。冷たいものが背を伝って、それが冷や汗なのだと汐莉は気がつかなかった。
 次に来た衝撃に今度は汐莉の頬の皮膚が震えた。
「いった……」
 叩かれたのだと、そこで理解する。
 手を添えてみると痺れとともに頬は熱くなっていた。先に手を上げたのは汐莉だ。だけど、かち合った視線に見えた色が気に入らない。もう一発、今度は手加減なしにお見舞いしてやる。乾いた音が鳴ったと思えば、お返しがこちらへとくる。どっちももう引かない。引いてしまった方が負けなのだ。痛みに意図せずとも涙目になるのを汐莉は意地で抑え込む。そして――。
「汐莉! 楪! やめろ!」
 振り上げた手は意図しない人へと当たった。
「よ、より、つぐ……」
 唇から零れた声はあまりに弱々しいもので。汐莉は力なく手を下ろした。
 それは、最悪の再会だった。
 


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