「ごめんくださーい」
 突然の来訪者の声は、ゆずりはを眠りから覚ますには十分だった。
 瞬きを二回する。次にけだるさの残る身体をむっくりと起こす。こめかみから汗が流れていき、じとりと濡れた髪の毛が首回りに張り付いて厭わしい。覚醒したばかりの頭はまだぼんやりとしていて、随分と深い眠りについていたようだ。
 夏の本番を謳うように蝉の鳴き声が耳に五月蠅く、草や木の濃い緑も、肌を焼く強い陽射しも、いつもと何ら変わりがない。
 ほう、とゆっくり息を吐き出して、乱れた胸元や足元を整える。桔梗柄の着物はお気に入りのものだ。今日が特別な日ではないけれど、浅葱の色が良く似合っているといつも褒めてくれるので、楪は好んで着るようになっていた。投げ出したままの足を引っ込めて、虚ろな黒の眸は夏の午後を追う。
 夢を見ていた気がする。
 はっきりと思い出せないのは何故だろうか。あのあたたかい手のぬくもりも、やさしい笑顔も、ぜんぶ楪が好きだったものだ。
 手を、離したくないと。今、ここにはいない人のことを考える。忘れてしまうことなんて、きっと出来ないだろう。
 喉の渇きを覚えて、楪は仕方なく熱を帯びた身体を動かそうとする。立ち上がるよりも前に同じ声は聞こえた。
「あれー? 誰もいないのー?」
 騒がしい大きな足音も、その声も、聞き覚えのないものだった。現れた人は見たことのない人。つまりは、知らない人。
「だれ?」
 楪は畳の上できゅっと拳を作る。無意識のうちに作られたものは警戒心。喉から出てきた声は擦れていて上手く出てこなかった。
 楪は男を見上げる。背はさほど高くはなく、ここの主と同じくらいか、それよりもう少し低いくらいだ。濃茶色の髪の毛はこの辺りでは見ない色で、余所の国の人なのかもしれない。
「そっちこそ、誰?」
 落とされた視線は酷く冷たい。楪はこんな眸を前にも見たことがあった。
 答えようか答えるまいか。迷っていたけれど答えはもう出ていた。知らない人なのだから応える必要なんてないのだ。
 敵意も悪意も感じなくても、無を張り付けた表情はまだ信用が出来ないものだ。上から下まで値定めするような目付きは気に入らないし、癖のある口調も好きではない。その上、楪がさっと目を逸らしても、まだ追いかけてくる。
「なんなの? このちびっこ」
「ちびっこじゃない。わたしは楪」
「ふぅん、ゆずっこね」
 敵意よりは興味や関心の方が勝っているらしい。捨て置けない一言に思わず噛み付いてしまった楪に、男は楽しそうな顔を作っている。やがてそれにも飽きたのか、男は辺りを見回しだした。楪が寝ていたこの部屋には畳以外には何もないというのに。
「あのさぁ、ゆずっこ。ここ頼次よりつぐの家で合ってるよね?」
 男が同じ目線に合わせてきた。こうしてみると、最初の印象よりも若く見える。楪は応えるべきか迷っていたが、男の口から出て来た名前にはしっかり反応していた。
「正直だねー。でさ、どこ行ったか知らない?」
 嘘をつくこと。それはとても簡単なことだ。唇を少し動かせばいいだけ。でも、それではきっと逃げられない。
「おしごと」
 男はきょとんとする。理解するまでに時間が掛かるらしい。
「あぁ、なるほど。領主サマね」
 随分と棘がある言い方だった。口調は最初からそれだが、今の物言いはまた別のように楪には聞こえた。目が合う度に楪はそこから逃げようとする。
「そう警戒しないでよ。俺はさ、頼次の幼馴染なんだ」
「おさななじみ?」
「そ。昔からずっと知ってる」
 繰り返した楪に白い歯を見せて男は続けた。安心させるつもりならその手には乗らない。楪はもう少し顔を固める。
「たぶん、あんたよりも知ってる」
「そんなことない」
 思い切り睨み付けてやっても、相手は余裕の笑顔だった。
 楪は負けたくなかった。楪だって、頼次のことはたくさん知っているのだ。やさしいところ。ちょっと困った風に笑うところ。たまに見せる悲しい顔。他にもたくさん知っている。だから、こんなよく知りもしない人に、勝手なことを言われるのは嫌だった。
「ところでさ、他には誰もいないの?」
 中腰が疲れたのか、男は畳の上に胡坐をかいた。長居をするつもりならそうはいかないと、楪は少し作戦を変えてみることにする。
「いない」
 つんと首を横にして強引に話を終わらせようと試みるも、
「ふーん? 吉乃きつのは?」
「買い物」
徳之輔とくのすけは?」
「散歩」
 次に次にと問いかけられて、解放されないことに楪は疲れてきた。白旗を上げるには早いにしても、相手はなかなかの強者で、このままでは勝てないだろう。この得体の知れない男は、頼次のことも吉乃のことも徳之輔のことも知っていた。楪にもこんなにも馴れ馴れしくも話し掛けてくる。
 悪い人ではないのかもしれない。そう思った楪に、男は持っていた風呂敷を目の前に差し出した。
「そうだ。お土産持ってきたんだよ」
「おみやげ?」
 こうして人の興味を誘う言い方もこの男の特徴なのだろう。
「そ。おまんじゅう。好き?」
 この屈託のない笑顔も、それが作ったものかどうか楪には見抜けないけれど。










「あつい」
「ふーってして、冷ましてからゆっくり飲みな」
 縁側に二人並んで腰を掛けて、お茶を啜る。
 容赦のない太陽は昼を過ぎても弱まるどころかその眩しさに目が眩む。ここぞとばかりに蝉の泣き声も増している。
 夏は嫌いではないけれど、何が楽しくて、この見知らぬ男と茶を啜っているのかと、楪は思う。
「美味いだろ?」
「うん」
 それには素直に答えることにする。本当に美味しかったのだ。
粉を練って作った薄皮の中にはぎっしりと餡が包まれていて、すごく甘いけれど美味しかった。ふっくらとした小豆の粒も塩気のある生地もちょうど良いものだ。一つ、二つと平らげたところで楪は満足して息をつく。時々、吉乃がおやつをこしらえてくれるけれど、それにも負けないくらいに美味しかった。
「それさ、汐莉しおりが作ったんだよ。あいつこういうの得意だから」
「しおり?」
「あぁ、妹。俺の」
 妹というのは血の繋がった兄妹のこと。
 楪は徳之輔に習った単語を口の中で復習する。
「なぁ、ゆずっこはいくつ?」
「いくつって?」
「何歳?」
「十、四」
「十四歳? ……には見えませんなぁ」
 男が寄越す視線は興味よりも冷やかしの方が近い。
「にしても、みおとも汐莉とも違う人種だよな。そーゆー趣向だった、とか?」
 やっぱり悪い人なのかもしれない。
 楪は思い切り口をへの字に曲げた。食べ物に吊られたみたいなのも癪に障る。とはいえ、ご馳走になったのだから無下には出来ないのがくやしい。楪はそっぽを向いてしまいたいのを我慢して、代わりにぷくっと頬を膨らませた。
 指先に餡子がくっついたままでべたべたする。それよりも楪が気になっているのは別のことだ。隣の男の口から出てきた汐莉と澪。女の人の名前だ。頼次の知り合いだろうか。
 ちくりと。急にお腹が痛んできた。楪はその辺りを摩ってみる。
「ゆずっこはさ、頼次の何なの?」
 応えたくはなかった。
 声の調子は変わっていないから、これに他意はない。なのに楪のお腹は痛くなるばかりだ。
 夏の音が聞こえて、耳を塞ぎたくなった楪の代わりをしてくれる。そんなに重要なことだろうか。だって、ここにいてもいいと言ってくれたのだ。
 そして、遠くから足音は聞こえきた。速さも同じ、音も同じ。それは、楪が安心するその人だからで――。
「ゆず。ただいま」
 変わらない笑顔を見ると楪は肩の力が抜けた。同じ笑顔を返そうとして、それよりも先に頼次の表情がなくなる。
千尋ちひろ……?」
 もう一人の名を呼ぶ声はわずかに震えていた。どうしてだろう。その時、楪はとても嫌な予感がした。
「ひさしぶり、頼次」
 声はそのままで、その笑顔も先程までと同じもので。それでも確かに表情に射した黒い影を見たのだ。
 


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