蒼穹の空には雲一つとして見えない。
 それ自体には特に意味はないもので、単に居心地の悪さから逃れようとしているだけだ。頼次は心の中に溜息を落とした。
「あのさぁ。これ、お土産」
 千尋は風呂敷の中から何やら白い物体を摘まんで寄越してきた。
「おまんじゅう。好きだろ? 甘いもの。あ、でももう一個しかないけど。ほら、ゆずっこと食べちゃったし」
 せっかく持って来て貰ったものをとやかく言う気はないし、向こうも悪びた様子も見せない。そんなことよりも、
「ゆずっこ? ……あぁ、楪ね」
 また妙なあだ名を付けたものだと思う。こんな短時間で仲良くなったならば意外でもあるが、頼次にしてみればなんとなく面白くはなかった。
「汐莉がさ、甲斐甲斐しくもお前のために作ったんだからさ。一つくらいは残しておかなきゃってね」
 恩に着せる言い方は昔から変わらない。しかし手間をかけて作ってくれたのだから、頼次は有難く頂戴することにした。
 口の中に広がる甘さはなんだか懐かしいような気持ちになる。少しずつ口に運んでは茶を啜って、交互にそれを繰り返す。大事に食べているのは本当の理由ではなかった。隣に腰を掛けてからというもの、頼次はまだ千尋と目を合わせてはいない。それが、何よりも理由だ。
 最後に会ったのは五年前。この琉翠りゅうすいに来る前のことだ。
 頼次よりも小さかったのに、千尋はいつの間にか同じくらいの背丈になっている。別段見栄えのするような顔立ちではないものの、屈託のない笑みも、お喋り好きなところも、人を警戒させない。昔のままだ。けれど勘のいい者は、それに気が付く。
「こっちの方が涼しいと思ったんだけど、そうでもないなー」
 日が傾いた頃でも暑さはそのままに残る。いつもなら徳之輔が打ち水をしてくれるのだが、生憎今日は留守だ。
「なぁ、聞きたい? 都のこと」
 少し含みを持たせて千尋は問うてくる。知りたいとは思わない。正直な気持ちを口に出そうとして、言う前に次の言葉が先に来る。
「なんていうかさ、人ばっか増えてごちゃごちゃしてるっていうか。あ、朝廷は何も変わりないよ。でも帝もそう長くはないんじゃないかな? 歳だし、病気だし。皇太子が位に就く日も近いっていうか。っても、そら様もどうだろうね? 身体、あんまり良くないみたいだし」
 こういう話を明け透けもなく言うところが相変わらずだと、頼次は辟易する。良く回る舌は一旦喋り出すとなかなか止まらないのだ。
 そうするうちに頼次の胃の中は重くなる。聞きたくもない話を長々と聞かされるのは苦痛でしかなかった。ところが、話はここで切れた。
 望んでもいない沈黙に頼次は隣を伺う。ちらりと見えた千尋の横顔は口元だけが見えて、それも不自然なほどの笑みだった。途端にやって来た気まずさに、頼次は空になった湯呑を回したりを繰り返す。
「なに? まだ聞きたいの? でも、雅貴まさたか様のことなんて興味ないんじゃない? 俺や、汐莉のことだって」
 明らかに見える棘にはさすがに嫌悪を感じて、頼次は声を低いものへと変える。
「なんだよ、それ」
 それが半分は当たっているから腹が立つのだ。暑さを増長させる蝉の鳴き声も、千尋が送ってくる視線も、煩わしくて堪らない。
 母が違うとはいえ、頼次の兄だ。こちらのことは常々文に認めて報告してはいるが、それに対して返事が来ることはない。だから都のことも兄の近況も、頼次が知ることはない。それを全く関係のないように切り離してしまえば、あまりに心のない人間のようだ。千尋や汐莉にしても同じだ。
「なぁ、ここってさ、琉翠の国ってどんなとこなの?」
 声にはさほど興味など入ってはいない。千尋はただ訊いているだけだ。その性格を知っているからこそ、答えるまでは逃れられない。
「静かなところだよ。人は穏やかでみんなやさしい。そんな、ところだ」
 嘘も偽りもなく、頼次は有りのままに応えた。
 春は川沿いから海に出る道まで満開の桜が迎えてくれる。夏はそれなりに暑いけれど、山に行けば涼しく過ごしやすい。川や海で泳ぐのもここの人達にとって楽しみの一つだ。秋にはたくさんの穀物や果物を収穫して、冬の厳しい寒さに備える。都ではあまり見ることのない雪もたくさん降るし、子どもたちは喜んで雪遊びをする。
 そんな何気ない幸せの中で人々は日々を送り、暮らしている。けして、贅沢な暮らしではなくても人々の顔はみな明るい。そういう国だ。それが琉翠の国で、頼次の国で。けれど、それは頼次がいなくとも作れるものだ。
「ふうん。でさ、お前はそれで、ここにいて楽しいの?」
「何が言いたいの?」
「別に。訊いてみただけ」
「なんだよ、それ」
 眉間に刻んだ皺が深くなるのを頼次ははっきりと感じた。溜息はもう口から勝手に出ていた。
「っていうかさ、あの子はなんなの?」
 おそらく、それを最初に訊きたかったのだろう。それを今更のように出す千尋の顔を、頼次は思い切り睨み付けた。
「あぁ、やっと見た。俺の顔。なんだ、目合わせること出来るんだ」
 声も表情も酷く冷たいもので、こんなにも色のないものだったのかと、頼次は息を呑む。千尋はさっきまで笑っていたはずなのにもう何もなくなっている。奪ったのは、頼次自身だ。彼は何も悪くない。何の非もないのだ。
「訳あって、少しだけ預かってる」
 頼次はうわずった声で答えた。
「へぇ、それにしては随分と懐いてるみたいだね」
 見えるのは嘲笑。
「そういう子、なんだよ」
 他に言うべき言葉など見つからず、他人事みたいに頼次は零していた。千尋は急に真顔になる。
「ねぇ、頼次。寂しいの? ここで、吉乃と徳之輔と三人でいて」
「違う、俺は別に」
「ここには澪はいない。だから寂しいんだ?」
「そうじゃない」
「寂しいからって、飼ってるの? あの子のこと」
「千尋」
 どんなに声に力を込めても千尋は臆さない。それでもわざとらしい仕草をして、わざとらしい口振りで返してくる。
「こっわ。すごい顔してるよ、今。鏡見てみる?」
 出した言葉とは違って声そのものは実に愉快そうに聞こえた。こういう顔をする。こういう言い方をする。知っている。小さい頃から、それはずっと。
「犬や猫のように言うな。楪は人間だ」
 けれど、それは軽蔑に値する。悪ふざけでは済まされない確かな悪意がそこには存在する。
「頼次ってば、相変わらず真面目」
「千尋。今のは取り消せ」
「それは、お願い? それとも命令? 後者なら従うけど?」
 千尋の目の色が変わっている。
 ぐっと、喉に詰まった声は、もう頼次の口からは出ようとはしなかった。嫌な奴だと、思う。見て見ぬ振りが出来ない壁に敢えて触れて、それを頼次に選ばせようとしている。
 先に逃げたのは頼次だ。睨み付けることを止めて、視線をどこか遠くへと流して、怒りは拳の中に閉じ込める。息を深く吸い込み、何度か繰り返したところで、かろうじて冷静さを取り戻す。千尋は横目だけでしばらく頼次を見ていたが、鬱陶しそうに前髪を掻き上げながらまた元の笑みに戻っていた。
「っていうかさ、頼次は訊かないんだな」
「何の話だよ」
 自然と声も低くなる。
「なんで、来たのかって。訊きたいのはそれだろ?」
 あぁ、本当に嫌な奴だと。心の底から這い上がってくる感情に嘘はつけず、頼次はそのままを面に貼り付ける。押し殺しても無駄だ。どうせ見破られるのだから。
「親友に会いに来るのに、理由が要る?」
 それが少なからず本心が入ったものだとしても、頼次の心にはすっと入ってはいかない。
「親友。便利な言葉だな」
 声に笑みを乗せる。けれど、頼次の顔には何も描かれてはいなかった。
 


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