後悔をしても仕方ないと。それを思い返しては、他人事のように捉えるようになったのは、いつからだろう。
 流れに任せて生きてきた。自分の意志を持って行動してきたことなどいくつあったことか。仕方ないことだとか。どうすることも出来ないとか。すぐに諦めようとする自分は嫌いだったけれど、それさえやむを得ないことだと逆らえないことなのだと、頼次はそうして今までを生きてきたのだ。
 小さな手を引いて川沿いの通りを歩いていく。
 すでに閉まった店を通り抜けて、賑やかな酒場から漏れる声を聞き流して、家路へと向かう。頼次も楪も黙ったままで。足取りはどこか重くて時間をかけるように、ゆっくりと歩いていた。
「めいわく、だった?」
 ぽつりと声は聞こえた。いつもなら合わせてくる目をこちらには向けてこない。だから頼次も楪を見なかった。
「迷惑じゃないよ」
 それは嘘ではなかった。「迷惑でなければ預かってほしい」と。前置きをされて爽麻そうまに頼まれて引き受けたのは頼次だ。
 爽麻が都に行くらしい。どんな要件があるのかを頼次は深く訊くことはせず、されど用事を済ませて戻って来るまでには半年はかかるそうだ。その間に楪を一人きりにするわけにはいかず、とはいえ彼女はどうしても首を縦には振らなかったという。
 だから、カグヤという人を捜しに出たのか。そうして迷子になってしまったのか。
 どんな事情があったとしても頼次には直接関係のないことではある。
 断る理由なんていくらでもあるはずなのに、頼次の口からは出てこなかった。性格上断れないのは言い訳の一つ、同情心からではないのもまた確かで、故に頼次の心を乱していた。
「あの、ね。似てると思ったの」
「似てるって? 誰に?」
 思った以上に冷たい声が出てきた。だから、返事は返ってはこなかった。
 先の爽麻にも同じことを言われたから、それはきっとカグヤという人のことなのだろう。だとしても、やはり頼次には無関係だ。
 会話が途切れてしまえば途端に気まずさがやってくる。頼次は空を見上げた。今宵の月もよく見えるものの、月を楽しむより前に身体が寒さに負けてしまうだろう。春寒の夜風はとにかく冷える。まだ蕾もない木々も寒そうに揺れていた。
「さくら?」
「うん、そう。桜の木」
 今は何も特別なことはない風景でも満開となれば彩り美しく、観る者の目をそれは楽しませるはずだ。
「あともうひと月くらいかな」 
「見たいな、さくら」
「うん、そうだね」
 一緒にと、続けるような声は出せなかった。底意地の悪さに辟易する。頼次は溜息をついた。
「楪」
「なに?」
 返事はすぐに聞こえてくる。
 鈴を鳴らしたように愛らしい声だ。可愛らしい少女。今はまだ幼くても、もう二、三年もすればそれは男たちが放ってはおかなくなるような、そんな美しさを感じさせる少女だ。美しいものを手元に置いておきたいという気持ちは分からなくともない。けれど、彼女は出会ったばかりの他人でしかないのだ。
「どうして一緒にいたいって思ったの?」
「どうしてって?」
 訊き返されて頼次は言葉に詰まる。そんなことを訊く方がおかしいとばかりに楪は訴えてくる。真っ直ぐな眸に見つめられて頼次は引こうかとも思った。それでも、思いを伝えなければならない時だってある。
「だって、会ったばかりだろう? 俺と楪は」
「会ったばかりだといけないの?」
「知らないだろう? お互いのことを」
「知っていたらいいの?」
「知らない人とはすぐには一緒にはいられないよ」
「でも、頼は仲良しって言った」
「あれは、その……」
 なかなかの強者で、きっと理屈では通じないと、頼次は白旗を上げようとした。あだ名だってその場しのぎのもので、大した意味なんてなかったのかと思うと急に心が苦しくなった。「うそつき」と言われてもないのに責められている気分になる。
 曇りのない純真の色。見つめられては目を逸らせなくなる。答えを望む癖に、自分の納得する答えでないと彼女はきっと許してはくれない。
「頼は知らない人と一緒はいや?」
「嫌じゃない、嫌じゃないけど」
「じゃあどうして? 好きじゃなければ一緒にはいられないの?」
「違うよ、それは」
「じゃあ、どうして?」
 尋問されているようだ。
 質問したのは頼次で、訊きたかったのは楪の気持ちなのに、彼女は答えることもなく逆に問いかけてくる。理由なんてそんなに必要なのかと、遠慮することなく訊いてくる。
「他人、だから? よその子だから? 家族だったらいいの?」
 そうだよ、と。言ってしまって早く楽になりたかった。
 他人じゃなければいいのか。家族であればいいのか。身内だったならば。嫌いじゃなければ、好きだったならば。愛していたならば。大切だったならば。
 それを手離してきたのはお前自身じゃないか。
 また、あの声が聞こえる。
 好きだなんて言えなかったくせに。守ろうともしなかったくせに。今更、お前に何が出来る? 何も出来はしない。だから、手を離してしまえばいい。
 頼次は否定をしなかった。
 ここでまた逃げ出してしまえば、きっと楽になれるだろう。罪悪感に蝕まれても、忘れてしまえばいい。そうして生きてきたのだから。
 それを、幸せだと言うことが出来るのか?
 また違う声が聞こえた。頭の中で響いたのは爽麻の声だ。
 閉ざされた世界で与えられるままの生。そこには自由などない。声を失い、笑うことも忘れて、そうして生きて受け入れて。それが本当に幸せだと言えるのか? と。
 それは彼の過去だったのかもしれない。それは楪のことだったのかもしれない。あるいは頼次自身に。問われた時に頼次は応えることが出来なかった。
「頼、あのね」
 迷いのない声はやさしさを帯びている。
「嬉しかったの。手、離さないでいてくれたから。今も繋いでくれてるの。だからね。やさしいって思ったの。頼のこと」
「そんなことない」
 そんなことはないんだと。口の中で頼次は繰り返した。
「俺は、楪が思っているような人間じゃないよ。別にやさしくもない。いざとなったらまた手離すんだよ、きっと。そんな風に生きて来たから。別に変えようとも思わないし、」
「それでも、やさしいって。思ったの」 
 頼次はその顔をまじまじと見つめた。
 月明かりに照らされた儚げな少女は「どうして?」と問う。明け透けのなさに気が付けば頼次は笑っていた。
「ああ言えば、こう言う」
「ああ言えば?」
「そういうの、屁理屈っていうの」
「ちがう。ほんとのことだもの」
 口撃についに頼次が観念しようとした時、楪もまた笑った。
「頼はやさしい。だからすき」
 ふわりと。花が咲くように。彼女は笑う。瞬きも出来ないほどに釘付けになる。
 すきという言葉には色気など含まれてはいないだろう。思慕だとしても、妹が兄を慕うようなそんな気持ちの表れだ。
 けれど、何故だろう。空になった心にじんわりと染み入るような。甘くてあたたかくて、やわらかくてくすぐったくて。この手を離してしまえばもう二度とは手に入らない。そんな気がした。
 あの時、繋いだ手も温かかった。離してしまったのは、頼次だ。その笑顔を奪ってしまったのも頼次だ。もう、過去は戻らない。それでも――。
「帰ろうか、ゆず」
 声に返事はなく、代わりにぐーっとお腹の虫が鳴った。恥ずかしがることもなく、きょとんとする少女が愛らしくて、可笑しくて。頼次はもう一度笑った。
 理由など、後から考えればいい。そうしてまた自分への言い訳染みた声をする。
 ただ、それは偽りとは違う。正直な思いだ。楪の無垢な笑みを見て、頼次はそこから先を考えないようにした。  


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